第5節 別れ
黄巾賊の三人組は、慶次郎に頭を下げた。
「旦那、どうもお世話になりやした」
「わしは何もしておらん。こちらこそ、いろいろと教えてくれて助かった。礼を言う」
慶次郎が頭を下げる。三人組も、慌ててもう一度頭を下げた。
星は慶次郎の後ろに一歩下がって立っている。そして、半刻(一時間)前の慶次郎と三人組のやりとりを思い出していた。
◆◆◆
結局、慶次郎は四人から真名を受け取らなかった。いや、星からは強制的に受け取らされている。既に聞いてしまったし、その名で呼んでしまった。しかし、それ以上はどうしても真名を受け取ろうとしなかった。
そして星も含めて、慶次郎は四人が彼の下につくことを認めようとはしなかった。そんな慶次郎に、ノッポは恨み言を言った。
「結局、旦那みたいな偉いお方には、わしらみたいな野盗崩れは用なしってことですかい」
「あ、兄貴!」
デブが慌ててノッポを抑えようとする。その腕を振り払って、ノッポは続けた。慶次郎の顔が見れない。地面を見つめながら、口から呪詛がこぼれていく。言ってはいけない、そう思いながら止まらない。
「どうせ、わしらは虫。しかも、害虫ですからね」
「おい」
慶次郎の声がした。顔を上げた。目の前に火花が飛んだ。何だかわからなかった。しばらくして、慶次郎にビンタを食らったことに気づいた。
「な!」
つっかかろうとするノッポに、慶次郎は静かに言った。
「なあ、ノッポ。お前、虫をきちんと見たことがあるかね」
「え?」
「全力で生きてるぞ。どんなときも、生き抜くために必死だ。そうして命をつなぎ、子どもにその命を伝えていく」
「……」
「わしはな。生きることが一番素晴らしいことだと思っている。後悔することもあるじゃろう。だが、それを乗り越えることも生きていればこそできることよ」
「だ、旦那」
「お前は確かに虫かもしれん。だが、わしもまた虫じゃ。虫同士じゃ。どちらが偉いかどうかなんて、関係あるものかよ」
そう言うと、慶次郎は頭を下げた。
「お前のような部下がいれば、わしも心強い。しかし、今のわしにはその力はない。お前を養えん。お前が、わしに抱いている何かを、今のわしには実現できん。すまん。だから」
頭を上げると、慶次郎は照れくさそうに横を向いた。そして、アゴをかきながら言う。
「わしにその力がついたら、訪ねてこい。そのときは、第一の部下にしてやろう」
「だ、旦那!」
「……慶次郎殿。私の立場は?」
「おぬしは、わしの女ということでどうじゃ」
星は口を開けたまま固まった。その顔を見て、慶次郎はノッポの耳に口を寄せる。
「冗談、また通じなかったかのう」
「旦那。逃げた方が良いかと思います」
慶次郎が振り返ると、そこには鬼のような笑顔を浮かべて槍を構える星がいた。
◆◆◆
三人組が振り返り、振り返り離れていく。慶次郎はその度に、律儀に手を振り返す。その頭には、大きなたんこぶがある。
その隣で、星は慶次郎に問うた。
「さきほどの件、本気ですか?」
「ん?おぬしをわしの女にするということか?」
「もう一つ、たんこぶを増やしたいのですか?」
「断る」
「まったく……」
納得のいかない気持ちのまま、星は言葉を続けた。
「彼らを部下にするということですよ」
「さあて、な」
「そもそも、あなたはこれからどうするおつもりで」
「さあて、な」
三人組が、また振り返る。
慶次郎は笑顔で、大きく手を振る。
星はため息をついた。
そんな星に、慶次郎は言う。
「天が」
「天が?」
「決めるだろうさ、そんなこと」
「天が……」
星は、空を見上げた。
◆◆◆
慶次郎たちの姿が地平線の向こうに消え去った頃、三人組は小沛から見て東の方向に向けて急いでいた。その方向には、故郷の村がある。すでに日は落ちかけ、夕日が彼ら三人の大きく長い影を作っていた。
もう、黄巾賊に戻るつもりはない。それより、荒れ果てた故郷の村を、自分たちの手で元に戻そうという意気込みに三人は燃えていた。
自分たちは虫かもしれない。それでも、村の子どもたちのために、できることがあるはずだ。慶次郎の言葉を思い出す。自分たちが死んだ後でもいい、彼らが笑えるように、喜んで虫として死んでいこう。
そして、機会があったなら。もし旦那が国を建てたなら、そのときは――。
「ん?」
ノッポは空を見上げた。空が白く輝いている。まるで、旦那が現れたときのように。次の瞬間、空から白い光が流星のように「落ちてきた」。そして光が消えると、若い男が呆然と座っていた。その服は、夕日を浴びてきらきらと白く輝いている。
あの男も、天の御遣いだろうか。
きょろきょろと辺りを見渡している。
無理もない。不安なんだろう。
しかし、大丈夫。旦那がいる。
きっと、旦那と同じ場所から来たんだろう。じゃあ、仕方ないな。旦那のところに、連れて行ってやろう。仕方ない、仕方ない。
もう一度、旦那に会える。そう思うと、ノッポはうれしくなった。デブとチビの顔を見た。すぐにわかった。こいつらも同じ事を考えている。
もう、ぐずぐずしていられなかった。三人は若い男に向かって全力でかけだした。槍を持った手を、ぐるぐると振る。
「おーい!」
若い男が、こちらに気づいた。夕日に照らされたその顔は、引きつっている。座ったまま、必死で後ずさった。
む、コイツ、もしかして俺たちを――。
そこで、ノッポの意識はとぎれた。
◆◆◆
身体が動かない。
何が、起きた。
ノッポは鉛のように重いまぶたを開ける。目線は地面の上だ。目の前に、デブとチビが倒れている。
わかる。
助かるまい。
そのくらいは、わかる。
そのくらいに、殺してきた。
視線を移す。若い男の前に、黒髪の若い女性が片膝をついている。その隣には、血に濡れた青龍刀のようなものがある。あれで切られたのか。その女性の後ろには、桃色の髪のやはり若い女性、そして子どものような体躯の、槍のようなモノをもったやはり若い女性が立っていた。
野盗か何かと、間違われたか。
よりによって、人を助けようとして……。
慣れないことは、するもんじゃねえ……な。
これも天罰……なの……か……。
ノッポは、デブとチビに目を移した。彼らの顔は、既に土気色になっていた。見れば、肩から腹にかけて一直線に大きく鋭利な傷口がある。何とも見事に斬られたものだ。恐らく、自分にも同じような傷口があるのだろう。しかし、もはや何も感じなかった。
とりあえず……こいつらと一緒に死ねる……。
虫にしては、ましな死に方か。
ねむ、い。
もう、いいだろう。
寝て、しまおう……。
ノッポのまぶたが閉じかけた時、チビがつぶやいた。
「そ、そらの」
デブが反応した。
「そ、そらの」
ノッポが続けた。
「――かなた、へ」
◆◆◆
三人組が別れを告げる前。星が「ちょっとお待ち下され」と赤い顔で林の中に消えていった。だいぶ飲んだし、そういうことだろう。ふと、ノッポは聞いてみた。
「旦那は、これからどうするつもりなんで」
「うーん」
慶次郎は、頭の後ろに手を組んだ。
「わからん!」
「わからん?」
「いや、わかっているような、わかっていないような。……わしも悩んでいる」
ノッポは少しうれしくなった。旦那ですら、悩む。
「だけどな」
「はい」
「いつの日か、必ずやってみたいことは、ある!」
「はい」
「見ろ!」
慶次郎は両腕を大きく広げると、周りをぐるっと見渡した。ノッポにとっては見慣れた風景である。そして、吠えた。
「空が果てしなく続いている!地が果てしなく続いている!どこまでも行ける!」
「どこまでも……」
「ここならば!わしは全力で、どこまでも行けるだろう。この命が尽きるまで、前に進めるだろう」
「命尽きるまで……」
「そう、わしは空の彼方まで行ってみたいのじゃ!」
慶次郎は目をキラキラとさせている。ノッポは思う。この人ならば、行ける。きっと、空の彼方まで行ける。
「そ、そのときは」
「ん?」
「わしも、わしもついていっていいですかね?」
ノッポが夢見るような顔でたずねる。慶次郎はにっこり笑った。
「応ともよ!」
「わ、わしも!」
デブが続く。
「お、俺も!」
チビも続く。
「応!」
慶次郎は答えた。そして四人は、笑った。地平線を眺めながら、指さしながら、笑った。
◆◆◆
北郷一刀は、何が何だかわからない状況にあった。
寮のベッドにダイブしたつもりが、気がつけば見知らぬ場所にいた。そして野盗のような三人組が現れたかと思うと、いきなり槍を振り回しながら迫ってきたのだ。彼らは夕日を背にしていたから、その表情はわからなかったが。
必死に逃げようとしたその刹那、背後の森から飛び出してきた長髪の美少女が、あっという間に彼らを切り伏せたのである。間一髪だった。
野盗たちはぴくぴくと動いている。何かうわごとを言っているようだ。その言葉を遮るように、長髪の美少女――関羽と名乗った――が話を続ける。
「ですから、あなたは天の御遣いなのです」
「いや、そんなこと言ったって」
「あなたは予言者の管輅の言うとおりに、この地に現れました。そして、管輅の予言は外れたことがございません」
「いや、でも、そんな……」
混乱する一刀に対して、関羽はため息をついた。
「とりあえず、ここから移動しませんか。もう、日が暮れます。それに、この辺りには黄巾賊の連中がうろついています」
「黄巾賊?」
「はい。弱きを襲い、漢を脅かす不逞の輩。いわば、世の害虫です。先程、あなた様を襲おうとした連中です」
「害虫……」
一刀は、倒れている野盗たちを改めて見た。落ち着いて見れば、黄色いはちまきをしているだけのただの農民にも見える。だが、その手には粗末であるとは言え、槍が握られているのも事実だった。
桃色の髪の少女が言う。
「それじゃ、小沛に戻ろっか!」
「お待ち下さい」
「ん?何?愛紗ちゃん」
「小沛は、予言がなされた場所です。当然、多くの人たちが天の御遣いに関心を抱いています。そうした場所に、いきなりお連れするのはどうかと思います。きっと、混乱を招くでしょう」
一刀に対して膝をついた姿勢のまま、愛紗は長姉にそう告げた。しかし、伝えていない部分もある。
管輅の予言は、いまや国中を駆け巡っている。それでけ、この世の中に対する憂いは強いのだ。その予言に現れた「天の御遣い」に対する中華の人々の関心――希望は計り知れない。
小沛につれていけば、天の御遣いを欲する人々に、きっと彼は取られてしまうだろう。あの、私利私欲にまみれた連中に。彼らは天の御遣いを担ぎ、それを御旗としてこれまで以上に権力争いに没頭するに違いない。官もまた、腐っている。
この若者をそうした連中に渡してしまうのは、まさに宝の持ち腐れ。いや、害にしかならない。天の御遣いは、真にこの国を憂い、正そうと思っている人々にこそふさわしい。そう、私たちにこそふさわしいのだ。
今は、あまりにも力がない私たち。そんな私たちが義勇兵を集めるには、そして世に認めてもらうためには天の御遣いという名の御旗は不可欠だ。汚れ役は、私が引き受ける。中華の平和のために、人々の笑顔を取り戻すために、そして桃香様の理想を叶えるために、私は天の御遣いを利用する。後ろ指を指される覚悟はできている。そして――。
「あの人」の希望を汚した黄巾賊を
見棄てた官吏どもを
私は決して許さない。
愛紗は、血に濡れた青龍偃月刀を手にすると立ち上がった。
◆◆◆
「下邳に、向かいましょう。あそこなら、知人がいます。住む場所にも当てがあります」
「じゃ、そうしよっか!」
「わかったのだー!」
三人が歩き出した。慌てて、一刀もついていく。ふと、倒れている野盗たち――黄巾賊たちを振り返った。もう、彼らは動かない。だが、かすかに微笑んでいるように見えた。
死んでしまったんだ。
それまでは、自分が殺されなかったことに対する安堵だけを感じていた。しかし、その安らかな死に顔を見て、初めて心が痛んだ。自分は確かに「助かった」。けれども、同時にそれは彼らを殺すことだった。
自分がここに来なければ、彼らは死ななくてすんだんじゃないだろうか。
それとも、関羽たちが来てくれなければ、やはり自分が死んでいたのか。
「天の御遣いさまー!?」
劉備の心配そうな声が聞こえる。気がつけば、立ち止まっていたようだ。三人が振り返ってこちらを見ている。
出会ったばかりの自分を待ってくれている。海のものとも山のものともつかぬ自分を案じてくれている。誰も頼れないこの世界で、今はただ、そのことが単純にうれしかった。
「今、行くよ!」
一刀は地に伏した三人に向けて手を合わせると、劉備たちに向かって走り出した。
◆◆◆
夜の帳が降りた。
草原に、季節外れの鈴虫の鳴き声が響き始めた。
若虫なのだろうか。その鳴き声は、ぎこちない。
けれども、いかにも楽しげで――。
まるで、夢でも見ているかのようだった。