第1節 決着
「どうする。続けるか?」
「へ、へっ……」
慶次郎の呼びかけに、周倉は荒い息で答えた。彼は今、仰向けに倒れている。自分を殴り倒した相手は、隣にあぐらをかいて座り、痛そうに顎をさすっていた。
周倉は大の字になったまま、空を見上げる。抜けるように青い、初夏の空だ。時折吹き抜ける風が、疲れきった体に心地良い。
こんなに気持ちのいい日に殺し合いをする。
人間って奴は、本当にどうしようもねえなあ。
そんなことを考えながら、起き上がろうとした。
ああ。動けねえ。まったくもって、動けねえ。
それは思ったよりも爽快な気分だった。
「ちと、無理なようですな」
「ほう。わしの勝ちか?」
「ああ。大将の勝ちだ」
その言葉に、劉備軍の間から喚声が上がる。黄巾賊たちは無言である。だが、彼らは胸を張っていた。当然だ。結果として奇襲によって敗北を喫したものの、彼らの将はその五百の兵で八千の兵から砦を守りきった。そして二人の類い希な敵将との一騎打ちに応じ、最後まで戦いきった。それが誉れでなくて何であろう。
勝負が終わったのを見て、裴元紹が周倉に近づいてきた。そして、その顔を上からのぞき込むとうれしそうに言った。
「珍しいねえ。あんたが素直に負けを認めるなんて」
「そう、言うねい」
「可愛いよ、あんた」
そう言うと、裴元紹がにっこりと微笑んだ。周倉の顔が真っ赤になる。
二人を見て、黄巾賊たちの中で笑いが起きる。劉備軍の中にさえ、思わず吹き出す者がいた。そのことに気づき、彼らはお互いに顔を見合わせる。敵と味方だった。殺し合った者同士だった。
けれども、戦は終わったのだ。そんな思いが、彼らの中に広がっていった。愛紗はそんな彼らの姿を見ながら、かつて慶次郎と杯を交わした際に告げられた言葉を思い出していた。
『世を憂い、悩み、そして正そうと思っているのは……おぬしだけではない』
本当に、そうかもしれない。
黄巾賊が兄を無残に殺したことは、決して忘れない。その恨みは、決して消えはしない。けれども、そんな彼らと手をつなぐ勇気がなければ、この世に平和をもたらすことなどできはしない。気に食わない奴らを皆殺しにした結果を、平和を呼んでいいわけがない。
敵と味方に分かれていても、その奉ずる正義のかたちは違くとも、目指す場所が一緒であるとするならば。私たちは、手を取りあえるかもしれない。ようやく、愛紗の中で黄巾賊に対するわだかまりは溶けようとしていた。
そして、改めて慶次郎のことを想った。あの人のおかげで、自分はこんな風に考えることができている。やはり、これは「運命」というものではないだろうか。そう考えて、愛紗の顔が赤らんだ。もし、これが運命だとするならば、いつの日かその隣に――。
そんな彼女の視線の先で、慶次郎は周倉に話しかけた。
「わしの勝ち、か。ならば、周倉。わしの願い、聞いてくれるか?」
「俺にできることであれば、何なりと」
次の瞬間、愛紗の背筋が凍った。
◆◆◆
「おぬしの知る黄巾賊の中に、ノッポ、デブ、チビの三人組はいなかったか」
「三人組?」
「ああ。絵に描いたような三人組よ。まあ、馬元義殿にも聞いたのだが」
「……」
「徐州黄巾賊の元締めだった馬元義殿も知らなかったことじゃ。おぬしも――」
「――知ってるぜ」
「おお!それは助かる」
慶次郎は笑顔を浮かべると、自らの膝を叩いた。周倉は大の字のまま、慶次郎に問う。
「で、大将。その三人組にどのようなご用件で?」
「ああ、そのな」
慶次郎は、横を向くと恥ずかしそうに頬をかいた。
「わしが俸禄を得たら、部下に迎えてやると約束したのよ。で、首尾良く華琳――曹操殿の世話になることになったのでな。その、約束を果たそうと探しているのじゃ」
「んふふっ。大将らしいな」
「ちゃかすでない」
ごまかすようにその顔の前で手を振る。そして、いつもよりも早口で周倉に尋ねた。
「で、どこにおる?もしや、砦の中に一緒に篭もっていたのか?一見したところ、見当たらなんだが」
「奴らがいるのは、砦の裏さ」
「裏?」
「ああ。土の中だ」
慶次郎は口を閉じた。辺りを沈黙が支配する。やがて、周倉が口を開けた。
「二年……いや、一年半ぐらい前のことだったか。『天の御遣い』が徐州は小沛の街の近くに降臨するっていう、管輅の予言があった。俺も、この世をどうにかしたいと思う輩の一人だ。できれば一目お目に掛かりたいと、小沛の街の近くを探していたのさ。結局、『その時』は会うことができなかったが」
そう言うと、周倉は裴元紹の手を借りてその上半身を起こした。体中に走る痛みに、思わずその目を閉じる。そしてどうにかその痛みを堪えると、慶次郎の顔をじっと見つめた。
「代わりに、仲間の死体を見つけた」
「……」
「ノッポ、デブ、チビの三人組だった。初めて見る奴らだったが……見事に一刀で斬られていたよ」
「……」
「この徐州でも、黄巾賊は蛇蝎の如く嫌われている。歩けば、その死体を目にすることは珍しいことじゃない。かといって、そのまま放っておくわけにもいかない。だから俺は、そういう死体はここまで運んで砦の裏に葬ることにしているのさ」
「――そうか」
「すまねえな、大将。こんなことを聞かせることになってよ」
「いや。恩に着る」
そう言うと、慶次郎は腰から脇差しを抜いた。
◆◆◆
「慶次殿!?」
星が思わず足を踏み出したとき、慶次郎はその脇差しを頭の後ろに回した。そして、その髻を断ち切った。髪がざんばらに広がっていく。
「のう、周倉。三人組を葬った場所は憶えているか」
「だ、大体は」
「そうか。これは手向けじゃ。供えておいてくれ」
慶次郎はそう言うと、周倉の前にその髻を置いた。動けない周倉の代わりに、裴元紹がそれを拾う。そして、その懐から取り出した布に丁寧に包んだ。それを見て、周倉が尋ねる。
「そんなに、立派な奴らでしたか」
「いや。どうしようもない奴らであったな」
「へっ?」
「奴ら、このわしから追いはぎしようとしおった」
慶次郎は穏やかに笑った。
「この世界――いや、国に来て、最初に会った奴らだ。そして」
「そして?」
「酒を交わした最初の友だった。いつの日か黄巾賊を抜けて、故郷の村に帰ると言っておった。そして、村の子どもたちの将来のために生きたいと」
「……」
「周倉、感謝する。よくぞ、奴らを葬ってくれた。礼を言う」
そう言うと、慶次郎はあぐらをかいたまま深々と頭を下げた。そしてゆっくりと顔を上げた。その表情に、涙はない。いつもの慶次郎と同じように見えた。
「のう、周倉。おぬしの願いは、何じゃ?」
「へっ?」
「おぬしはわしの願いを叶えてくれた。正直、このままでは心苦しい。申せ」
「し、しかし」
「さあ、申さぬか。申さぬと斬るぞ」
「はあ」
その勝手な物言いに、周倉は苦笑する。だが、彼の気持ちも分かるような気がした。そうすることで、今の気持ちを晴らしたいのだ。
人が死ぬのは必然だ。無頼となれば、なおのこと。
だからといって、それが悲しくないわけがない。この人も、自分と同じ人間なのだ。こんなにも強く、自由であっても、その心の感じようは自分と変わらない。周倉はうれしいような、悲しいような気分になった。
そして、自分の願いのことを思った。それは仮に先の喧嘩に勝ったとて、頼むことを躊躇するような願いであった。頼めば、彼はきっと全力でその実現のために尽力してくれるだろう。そういうお人だ。
そして、場合によっては今の彼の主――曹操に首を刎ねられることになる。
だが、嘘を言うわけにはいかない。そういう喧嘩だったのだ。周倉はその動かぬ体を動かした。ゆっくりと前屈みの格好になると、左手を前に伸ばして地面に置いた。そして、同じように右手を伸ばした。そして、最後にその頭を地面にこすりつけた。
◆◆◆
「無理を承知でお願いしたい。大将、俺らの頭を助けてやってくれねえか」
「頭?」
「ああ。張角、張宝、張梁の――『三姉妹』さ」
「――姉妹、と言うたか」
「ああ。黄巾賊の頭は、三人の嬢ちゃんたちなのさ」
頭を下げながら、周倉の体が震える。
「ただの、食い詰めた、農民の娘さ。親を殺されて、行く場を失って、それでも、それでも同じような奴らを助けようと頑張ってやがる」
「……」
「やってることは、たちの悪い盗賊さ。頭の悪い小娘と、食い詰めた農民崩れ。やることなんて限られてる。だけどよ。俺は嬢ちゃんたちを見ていて、恥ずかしくなった」
「……」
「俺は、大人さ。侠さ。けれど、こんな世になるまで何もしなかった。自分のことばかり考えてきたんだ」
「……」
「小娘たちにつけを回したのは、俺たちだ!あんなガキどもが大勢の人を殺す羽目になったのも、国を壊す羽目になったのも、そして皆から恨まれる羽目になったのも、みんな――」
そう言うと、周倉はその大きな右手で地面を叩いた。しわぶき一つ聞こえない。誰もが、周倉の独白に聞きいっていた。そして、その忸怩たる思いに多かれ少なかれ共感していた。
突然、国が傾くわけがない。予兆があった。だが、誰もが自分の生活にかかりきりで、そのことに見ないふりをしてきた。誰かがどうにかしてくれるだろう。それが積み重なって、崩れたのだ。
周倉の肩をそっと抱く手があった。慶次郎の手である。
「もう、良い」
「た、大将……」
周倉が震えながら頭を上げる。その大きな顔は血と、汗と、そして涙にまみれていた。
「おぬしの言葉、響いたぞ」
「大将」
「わしも、何もしてこなかったさ」
そう言うと、慶次郎は立ち上がった。そして振り返ると、地面から大刀を拾って腰に差した。松風が近づいてくる。慶次郎は朱槍を地面から引き抜くと、松風に跳び乗った。そして、周倉に向かって言った。
「確かに、任された」
「!」
「怪我の手当でもして、吉報を待つが良い」
「た、大将……!」
周倉は改めてその頭を地面にこすりつけた。その背後では、捕縛された黄巾賊たちが次々に膝をついた。そして、その皆が地面に頭をこすりつけた。徐州の兵たちは動けない。ただ、あ然として彼らを見るばかりである。
「愛紗」
その声に、愛紗は人形のようにその首を動かして馬上の慶次郎を見上げた。その顔は蒼白である。
「こやつらのこと、頼む」
「……」
「愛紗?」
愛紗はその大きな黒い瞳を潤ませて、口を開こうとした。しかし、その口はぱくぱくと動くばかりで声を発しようとしない。慶次郎は、その隣に立つ星に視線を合わせた。星は首を振る。彼女にも、愛紗が急にこうなった理由がわからなかった。
慶次郎は眉をひそめた。中華に冠たる武神が、このような表情を見せている。尋常なことではない。本来なら、すぐさまその原因を探るべきだった。
だが、彼に時間はない。華琳の本軍は、黄巾賊の戦力が整う前にその本拠地を叩くべく青州に急いでいる。今すぐここを発たねば、戦いが始まる前に追いつかない。できるだけ早く華琳に会い、三姉妹を救うために掛け合う必要があった。一瞬の逡巡の後、慶次郎は出立を決める。
「星。わしは急がねばならぬ。後のこと、任せた」
「はっ!」
「愛紗。後で話を聞く。すまぬが、先に行かせてもらうぞ」
慶次郎はそう言うと、愛紗の側を通り過ぎざまその肩を軽く叩いた。体がびくりと反応する。その顔に生気が戻った。
我に返る。まるで、金縛りが解けたようだ。慌てて愛紗は振り返ると、大声で叫んだ。
「慶次殿!」
だが、そこに慶次郎はいなかった。山道を駆け下りる馬蹄の音が聞こえる。愛紗は必死で馬を探す。砦攻めである。あいにく、近くに馬はいなかった。今から馬を準備して追っても、松風の足には追いつくまい。
愛紗は膝をついた。