第5節 喧嘩
「化け物か。貴様」
賛辞ともとれるような響きを込めて、愛紗はつぶやいた。
打ち合いを始めてから四半刻(約三〇分)。大男は全身を血で濡らしてなお、毅然として門前に立ちはだかっている。
◆◆◆
小柄な女――裴元紹の矢が尽きると同時に、愛紗は攻勢に出た。矢の援護を失って面と向かって打ち合えば、その剣戟の速度は比べようもない。やがて、打ち合いは一方的なものとなった。どうにか急所は死守するものの、周倉の黒い肌には無数の切り傷ができていく。
相変わらず、両足を前後に踏ん張り、両手で大鉞をしっかりと構えている。だが、その荒い息は隠しようがない。その体から流れ出た血は、彼の足下に地面に血だまりを作った。常人ならば、すでに事切れてもおかしくないと思われる血量である。
もはや、余力があるようには思えない。愛紗は兵士たちを下がらせると、周倉に向けて青龍偃月刀を突きつけた。
「よくぞ、ここまで戦った。その名、憶えておく。申せ」
「ぺっ」
周倉は横を向くと唾を吐いた。血まみれの唾液が地面に広がる。愛紗がその流麗な眉をひそめた。その顔を見て、周倉は鼻で笑う。
「小娘に名乗る名なんざ、持ち合わせちゃいねえよ」
「そうか」
その時、砦の中でどよめきが起きた。今度は周倉が眉をひそめる番であった。罵声と、刀がぶつかり合う音がする。愛紗は、哀れみを込めた表情を周倉に向ける。
「仲間割れのようだな」
「……」
「だが、賊なればそれも当然。恥じることはない」
そう言うと、愛紗は青龍偃月刀をゆっくりと大上段に振りかぶった。周倉もまた、その大鉞を右後ろに大きく振りかぶる。そして、背後の女性にちらりと視線を移した。目で会話を交わす。裴元紹は、小さく頷いた。
「……勝手に、死ぬんじゃないよ!」
そう叫ぶと、砦の中に走り込んでいく。騒ぎを収めようというのだろう。彼女が砦の中に消えたのを見て、愛紗が周倉に告げる。
「さて、決着を付けるか」
「ご託はいいから、さっさとかかってこいや」
「では」
◆◆◆
氷が割れるような音がした。次の瞬間、周倉から見て右側にある岩壁がまるで爆発したかように煙を上げて崩れる。
「……!」
周倉は目を見張った。彼の脳天に打ち込まれた青龍偃月刀。それを大鉞でかろうじて打ち返した。だが――。
「ようやく、割れたか」
目の前の女が涼しい顔で言う。周倉は手元の大鉞に目を落とした。下半分しか残っていない。上半分は、恐らく岩壁の煙の中にある。
この女、大鉞の刃を両断しやがった!
「不思議なことではない。同じ場所に何度も打ち込めば、鉄とて割れる。それが道理」
「は……」
周倉は内心呆れた。あの打ち合いの中で、我を失ったような態度を見せておいて、この女は大鉞の一点を狙って打ち込んでいたというのか。何という技量。まさに、武神。思わず、笑みがこぼれた。
なるほど。ここが、俺の死に場所か。
「たまんねえな、おい」
「なんだと?」
愛紗の問いを無視して、周倉は大鉞を右肩に担ぐと、大きく息を吸う。そして、一気にその空気を吐き出した。
「うおおおおおおー!」
その雄叫びに、門前の空気が奮える。次の瞬間、周倉は狂った雄牛のように愛紗に向かって走り出した。その表情に、愛紗は覚悟を読み取る。青龍偃月刀を改めて大上段に大きく振りかぶると、猛牛の到来を待ち構えた。
ここで、決着がつく。砦の塀の上の黄巾賊たち、そして愛紗の背後の徐州兵たち。皆が固唾を呑んでその瞬間を持つ。そして、両者はその全力を持ってその得物を振り下ろそうとした。
「うおっ!」
「なっ!」
その刹那、両者の中間地点の地面が、突如爆発した。土煙が上がる。二人が両足を踏ん張ってその足を止めた。その足下の土が盛り上がる。
そして土煙が晴れた時。そこには、巨大な朱槍が突き刺さっていた。
「心せわしき奴よ」
「「!」」
「勝手に死ぬなと、言われなんだか」
その声に、周倉は思わず振り返る。砦の門前には、巨大な黒馬にまたがった懐かしい男がいた。
◆◆◆
「……た、大将!」
「おう、久しぶりだな。周倉」
慶次郎が松風から飛び降りる。その背後から、小柄な人影が飛び出した。
「あんたー!」
裴元紹である。彼女は周倉に走り寄ると、涙目でそのふくらはぎを思いきり蹴った。
「痛っ!や、やめてくれよ」
「なに、勝手に死のうとしてんのさ!」
「あ、いや、その、な?」
「な?じゃない!」
再び裴元紹が周倉のふくらはぎを蹴る。周倉が悲鳴を上げる。両雄の死闘が、いつのまにか夫婦喧嘩になった。場の雰囲気が、一気に弛緩する。
「慶次殿!」
「おう、愛紗か。久しいな」
愛紗は一年半ぶりに見る想い人に駆け寄った。
「ど、どのようにして、砦の中に?」
「ん?それはだな――」
「山頂の鏡池から続く間道があるのだ、愛紗」
「星!」
慶次郎の後ろから現れた旧友、星の姿に愛紗の顔がほころぶ。彼女の後ろには、白鎧で揃えた曹操軍の姿が見えた。なるほど、先ほどの騒ぎは仲間割れではなく、砦の背後から慶次郎たちが侵入してきたことによるものだったか。
「砦内の黄巾賊は?」
「ああ、制圧した。皆、おぬしとあの大男の戦いに夢中だったから、意外に楽だったぞ」
そう言うと、星は笑って見せた。その笑顔に、愛紗は何とも言えない表情を見せる。その愛紗に、慶次郎が話しかけた。
「愛紗。ちょっと頼みがあるのじゃが」
「は、はい」
「あの男との勝負、わしに譲ってくれぬか?」
「は?」
「代わりに、この砦を落とした功績をおぬしに譲ろう」
「い、いや、それは」
「では、よろしくな」
そう言うと、慶次郎は愛紗の返事を待たずに周倉のもとに歩いていった。
◆◆◆
「死に損ねたな、周倉」
「そうらしいですな」
「で、おぬしはどうする?」
「どうするもこうするも……」
周倉は背後の砦を振り返った。そこには、呆然とした顔をして捕縛されていく仲間たちがいる。そして、前を見た。そこには困惑した表情を浮かべる敵将と、殺気を押さえきれない徐州の兵たちがいる。周倉は目をつむった。
<仕方あるめえ>
「やはり、ここを死に場所といたしたく」
「あんた!」
裴元紹が周倉の足にすがる。愛する女房に、彼は優しく告げた。
「すまねえな、かかあ。……でもな、そうしなきゃ誰も納得するめえよ」
「で、でも!」
「本当に、すまねえ」
そう言うと、周倉は裴元紹の頭を優しく撫でた。そして、慶次郎に向かって一歩足を踏み出す。
「大将、お待たせしやした。徐州の武神、関羽殿を相手に死に花を咲かせていただきやしょう」
「その関羽殿だがな。わしに、おぬしの相手を譲ってくれるそうだ」
「へっ?」
周倉は思わず目を丸くした。何だって?
「不服か?」
「い、いえ。滅相もない」
「なら、問題ないな」
そう言うと、目の前の偉丈夫は満面の笑顔を浮かべた。その表情に、周倉の全身に震えが走った。恐怖によってではない。歓喜によってである。この男に、惚れた男に己が生涯の幕引きを任せることができるとは。何という僥倖だろう。周倉は陶然とした表情を浮かべると、半分に割れた大鉞を構えた。
「それじゃ、大将。やりますか」
「うむ」
そう言うと、慶次郎は地面に刺さった朱槍に手を――伸ばさなかった。怪訝な表情を浮かべる周倉の前で、彼はその大刀を腰から鞘ごと抜いた。そして、それを地面に置く。
周倉は絶句した。目の前の男の腰には小刀しかない。しかも、それを抜こうともしていない。これから、殺し合いをしようというのに。自分の首を、取ってもらわねばならぬというのに。そんな彼の戸惑いをよそに、男はずかずかと近づいてくる。そしてにっこりと笑うと、その右こぶしで周倉の左頬を殴り飛ばした。
◆◆◆
「ふごおっ!」
周倉は思わず後ろに数歩たたらを踏んだ。腰が落ちそうになるのを、必死で堪える。そんな彼に、慶次郎はそのこぶしを握ったまま告げた。
「なあ、周倉。せっかくの勝負。何か賭けねばつまらぬと思わぬか」
「へっ?」
「そうじゃな。負けた方は、勝った方の望みを一つ聞くというのはどうじゃ」
「た、大将」
「負けるつもりの相手に勝ったとて、つまらぬわ」
「……!」
「命を賭けるに値するものがおぬしにもあったのじゃろう?ならば、それを思い出せ」
周倉の頭に、三姉妹の顔が浮かんだ。強くて、脆くて、一生懸命で、不器用な、あの三人の顔が。
この人ならば、あるいは。周倉の体に力がみなぎった。不思議だった。先に武神と打ち合った時よりも、はるかに力を感じる。死ぬための戦いと、生きるための戦い。こんなに違うとは。
「大将。後悔しても、知らねえぞ」
そう言うと、周倉は大鉞を投げ捨てた。自分の顔が、笑っているのがわかる。
「死に損ないが、言うでないか」
「おうよ!」
周倉がその太い右腕を振るった。慶次郎はそれを避けない。そして、そのこぶしを胸板で受け止めた。
「ぐっ!」
踏ん張った姿勢のまま、両足で踏ん張る。その格好のまま、彼の両足は地面を盛り上げつつ後ろに移動した。唾を吐く。血がにじんでいる。慶次郎は口を拭いつつ、にやりと微笑んだ。
「やるではないか」
「あたぼうよ!」
二人のこぶしが交差した。
◆◆◆
いつしか、砦の門前は喚声で満ちていた。
慶次郎のこぶしが周倉の頬を打ち抜く度に、徐州の兵たちから喚声が上がる。そして、周倉のこぶしが慶次郎の腹にめり込む度に、捕縛された黄巾賊から喚声が上がった。まるで、祭りのようだった。
そんな中、一人浮かぬ表情を浮かべる武将がいた。愛紗である。その側に、白い武具に身を固めた武将が立った。その武将は、徐州の友人に語りかける。
「納得いかぬのか?」
「いや」
「ほう?」
「慶次殿に提案されたときは動転したが。……まあ、最善の策であろう」
「ふむ。情に流されぬか。さすがは徐州の柱石よな」
「ぬかせ」
茶化してみせる星に、愛紗は軽く微笑む。
「あのまま私があの男を倒しても、それは私個人の誉れ。劉備軍の誉れにはならぬ。八千人で、五百人が篭もる砦を抜けなかったのだから」
「……」
「そして、黄巾賊の面々も収まるまい。おぬしたち曹操軍が彼らを捕縛できたのも、いわば虚を突いた結果。気を取り直せば、再度死にものぐるいで抵抗するであろう。農民崩れならいざしらず、侠たちが中心の連中だからな」
「ほう。知っていたか」
「まあな。私にも一時期、侠に身を置いた経験がある。二、三の知っている顔もあった」
そう言うと、愛紗は青龍偃月刀を地面に突き刺した。そして腕を組むと、言葉を続けた。
「しかし、慶次殿に功を譲っていただいたお陰で、我らは『砦を落とす』ことができた。兵の死は、無駄死にとはならなかった」
「……」
「そして、慶次殿があの男、周倉といったか。彼を一対一で倒せば、黄巾賊どもも納得するだろう。自分たちを機略にて捕縛した武将が、今度は一対一で己が将を腕力で打倒する。気持ち良く、負けられるというものだ」
「……」
「何せ、五百の兵で八千の兵に立ち向かおうという輩。端から勝とうとしておらぬ。奴らが求めているのは、『納得できる負け』だけだからな」
門前の黄巾賊たちから大きな喚声が上がった。見れば、慶次の腰が落ちかけている。彼はすんでのところで堪えると、その右足を大地に向けて踏み込んで踏ん張った。徐州の兵たちから、感歎の声が上がる。それを見てほっと息をついた星であったが、悪戯っぽい表情を浮かべると愛紗に問いかけた。
「ふむ。ご説ごもっとも。だが、その考えには穴があるぞ」
「ほう?」
「慶次殿が、あの周倉なる男に負けてしまったら元も子もないのではないかな?あの男、『砦が落ちたことをなかったことに』などと願うかもしれん」
「うむ。ご説ごもっとも。だが、慶次殿が負けるかな?」
「負けるわけなかろう」
「まあ、そういうことだ」
二人は顔を見合わせて笑った。その上で、星は再度問う。
「では、なぜ先の表情を見せた?」
「うむ」
愛紗の表情が曇る。そして、下を向いて黙り込んだ。心配した星が声を掛けようとした時、愛紗がぼそりとつぶやいた。
「……胸騒ぎがする」
「何?」
「胸騒ぎが、するのだ。この二人の戦いが……いや、喧嘩が終わったとき。何かが起きる。そんな気がしてならぬ」
「何か、とは」
「わからぬ。わからぬが……私にかかわることのような気が、する。思い過ごしなら、良いのだが」
愛紗はそう言うと、憂いを漂わせたその顔を挙げた。そして、殴り合う二人の男に改めて視線を向ける。
決着の時は、近い。