第4節 周倉
「ここから徐州に入ります」
稟の声に、華琳は無言で頷いた。
許に勅命が下りてから三日後。予定通り、曹操軍は出立していた。その数、約一万。虎豹騎二千、親衛隊一千を中核とした精鋭である。
華琳は、その愛馬にまたがって軍勢の中央にいた。その左隣には、稟。その後ろには風が、それぞれ馬上の人となって続いている。
華琳はその視線をちらりと右に向けた。そこには、松風にまたがった慶次郎がいる。彼が南蛮鎧と呼ぶ黒鎧に身を包み、その肩に長大な朱槍を担いでいた。その後ろには、白馬に乗った星が続いている。
三日前の軍議以来、華琳は慶次郎と話をしていなかった。
「天の御遣い」と彼を呼んだ時の微笑み。その意味することは何なのか。「肯定」だろうか。それとも、「否定」だろうか。その答えを聞くのが怖くて、声が掛けられない。
<自分らしくない>
華琳は唇を噛む。己の存亡をかけた一戦を前にして、何たること。まるで、好いた男の答えを待って一喜一憂するただの小娘ではないか。このように逡巡している暇があるならば、さっさと答えを問えば良いのだ。自分は、彼の主君なのだから。華琳は大きく息を吸うと、慶次郎に声を掛けようとした。
「け、慶……」
「申し上げます!」
「!?」
気がつけば、華琳の眼前には一人の兵が膝をついていた。斥候として放っていた兵である。
「何があった?」
華琳に代わって稟が問う。
「は。この先の臥牛なる山にて、黄巾賊の一団が蜂起した由」
「数は?」
「は。五百人前後と」
「それ以外は?」
「他に、軍勢は見当たりませぬ」
◆◆◆
華琳は顎にその右手を当てた。徐州の主だった黄巾賊は、関羽の活躍によりほとんどが討伐されたと聞いている。一体、どこに潜んでいたのだろう。
もっとも、その目的は明確だ。いわゆる、遅滞戦術である。少数の決死隊で、全滅覚悟で足止めをする。その時間を利用して青州の山塞の防備を固める、ないし兵をできるだけ集めようという腹であろう。
それにしても。華琳は唇をかむ。これほど迅速に兵を動かしたにもかかわらず、勅命の内容は黄巾賊に漏れているようだ。誰が、彼らに知らせたのか。まさか、朝廷が――いや、今はそのことを探るべきときではない。華琳は斥候に問う。
「劉備の対応は?」
「は。黄巾賊討伐の先鋒を務める予定であった関将軍が、急遽その勢八千を持って討伐に向かった由」
「こちらへの要請は?」
「今のところ、何も」
関羽が勢となれば、それは精兵。任せておいて問題ないだろう。しかも、五百の賊に八千の兵。瞬く間に討伐されるに違いない。こちらに援軍の要請がないのも、彼らもそう考えているからであると思われた。
「ごくろう。下がれ」
「は」
斥候は立ち上がると、馬にまたがろうとする。その背中に、声を掛ける者がいた。
「待て」
斥候は振り返る。そこには虎豹騎の将がいた。いつになく、その顔は真剣である。
「その、黄巾賊の一団を率いる者の名前は何という?」
「は――」
斥候は一瞬目を泳がせたが、すぐに答える。
「――確か、『周倉』と申したようにございます」
「そうか」
慶次郎は、斥候を下がらせると華琳に向き直った。既に、その右脇には朱槍をかいこんでいる。
「華琳。虎豹騎のうち、白虎騎を五百……いや、百ばかり借りるぞ」
「慶次?」
「臥牛山に向かう」
「聞いたでしょう?関羽が既に向かったと。すでに、賊は壊滅してるかも」
「あいにく、そうはいかぬ」
華琳は慶次郎の顔を見つめた。冗談を言っている顔ではない。
「華琳。わしを信用してくれぬか?」
「!」
ずるい男。そんな風に言われて、断れるわけないじゃない。そして、その当人がそのことをまったくわかっていないことに腹が立つ。華琳はその眉間にかすかに皺を寄せる。
「わかったわ」
「恩に着る」
「その代わり、今日中に必ず合流しなさい。いいわね」
「承知した。星を借りるぞ」
慶次郎はそう言うと、後ろを振り返った。星が頷くのを見える。次の瞬間、松風は土煙を上げて走り出した。
◆◆◆
千斤の鉄と千斤の鉄がぶつかり合うような凄まじい音が臥牛山に響いた。その反響が、空気を振るわす。その音は、臥牛山の中腹にある砦、その門前から発せられていた。
「ほ、やるねえ」
「くっ!」
目の前の大男の声に、愛紗は歯がみする。全力で打ち込んだ青龍偃月刀は、大男が打ち込んできた大鉞とぶつかり合うとその動きを止めた。まさか、黄巾賊の中に自分の打ち込みを止める輩がいようとは。
次の瞬間、愛紗は青龍偃月刀を手元に引いた。そして、顔の前で何かをはじく。小さな矢である。地面に落ちたその矢の先は、青黒く濡れていた。
毒か。愛紗が憤怒の声を挙げようとした瞬間、大鉞が再び彼女を襲った。決して速い打ち込みではない。だが、その軌道は最短距離を的確になぞっていた。そして、その尋常ではない重さは、遠心力と重力の影響を受けて予想しない速度に達して愛紗を襲う。それを何とか受け止めると、再度矢が顔を狙って飛んできた。愛紗は思わず後ろに大きく飛ぶ。
「卑怯者!尋常に打ち合わぬか!」
「何言ってんの?これ、戦だよ」
大男の後ろで矢をつがえる小柄な女性が笑う。背後の砦からも、どっと笑う声が聞こえた。愛紗は唇を噛む。
<こんなところで、時間を費やしている暇はないというのに>
今回の戦は、速度が命だ。黄巾賊が青州でその山塞の防備を固める前に、そして賊が結集する前に、決着を付けなくてはならない。なのに……。
大男の膂力、その武器は脅威ではあるが倒せない相手ではない。例え力が互角でも、速度は遙かにこちらが勝る。だが、絶妙のタイミングで飛んでくる矢が愛紗の速度を封じていた。その矢の狙いは非常に正確で、常にこちらの急所を狙ってくる。しかも、毒が塗ってあるとなればかするわけにもいかない。
そして、この砦。昔の砦を改修して使っているようだが、それを囲む塀はきわめて高く、またその門は堅固であった。賊は五百、こちらは八千。しかし、狭い山道の行き当たりにあるこの砦に攻めかかれる兵の数は限られてしまう。しかも、右を見ればそこには断崖が迫っており、左を見れば山頂に向けて切り立った岩肌が佇立している。まさに、天然の要害であった。
砦の賊たちは、自分たちからは決して攻めない。ただ、塀の上から矢の雨を降らせるばかりである。狭い山道を攻城兵器が通れるわけもなく、門前の狭い広場で徐州の兵たちはいたずらにその死を重ねるばかりであった。
◆◆◆
「うおおー!」
愛紗の両隣から、二〇名ほどの徐州兵たちが喚声を上げて門前に突っ込んでいく。決死の覚悟で、あの二人を討ち取ろうという算段であろう。大男の背後から飛んでくる毒矢が体に刺さるのも厭わず、彼らはその刀を一斉に大男に向けて振り下ろす。愛紗は思わず声をあげた。
「止さぬか!お前たちでは相手に――」
「――ふん」
大男が、その大鉞を右から左に水平に振る。その刃は、兵たちがまるで豆腐でできているかのようにゆっくりと両断した。その大鉞の刃を避けようとした右端の数名の兵士が、そのまま足を踏み外して断崖を落ちていく。糸を引くような悲鳴が辺りに響いた。
断崖の方向をちらりと見た大男は、視線を地面に移す。そこには、毒矢を受けて地面をのたうち回る数名の兵がいた。その首を、大男は大鉞でさくさくと落としていく。そして、愛紗を見てにやりと笑った。
「手応えがねえなあ」
「貴、貴様……」
愛紗が率いる軍勢は、旗揚げしたときからその生死を共にしてきた義勇兵を中心とする兵たちであった。俸禄がなくとも、桃香のかかげる理想の元で戦ってきた仲間たちである。その死を軽んじるかのような態度に、怒り心頭に達する。黒髪が逆立つ。
その表情を見て、大男と小柄な女は一瞬顔を見合わせて頷いた。これでいい。
「許さんぞ。賊」
徐州の黄巾賊の間で、「黒髪鬼」の異名を取る武人。その武力は、この中華において最強の一人と数えられる。その武人が裂帛の気合と共に、静かに得物を振りかぶった。
<おお、怖え、怖え>
大男の背中に冷や汗がぶわっと流れ出る。それでも、彼――周倉は不敵な笑顔を浮かべた。
あと一日、絶対にもたせる。
◆◆◆
三日前。華琳が許で勅命を受けた頃。青州の山塞にある小さな一室に、黄巾賊の主だった幹部たちが集まっていた。黄巾賊の首魁、張角こと天和を上座に、その左右の壁に背中を預けるように座っている。皆、無言であった。
その部屋の入口に、一人の人物が音もなく現れた。白覆面の、道士めいた男性である。幹部たちの視線が一斉に集まる。その人物は静かに足を進めると、天和の左隣に立つ張梁、その真名を人和の前に立った。一礼すると、その懐から竹簡を取り出す。そして、それを人和に渡した。
「ご苦労さま」
人和の声に、その人物は無言で再度一礼する。そして振り返ると、来たときと同じように静かに部屋を出て行った。その後ろ姿が部屋から消えると、人和は竹簡の封をほどく。そして一読すると、顔を上げた。
幹部たちがこちらを見ている。彼らが唾を飲む音が聞こえた。人和はよく通る声で、竹簡の内容を皆に告げる。
「本日、朝廷より勅命が下されました。黄巾賊を殲滅せよとの命令です」
部屋が静まりかえる。ついに、この時が来た。終わりの時が。悲壮な雰囲気が部屋中に漂う。
「ただし、この勅命が下されたのは二州の牧のみ」
「へっ?」
天和の右隣に立つ女性が声を挙げる。張宝こと、地和である。
「徐州の劉備。そして、予州の曹操。以上よ」
「それだけなの?」
「ええ。ええと、その軍勢は、前者が三万程度。後者が一万。全部で四万程度みたい」
「それなら、何とかなるんじゃない?」
「ええ、姉さん。十分に勝機はあるわ」
「良かったー!どうせ遅からず死ぬ身だけどさ、生きていられるならやっぱり生きていたいよね!」
地和の明るく快活な声に促されるように、幹部たちは活気を取り戻した。そんな雰囲気の中、天和が静かに立ち上がる。その姿を見て、幹部たちは口を閉じた。静寂の中、彼らの首魁は声を発する。
「また官軍が、貧しい人々を虐げにやってきます。でも、私たちは負けません!皆さん、力を貸して下さい」
そう言うと、天和はぺこりと頭を下げた。その声は落ち着いている。だが、膨大な熱量が含まれていた。その熱量にあてられたように、幹部たちは喚声を上げた。
◆◆◆
幹部たちが意見を交わしながら部屋を出て行く。勝機のある戦いである。彼らの顔は明るい。そんな中、天和は幹部の中でもひときわ大きな体をした男に目を向けた。その男の名前は、周倉という。
二年前。彼は、黄巾賊の親衛隊以外は誰も知らない三姉妹の正体をあっさりと探り当て、その上で黄巾賊への参加を打診してきた。彼の率いる軍勢は少数ながら極めて精強で、天和たちは何度助けられたかわからない。
その周倉は、この戦いで徐州における足止めの役を申し出ていた。彼の根拠地である臥牛山で、その手勢と共に立てこもるという。彼が討伐軍を止める時間が、ある意味でこの戦の勝敗を決めることになる。その時間が長引けば長引くほど山塞の防備を固めることができ、また仲間たちは集まってくるだろう。その役割を担える人物は、馬元義なき今、彼しかいなかった。
その彼に、もう会えないかも知れない。天和は、周倉を呼び止めた。初めて会った時から抱いていた疑問を解くために。
「周倉さん」
「なんでい」
「どうして、私たちの味方をしてくれたの」
「へっ?」
「あなたは貧しいわけでもない。弱いわけでもないのに」
「ん~」
彼は難しい顔をすると、片眉を上げた。
「どうしてって、言われてもなあ……」
「教えて下さい。ずっと、思ってたの」
「まあ、何だ」
周倉は頭をかく。
「俺は、侠だからな」
「どういうこと?」
「弱きを助け、強きをくじく。それだけだ」
そう言うと、彼は天和に背を向けた。そして、部屋の出口に向かう。その大きな背中に、天和は声を掛けた。
「私たちが弱い……と」
「ああ。あと二年も持つめえ。そう思った」
「……」
「そして、その弱い奴らの頭がこんな嬢ちゃんたちときた。味方をするしかあるめえよ」
「どうして」
「ん?だから――」
「どうして、あなたは負ける側に立つの?」
周倉は、ゆっくりと振り返った。そして、おのれの身長の半分程度しかない少女を見下ろす。少女も、負けじと大男の顔を見返した。その面持ちに、思わず周倉は破顔する。
「んっふっふ。いい、面構えだ」
「周倉さん!」
「すまんすまん。なあ、嬢ちゃん」
「はい」
「俺はな。どう生きるかには、あまり関心はねえんだ。大切なのはな、『どう死ぬか』ってことなんだよ。だから、あんたの味方をする。それだけだ」
「周倉さん」
「その意味じゃ、嬢ちゃん。あんたと『一緒』かもな」
「えっ?」
大男はその大きな右手で、天和の頭を優しく撫でるた。そして、のっそりと部屋を出て行った。