第3節 勅命
揚州の州都、寿春。その城壁の上に、褐色の肌をした美しい少女が立っていた。眼下では、十分に水を得た植物が色鮮やかなその緑を躍動させている。梅雨も終わり、初夏が訪れようとしていた。その生気に満ちた空気を、少女は胸一杯に吸い込む。そして、北の方角を見た。
しばしその方角を眺めていた少女は、ゆっくりと振り返る。思春には、しばらく一人にしてくれるよう話してある。誰もいないことを確認すると、少女は再度北の方角を見た。そして、おもむろにその左袖から竹簡を取り出す。
竹簡は封がされた状態であり、届いたばかりであることが伺えた。少女は、その竹簡を愛おしげに撫でる。見れば、その頬はほんのりと赤く染まっている。無理もない。それは、彼女の想い人からの便りなのだから。
この少女に想いを寄せられる幸運な男の名前は、北郷一刀。またの名を「天の御遣い」。この中華において、その名を知らぬ者はいないとまで言われる男である。
そして、天の御遣いに懸想するこの少女の名は、孫権。その真名を蓮華。この江東において日の出の勢いを誇る孫家の君主、孫策の妹である。
◆◆◆
蓮華は大きく深呼吸をすると、竹簡の封を解いた。そして、ゆっくりとその文字を追う。手紙の内容はたわいもないものである。下邳の街でこんな出来事があった。女性たちの間でこんな服が流行っている。最近こんな料理をつくってみた。関羽との鍛錬では未だまったく歯が立たない。そして――。
『また、お会いできる機会を楽しみにしています』
その一文で、いつも彼の便りは終わる。これまで、何度も便りを交換してきた。その最後の一文を読む度に、顔がにやけてしまうのを止められない。思わず、蓮華は赤く色づいた自分の顔を両手で覆った。
その姿は、普段の真面目で気難しい彼女からはかけ離れていた。雪蓮とて、その目を丸くするであろう。
彼と最後に会ったのは、一年以上前のこと。しかも、たった一度だけ。それでも、彼の姿は蓮華の脳裏に焼き付いて離れない。
想像通りの素敵な人だった。いや、想像以上に素敵な人だった。天の御遣いという名前に恥じない男性だった。
会う前から、確信があった。一目惚れすると。そして、恋に落ちた。
二人には立場がある。気軽に会える立場ではない。けれども、こうして便りを交換できている。遠く離れていても、二人はつながっている。この竹簡に踊るたどたどしい文字は、彼が自ら筆をとった証。
二人には立場がある。結婚相手を選べる立場ではない。物心ついた時から、好いた人と結婚できる自由は自分には存在しない。そう、わかっていた。いや、諦めていた。
けれども、好いた人と、一目惚れした人と結婚できるかもしれない。姉の雪蓮は、自分と彼が誼を通じることに好意的だ。冥琳も、後押ししてくれている。
もちろん、二人が純粋に自分の恋を応援してくれているわけではないこともわかっている。そこに、多分に政治的な思惑が含まれていることも。為政者は、愛情で結婚するのではない。政略で結婚するのだ。
だからこそ、この幸運を喜びたい。好いた人と政略結婚できるかもしれない幸運を。そして、この運命に感謝したい。あの素敵な人と巡り会えた運命に。
蓮華は竹簡をくるくると巻くと、そっと抱きしめた。そして、北の方角に熱い視線を送る。ああ。今、あの方は何をしているのかしら。少しでも、自分のことを思い出してくれたら。
「孫権殿。ここにいらっしゃいましたか」
背後から掛けられたその男性の声に、蓮華は一瞬眉をひそめた。そして、竹簡をそっと左袖にしまい込む。
夢想の時間は終わった。これからは現実の時間である。孫家の次女として、その「役割」を果たさなくてはならない。孫家の勢力がこの揚州を覆うまで、「この男」の機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。
蓮華は小さく息を吸うと、「いつもの笑顔」を浮かべて振り返った。
◆◆◆
「……ということがありましてね」
「まあ、そんなことが」
男性の話に、蓮華が口元を押さえて微笑む。彼女の目の前に立つのは、眉目秀麗、長身痩躯の若者である。この揚州において家柄、容姿ともに一流の彼は、この地に住む婦女子の憧れの的であった。この孫家が治める寿春においてさえ、その姿絵が路肩で売られているほどである。
男性の名は、劉繇。揚州の下半分、会稽郡の太守である。このところ、三ヶ月に一度は寿春にその姿を見せている。揚州の現状について、雪蓮と意見を交わすためというのが表向きの理由である。しかし、実際には蓮華に会いに来ていることは、誰の目にも明らかであった。
「それにしても、劉繇様。よく、私がここにいるとわかりましたね」
「孫権殿の魅力のためですよ。花に蝶は引き寄せられるもの」
「まあ、お上手ですこと」
蓮華は微笑む。その大輪の牡丹を思わせる笑顔に、劉繇は改めて胸がときめくのを感じた。そして、同時に憎らしく思った。そのように微笑みながら、彼女は自分に真名を決して許そうとはとしない。
彼女は言う。殿方に真名を許すのは、父親を除いては結婚する方のみである、と。だが、劉繇は知っている。その真名を、彼女が徐州の天の御遣いに許しているということを。
彼は寿春の文官の一人に少なくない賄賂を渡して、蓮華の一挙手一投足を報告させていた。彼女の居場所がわかるのも、種を明かせばこの文官に教えてもらったからである。
なぜ、彼女はどこの馬の骨とも知れぬ天の御遣いとやらに真名を許したのか。それが、どうしても彼にはわからなかった。揚州の女性たちの憧れであるこの自分に、名門劉家の御曹司たる自分に、目の前の女性が惹かれない理由が「わからない」。彼には、すべてにおいて自分の方が優れているという自負があった。
考え抜いた末に彼が達した結論は、それは彼女の姉であり、かつ孫家の長である孫策の指示によるものということだった。恐らく、孫策は天の御遣いが劉繇よりも高い地位にあると「勘違い」している。その愚かな姉に指示されて、やむなく孫権は天の御遣いと誼を通じているのではないか。
まったく、哀れなことである。愚かな姉のために、そのような気苦労をされているとは。だが、ちょっと考えればわかりそうなものだ。この漢土において、劉家こそが唯一無二の家系であると。所詮、孫家は成り上がりの家系。そうした知識に疎いのも頷ける。おいおい、この私が教えてやらねばなるまい。
◆◆◆
「劉繇様?」
気がつくと、孫権が微笑みを浮かべて自分の顔をのぞき込んでいた。劉繇は思わず顔を赤くする。いつの間にか、自分の世界に浸ってしまったようだ。思わず黙り込んでしまった劉繇に、蓮華は小首を傾げて見せる。
何と愛らしい。また、気が遠くなる。そのことに気づき、彼はぶるぶると首を振った。彼女の前で、これ以上無様なところを見せられない。劉繇はごまかすように大きく咳払いをすると、愛しの君に話しかけた。
「そういえば、孫権殿。これから、ある『勅命』が下されることをご存じですか」
「勅命?」
「はい」
「……いえ。初めて聞きましたわ」
目の前の女性は、平静を装いつつも興味を示す。その表情に満足した劉繇は、言葉を続けた。
「そうでしょう。これはまだ、ごく一部の人間のみしか知り得ぬ極秘の情報でして」
「まあ。凄いですわね」
「ははは。まあ、たいしたことはありません。私も劉家の一員。天下の動きについては、いつもその動静を探っておりますゆえ」
「素敵ですわ。あの、差し支えなければ教えて下さるかしら」
「もちろんです。他ならぬ、孫権殿のご希望とあれば」
そう言うと、回りに誰もいないにもかかわらず、劉繇は蓮華の左耳にその唇を寄せた。蓮華は一瞬不快な表情を浮かべる。だが、劉繇の目にその表情は目に入らない。彼の目に映っているのは、まるで彫刻のように美しい褐色の左耳だけである。どこかで、小さく鈴が鳴る音がした。
「華北の諸侯に、黄巾賊を殲滅するようにとの命令が朝廷から下ります。この、一両日中に」
◆◆◆
「……以上が、勅命の内容です」
桂花は、そう述べると腰を下ろした。ここは、許の城内にある会議室である。華琳を上座として、曹操軍の主な武将が集まっていた。
末席には、慶次郎の姿も見える。彼がこうした会議に参加するのは、一年前の黄巾賊との戦の前以来のことである。今回の勅命の内容に、華琳はいつもは声を掛けない慶次郎に特別に声を掛け、この場所に呼んだのであった。
武官の座る列から手が上がる。桂花がその名を呼んだ。
「秋蘭」
「桂花に確認したい。その勅命の内容、遺漏はないのか?」
「すべて読み上げた通りよ」
「しかしだ。黄巾賊を予州と徐州の軍勢だけで討伐せよというのは無理がある」
「その通り!」
秋蘭の右に座る黒髪の武将が手を挙げる。秋蘭の姉、春蘭である。
「なぜ、袁紹殿は参加せぬ!我らより、黄巾賊の本拠地によほど近いではないか!」
「私だってそう思うわよ!でも、勅命にはそう書いてあるんだから仕方ないじゃない!」
そう言うと、桂花は唇を噛んだ。
現在、黄巾賊の本拠地である青州の山塞には、三万弱の兵がこもっている。対して、復興中の予州が出せる兵数は約一万。徐州は約三万程度と思われた。青州牧である孔融は、その居城にこもるだけで精一杯と聞く。すなわち、討伐軍の規模は予州と徐州の軍勢を合わせた約四万となる。
兵数だけなら、こちらが勝っている。しかし、城にこもる敵を落とすにはその三倍の兵力がいるという。そう考えるなら、必要とされる兵数は約九万。五万人の兵が足りない。
そして山塞にこもる兵以外にも、黄巾賊は小集団になって青州、徐州、予州、并州、冀州、兗州といった地域に散らばっている。教主である張角の危機を知れば、彼らは青州に一斉に集まるだろう。その数は、約八万弱と推定される。山塞にこもる兵と合わせれば、十万以上の兵となる。
仮に山塞の攻略に手間取れば、討伐軍の背後を各州から集まった黄巾賊が襲うことになるだろう。その時、十万の黄巾賊に包囲された四万の討伐軍に勝ち目はない。
◆◆◆
「この度の勅命には、黄巾賊討伐以外の理由も含まれている。そういうことかしら」
諸将の目が一斉に上座に向く。そこには、不機嫌な顔で卓にひじをつく華琳の姿があった。彼女の言葉を受けて、稟が立ち上がる。
「はい。華琳様がおっしゃる通りかと。兵力不足を理由にこの勅命を辞退すれば、それは不忠。かといって黄巾賊に敗北するようでは、それは牧として無能であることを示すもの。いずれにせよ、その責を問われることになりましょう」
そう言うと、稟は華琳の表情を見た。彼女が頷くのを見て、稟は言葉を続ける。
「徐州と予州という新興の勢力のみに勅命が下されたことは、好意的にみればその力を見込まれたということ。ですが、まさに『出る杭を打つ』ことこそその本当の目的ではないかと」
そう言うと、稟はその眼鏡に手を掛けた。ついで、風が立ち上がる。
「袁紹殿が参加するならば、黄巾賊討伐はそれほど難しくはありません。その動かせる兵力は楽に十万を超え、兵の練度も高い。となると、黄巾賊討伐において袁紹殿が大きな功績を立てることは必然」
そこで、風は一旦言葉を切る。しわぶき一つ聞こえない。
「しかし、袁紹殿はすでに三州の牧。その袁紹殿に与えることができる恩賞はおのずと限られてきます。朝廷は、そのことを考慮したのではないでしょうか」
王の地位。華琳は、心の中でつぶやいた。
仮に麗羽がこの討伐に参加して功績をあげれば、恐らくその恩賞はそうなる。いや、そうならざるを得ない。その時、易姓革命の可能性を誰もが思い浮かべるだろう。朝廷としては、それは避けたいに違いない。
黄巾賊討伐は、成功しても失敗してもどちらでも良い。恐らく、朝廷はそう考えている。そして、恐らくは失敗することを願っている。彼らの目的は、三虎競食。黄巾賊、自分、そして劉備がそれぞれの勢力を衰退させること。
成功しても、自分と劉備が被る被害は甚大だ。失敗すれば、その責が問われる。どちらに転んでも、無駄にはならない。朝廷が失うものは何もないのだ。
<だけど、そうは問屋が卸さない>
そう簡単にことを進めさせてなるものか。これを奇貨として、自分は成り上がる。そして「あの人」にも、天がこの地に止まると認めるような功績をあげてもらうことにしよう。
◆◆◆
華琳はゆっくりと立ち上がった。そして、諸将を睥睨する。
「いずれにせよ、賽は投げられた。この条件下で、私たちがとるべき策は一つ。各州に分散した黄巾賊が戻る前に、青州の山塞を陥落させること。不利は承知。だが、迎撃の準備が整う前に強襲できれば勝機はある。なれば、これからは速さが勝敗を決める。三日後に、この許を立つ。五日後に、青州の山塞を攻撃する。各々、心得よ」
「はっ!」
諸将が応える。続けて、華琳は個別の指示を出す。
「桂花。徐州に急使を。先方も同様に考えているはず。共同作戦を提案せよ。詳細は任す」
「はっ!」
「春蘭、秋蘭。すぐさま編成を開始せよ。新兵はいらぬ。強行軍となる」
「「はっ!」」
「そして、慶次」
「うむ?」
突然の呼びかけに、思わず慶次郎は声を出した。諸将は目を見合わせる。彼が軍議の場に顔を出すのは久しぶりであった。その彼に、我らが主君はどのような指示を出すのか。皆、華琳の声を待つ。
「……この戦、『天の御遣い』としての活躍を大いに期待するわ」
諸将の間に声ならぬ声が満ちた。華琳が彼を特に天の御遣いと名指ししたことは今まで一度もなかった。それがこの曹操軍の命運を左右する軍議の場で、そう述べたのだ。
桂花は思わず、主君の顔を凝視した。華琳は一顧だにしない。桂花の額に、一筋の汗が流れた。
春蘭は平静を装いつつ、慶次郎に視線を送った。彼女は彼と陳宮の別れ際、陳宮が彼に天の御遣いを名乗らぬよう再三にわたって約束させたのを聞いていた。恐らく、慶次郎はその約束を破るまい。しかし、それは主君の言葉に背くことになる。
諸将の視線が、慶次郎に集まる。彼はしばし、あっけにとられたような表情を浮かべていたが、やがて静かな微笑みを浮かべた。
その表情を見て、春蘭はほっとする。彼は自らが天の御遣いであることを肯定しなかった。しかし、否定したわけでもない。彼の表情はどちらにもとれるし、どちらにもとれない。だが、この場では最善の態度に思えた。
だが、華琳様のお気持ちは収まるまい。春蘭は上座に視線を移す。果たして、華琳は若干不服そうな表情を見せている。しかし、すぐにその表情を打ち消すと大声を上げた。
「では、皆の活躍に期待する。準備を開始せよ!」
諸将は一斉に立ち上がった。
◆◆◆
「華琳様。なぜ、あのようなご発言を」
「桂花?」
諸将が会議室から出て行く。彼らの姿を目で追いながら、桂花は小声で華琳に問いかけた。
先日、華琳を予州牧を任命にするために朝廷から使いが来た。その副使、陳宮は許を案内する桂花に、何度もこの予州における天の御遣いの存在について問うた。桂花はその問いに不審なものを感じ、それをどうにかごまかしたが、その執拗さに何らかの意図を感じざるを得なかった。
天の御遣いの存在を、公に認めてはならない。そう考えた桂花は、慶次郎が自らを天の御遣いと名乗ったことについて表沙汰にせぬよう、華琳に進言していたのである。
その時の華琳は、桂花の言葉を素直に受け入れた。あえて天の御遣いを表に出さなくても、予州は順調に復興しつつある。もはやそのような名を押しつけて、慶次郎に負担を掛けることもないでしょう。そう、彼女は桂花に答えていた。それが、先ほどの発言である。
「私の決めたこと。何か不満があるのかしら?」
「い、いえ。そういうわけではありませんが」
華琳の視線に、思わず桂花は後ずさる。そんな彼女を華琳は見つめていたが、やがて視線を外すとぼそりとつぶやいた。
「ねえ、桂花」
「は、はい」
「もし、天の御遣いがその役割を果たしていないとしたら。天は失望するのではないかしら」
「……は?」
「その役立たずを、召還してしまうかもしれないわね」
「……」
「どう、思う?」
「華琳様……」
思わず、桂花は言葉を失う。そして、華琳の意図を悟った。慶次郎の言葉を思い出す。
『猫耳。勝手な言い草だとは思うが、もっと華琳の力になってやってくれんか。あやつが、迷惑がるほどにな』
でかぶつが、偉そうに。わかってるわよ。桂花は息を小さく吸うと、愛する君主に向かい合う。
「僭越ながら、申し上げます。あのでかぶつ――いえ慶次殿は、十分に役割を果たしていると思います。天下に平和と安寧をもたらす英雄を支える。天の御遣いとして、これ以上の役割があるでしょうか」
「……」
「大丈夫です。この桂花、慶次殿から決して目を離しません。放っておくと、何をしでかすかわかりませんし」
「……ありがとう」
華琳は小さな声で礼を述べる。
その声を聞いて、桂花は静かに頭を下げた。