第2節 運命
王允、劉表、そして劉繇は顔を見合わせると、その声の発信源に顔を向けた。見れば、卓に視線を落としたままの姿勢の劉璋がその体を震わせている。そして、もう我慢できないといったように笑い出した。
「ぷっ、ぷははははは!」
「り、劉璋様、お静かに」
王允がたしなめる。しかし、その笑いは止まらない。思わず、劉表は声を荒げた。
「劉璋殿!」
「いやー、失敬失敬!あんたらの下手くそな三文芝居に、さすがに我慢できなくなってさあ」
劉璋は、ようやく笑うのをを止めた。その三白眼には涙が浮かんでいる。その態度に怒りを覚えた劉繇は、声を張り上げた。
「劉璋殿!我ら国士の憂慮を三文芝居とは、なんたる侮蔑!訂正されよ!」
「それじゃ劉繇よう、お前さんに聞くけどさ」
「何です!」
「徐州の御遣い、北郷って言ったか。そいつをお前さんが敵視する理由はよ、ホントは違うんじゃねえの?」
「な、何を言う!私は劉家の一族として――」
「聞いてるぜ。お前、孫家の次女に惚の字なんだってなあ?」
「!」
「で、その次女は北郷ってのにべた惚れなんだろ?」
「な……」
顔を真っ赤にして劉繇が黙り込む。図星であった。だが、なぜこの男がそんなことを知っているのか。そんな劉繇の気持ちを逆なでするかのように劉璋は笑う。
「俺んとこは田舎だからな。情報集めには力を入れてんのよ。わかったか、横恋慕野郎」
「こ、この!」
「劉璋殿。どのくらいにしておけ」
「あん?劉表さんよお。あんただって、あんまり変わらんだろ?」
「何だと?」
劉表の右眉が上がる。それを見て、劉璋は心底うれしそうに微笑んだ。
「袁紹ってのは、元々あんたの許嫁だったらしいな?」
「!」
「袁紹の親父がぽっくりいったから、その話はご破算になったらしいけどよ。残念だったなー」
「……そんなことはない」
「あれ、そうなのー?もう少し早めに式を挙げておけば、荊州に加えて冀州に兗州、場合によっては幽州もあんたのモノだったのかもしれないのにねー。いやー、欲のないことで」
劉璋はケラケラと笑った。劉表は眉をひそめて目を瞑る。劉璋はなおも話し続ける。
「そしたら、この国の三分の一はあんたのもんだったのになー。そしたら皇帝の座だって――」
「劉璋様」
王允が穏やかな声で劉璋の話を遮る。その顔はにこにこと微笑んでいる。
「さすがは劉璋様。遠く益州にあって、天下の流れを読んでいらっしゃる。この爺、感服いたしました」
「よせ、じじい。あんたの目論見に、俺は乗らねえ」
劉璋は半目になると、鼻から息を吐いた。
「今日のことは誰にもしゃべらねえ。だから、もう俺をこうした面倒くさいことに巻き込むな。俺はな、俺が幸せならいいの。国がどうだの、知ったこっちゃねえ。成都に引きこもってのんびり楽しくやれたらそれでいいの。わかったか」
そう言うと、劉璋は立ち上がる。そして、壁際に立つ道士に声を掛けた。
「じゃ、俺は帰るぜ。ここに連れてきた時みたく、さっさと成都まで送りやがれ」
「劉璋様」
「しつけえぞ、じじい。俺は絶対に――」
「貴方様は確か、美しい少女に、目がないとか」
◆◆◆
劉璋の動きがぴたりと止まる。そして、王允の方向を向いた。
「それが、どうした」
「もし、この爺の計画にご協力いただけるなら。絶世の美少女を二人、ご用意できますがの」
「……ふ、ふーん?」
劉璋は顎に左手をやる。両目が落ち着かなく左右に動いている。
「とりあえず、話を聞こうかなっと」
「ありがとうございます」
「で、で……で、どんな感じの女なのよ?」
「はい。この爺、女性についてあまり語る言葉を持ちませぬが……」
王允は目を瞑り、右手を顎にやる。
「一人は抜けるように色が白く線の細い、気の優しい儚げな美少女にございます。もう一人はその少女の幼なじみでして、いわゆる眼鏡っ子というやつですかな。小柄ながら出るところはしっかり出ている、気が強く虐めがいのある美少女にございます。そして、恐らくはいずれも処女」
「ほ、ほーう?」
「いかがです?この二人をまとめて味わうというのは。どちらも筋金入りの箱入り娘ですぞ」
「まあ……聞くだけなら、悪くないね、うん。まあ、見てみないとわからないけど、うん」
そう答えながら、劉璋は好色そうな肉厚の唇をぺろりとその舌で嘗めた。
「で、そいつらなんて名前なのよ。この大陸の美少女なら、たいていはこの俺の耳に入っている筈なんだけど」
「はい。彼女らの名は董卓に賈駆」
「へっ?」
「董卓軍の領袖に、その軍師にございます」
「……はあ?」
思わず、劉璋は口を開けた。
「と、董卓ってのは、女だったのか!」
「はい。このことは、皇帝陛下と私のみが知る秘密でございます。そしてこの爺めの願いは、董卓軍をそのまま皇帝直属の軍隊とすること」
「!」
「そのためには、あの二人は邪魔なのでございます」
「……なるほどな。でもよ、そんなことできるのかよ」
「この爺一人では無理でしょう。だが、皆さまのご協力がいただけるのなら。……いかがですかな」
「ふん」
鼻息を付くと、劉璋は腰を下ろした。
「話だけは聞いてやる。じじい、計画を話しな」
「ありがとうございます。劉表様、劉繇様もよろしいですかな」
「聞こう」
「……問題ありません」
「では」
王允は立ち上がると、その計画を話し始めた。
◆◆◆
「左様なことが、本当に可能なのですか?」
劉繇が興奮して身を乗り出す。その顔を見て、王允は満足げに頷く。
「無論。郭図殿の、そして皆さまのご協力があれば」
「ふん。そんなに、うまくいくか?」
そう言う劉璋の顔も、紅潮している。十中八九、成る。王允の示した計画は、猜疑心の強い彼をしてそう思わせるだけの具体性と、実現性があった。
劉璋は思う。絶世の美少女が2人。成功報酬としては悪くない。しかも、兵の損失は皆無で済む可能性が高い。そして、このじじいの計画の卑怯さは実に俺好みだ。
だが、少しだけ気になることがある。劉璋は、その三白眼を一族の年長者に向けた。その男は、王允が計画を話し始めてから一言も発していない。その真意を量るべく劉璋が劉表の顔をのぞきこもうとしたとき、王允が立ち上がった。
「それでは、決を採りましょうか。皆さま方、この爺の目論見に乗るや否や?」
「乗りましょう」
すぐさま、劉繇が声を挙げた。その顔は紅潮したままである。
「ただし。孫家の扱いについて私に任せていただけるのであれば」
「良いでしょう」
王允が頷く。ついで、ようやく劉表が声を挙げた。
「乗ろう。この国難を放っておけぬ。この身をもって、天下安寧の礎となる所存」
「あーあー、まだ綺麗事かよ」
「綺麗事ではない。劉璋よ、おぬしはどうなのだ?」
「俺?」
劉璋は肩をすくめてみせる。そして、王允を見た。
「じじい。董卓と賈駆を俺に渡す約束、違えるなよ」
「確と。罪人への『処罰』はお任せいたします」
「よく知ってんなあ、じじい」
劉璋は鼻をかく。彼の特殊な性癖。それは「美少女を責め殺すことに喜びを感じる」というものであった。その供物は、社会的な地位が高ければ高いほど良い。美しく気高い者を辱めること。そして、その生殺与奪の権利を味わうこと。それらのことに、何よりも興奮を憶える性癖が劉璋にはある。そしてその性癖こそ、紫苑たちが劉璋の元を出奔するに至った本当の理由であった。
◆◆◆
盟は成った。
劉繇と劉璋が立ち上がると、于吉の配下が彼らの背後に静かに立った。やがて二人が道士と一緒に部屋から消えると、王允が劉表にうやうやしく話しかけた。
「これでよろしいですかな。劉表様」
「うむ。まずは上々といったところか。よく働いてくれた、王允殿」
「ほ、将来の『陛下』がため。臣は艱難辛苦を惜しみはしませんぞ」
そう言うと、王允は劉表に大きく頭を下げて見せた。劉表は礼を返さない。代わりに、その長い髭をしごいて笑ってみせた。
「これ。『まだ』陛下は存命であらせられる」
「何の。漢の天下が揺れたのも、あの小娘がひ弱なため。やはり、皇帝は心身共に強靱な男であるべきなのです。貴方様のように」
「ふむ。王允殿が忠義、忘れませぬぞ」
「光栄の至り。それにしても、若造どもは扱いやすいですな」
「まったく。自分が頭が良いと思っている世間知らずほど、扱いやすいものはない」
そう言うと、劉表と王允は顔を見合わせて笑った。
「さて、劉表様。我らが計画の成功を祈って、一杯いかがですかな?」
「うむ。郭図殿も、一緒にどうだ」
「ありがたき幸せ。しかし、私は後片付けをしてから参ります」
「そうか。では先に」
そう言うと、劉表と王允は部屋を出て行った。部屋には一人、于吉が残される。その顔を、蝋燭の炎が赤く照らしている。その表情は、伺うことができない。
「……自分が頭が良いと思っている世間知らずほど、扱いやすいものはない」
于吉はささやくような声で劉表の言葉を繰り返す。そして、その右手を卓上に振った。蝋燭が消える。部屋に漆黒の闇が満ちた。
◆◆◆
恋と音々音の姿が小さくなる。何度も振り返りつつ手を振る馬上の二人に手を振り返しながら、慶次郎は先の音々音とのやりとりを思い出していた。
慶次郎が天の御遣いを名乗ったのは、半年前の黄巾賊との戦の時のみ。そのことを知った音々音は、見るからに安堵の表情を見せた。そして、顔を引き締めると慶次郎に告げた。
「父上。今後、一切そのように名乗ることはお止めになりますように」
「ふむ。もともとその気もないが、何故じゃ」
「聞かないで下さいませ。貴方の娘の、たっての願いにございます」
「……わかった」
「ありがとうございます」
音々音はにっこりと微笑む。そして、洛陽で広がる噂については自分が対処するのでご安心を、とも述べた。
慶次郎からすれば、そう名乗ることによる危険性がいまいちわからない。自分程度の人物が名乗ることすら危険ならば、徐州の御遣い――北郷殿などはどうなってしまうのだ。だが、愛娘のたっての願いである。聞かないわけにはいかなかった。
恋と音々音の姿が道の向こうに見えなくなると、慶次郎は視線を右の地面に移した。そこには、膝を抱えて座っている星がいる。その彼女を、春蘭が必死に慰めていた。
「なあ、星。天下無双を相手に、堂々と打ち合ったではないか。気落ちすることないぞ」
「……慰めは、止めてもらおう」
星は、顔を膝に向けたまま小さな声でつぶやく。
恋と星の打ち合いは、恋の勝利に終わった。恋は星の打ち込みをすべて受けきると、星の息が切れる時を狙って彼女の脳天に猛烈な一撃を見舞った。龍牙でその一撃を受けはしたものの、その衝撃に星は得物を落としてしまった。次の瞬間、星の喉元に方天画戟の切っ先が突きつけられていた。
『まあまあ強い』
『……くっ』
『愛人なら、許す』
『……な』
絶句する星をよそに、恋はきびすを返すと赤兎馬にまたがった。完全な力負けだった。武人として、何も言い返せない。
「師匠も、何か言ってやってくだされ」
「星。春蘭の言う通りじゃ。相手は天下無双。気にするな」
「……放っておいて下され」
星は膝を抱えたまま動かない。慶次郎は軽くため息をつくと、星の目の前の地面に置かれた龍牙を拾おうとした。至るところに傷がついている。後で、真桜に修復を依頼しなくてはなるまい。そう思いつつ、それに右手を伸ばして――。
「!」
鈍い音がした。見れば、星の頭に龍牙の柄が落ちている。それはしばらく頭に止まっていたが、やがて地面に落ちた。星が涙目で慶次郎を見上げる。
「け、けいじ、殿」
「……」
「師匠。それは、ちょっとやりすぎでは。……師匠?」
春蘭は慶次郎の異変に気づく。彼は、信じられないものを見たかのような表情で、自分の右手をじっと見つめていた。
「師匠」
「……」
「師匠?」
「お、おう」
「いかがなされたのです。じっと手を見て……」
「……いや」
慶次郎は、何度も自分の右手を握ったり開いたりしている。春蘭にはその意味がわからない。やがて小さくうなずくと、慶次郎は星の隣に腰を下ろした。
「すまんな。手が滑って、槍を落としてしもうた」
「……」
「詫び、というわけではないが……家まで背負っていこう」
「え」
星が思わず顔を上げると、そこには慶次郎の広い背中があった。
「さ。早う乗れ」
「あ……その」
「ん?乗らんのか」
「あ、いや……」
「乗らんのなら――」
「の、乗ります!乗らせていただく!」
そう言うと、星は目の前の背中におずおずと手を伸ばした。
◆◆◆
「一件落着、といったところでしょうか」
「なかなか見応えのある打ち合いでしたねえ~」
「……」
東門の上の望楼に、三人の女性が立っていた。稟、風、そして華琳である。彼女らもまた、正使と副使の出立が気になってここまで足を運んだのであった。もっとも、彼らが来たときには既に恋と星の打ち合いは始まっていた。
「それにしても、お兄さんはずいぶんとあの二人と打ち解けたようですね~」
「確かに。一週間前、慶次殿が呂布殿と打ち合った時にはどうなることかと心配したけれど」
「……」
「華琳様?」
稟が声を掛ける。先程から、華琳が黙りこくっている。
「……え?何かしら」
「いえ」
稟は口を閉じた。彼女は、華琳が慶次郎と呂布、そして陳宮の関係に嫉妬したのではないかと感じていた。だからこそ、あえてその関係は口に出さずに呂布と星の打ち合いを話題にしたのだ。
しかし、当の華琳はまったく別のことを考えているように見える。
<何か、華琳様の気に触ることがあっただろうか>
稟は記憶をたどる。ずっと彼らを見ていたが、特に気になることはなかった。気になるといえば、慶次郎が星の頭に槍を落としたことくらいだろうか。落ち込んでいる女性にそのようなことをするのは、見掛けによらず気遣いの人である彼には珍しいことだった。
稟は眼鏡に手を掛けた。彼女は、あまり目が良くない。
◆◆◆
華琳の眼下を、星を背負った慶次郎が歩いて行く。恥ずかしいのか、星は慶次郎の背中に顔を伏せたままである。その左隣を、龍牙を持った春蘭が歩いている。
時折、春蘭が星に話しかけている。その度毎に、顔を伏せたままの星の左手がげんこつとなって春蘭に向かって伸びた。どうやら、からかっているようだ。その二人のやりとりに、星を背負った慶次郎も笑みを浮かべている。
そんな三人を見下ろしながら、華琳は自分の目が捉えた先ほどの光景を思い出していた。
<確かに、消えた>
稟や風は武人ではない。あの一瞬を、恐らく目にすることはできなかった。だが、華琳は確かに見た。慶次郎が星の龍牙を手に持った瞬間、彼の右手が消えたのを。その時、慶次郎の体全体が霞んだのを。
華琳がそれを見て声を挙げようとした瞬間、すべてが元に戻っていた。まるで白昼夢のように。
見間違えだろうか。いや、違う。確かに、消えた。その証拠に、慶次郎自身が驚いていた。何度も右手を握ったり開いたり繰り返していたのは、その証だ。
<天の御遣い……>
その呼び名を、華琳は久しぶりに思い出す。あの黄巾賊との戦以来、慶次郎が封印しているあの呼び名を。華琳は直感的に、今の不可思議な現象が天の御遣いにかかわるものではないかと感じていた。
彼が「いつか出奔するかも知れぬ」と常日頃述べているのは、そして客将に甘んじているのは。いつか、自らが消え去る日のことを案じてのことではなかったか。
華琳は大きく首を振った。自分と慶次郎の日々は始まったばかりだ。その日々は、これからもずっと続くと信じていた。だからこそ、忙しい今は慶次郎に会う時間が短くても我慢できた。いつか、ずっと一緒に過ごせる時間が来ると思っていたから。それを、自分以外の誰かの都合で簡単に終わらせてなるものか。
先ほどの出来事。彼の驚きようを見れば、自らの意思でそうなったようには思えない。そもそも、彼は別れも言わずに自分の元から去るような人間ではない。
もし、それが天の意思だとするならば。この私から、ようやく巡り会えた大切な人を奪おうとするならば。
<許さない>
華琳は、ゆっくりと空を見上げる。
<決して、許さない>
どんなことをしても、彼をこの世界に引き留めてみせる。
そう、「どんなこと」をしてでも。
彼女は、空の彼方を睨む。
空はどこまでも青く――高かった。