第1節 密談
王允宅の「窓のない部屋」。その部屋の中で、四人の男が卓を囲んで座っていた。
入口に近い席に座るのは王允である。その対面には、四〇代前後とおぼしき恰幅の良い男性が座っている。黒く長い髭が特徴的だ。王允から見て右手に座るのは、二〇代前後に見える長身痩躯の男性である。色白で、なかなかの美男子だ。左手には、右手の男性と対照的な男性が座っている。年齢は三十代前後。その背は低く、でっぷりと太っている。荒淫のためか、その目の下には青黒い隈ができていた。
「王允殿。まずは、我々をここに呼んだ理由をお聞かせ願えるかな」
王允と面識があるらしい対面に座る男性が、その長い髭をしごきながら声を発した。
「もちろんでございます。荊州牧、劉表様」
王允は、自らの地位を忘れたかのようにうやうやしく答える。その名を聞いて、長身痩躯の若者が背筋を伸ばした。そして、劉表に丁寧な口調で話しかける。
「かような場所でお目に掛かるとは」
「私をご存じか」
「これは申し遅れました。会稽郡の太守、劉繇にございます」
「おお。すっかり大きくなったな。見違えた」
「こちらこそ、すぐに気づかずご無礼を」
「いやいや。最後に会ったときに比べれば、わしもずいぶんと肥えたからな」
劉表は髭をしごきつつ、若い縁者に笑いかける。そして、自分の右隣に座る男性に声を掛けた。
「ああ、おぬし。よければ、名を教えてくれぬか」
「……」
男性は劉表の問いに答えず、無言で座卓の上を見つめている。何やら、ぶつぶつとつぶやいているようだ。首を傾げる劉表に、王允が声を掛けた。
「こちらにおわすは、益州牧の劉璋様にございます」
「……ああ」
劉表は曖昧にうなずく。隣州の劉璋といえば、暗愚との評判であった。重臣に政務を任せきりで、酒池肉林に溺れているとの噂がある。しかも、「特殊」な性癖の持ち主であるとも。そしてこうして実際に会ってみれば、そうした評判はあながち間違っていないのではないかとの印象を受ける。
劉表は劉璋から目を外すと、正面を向いた。
「では改めて聞こう。王允殿、我々をここに集めた理由は何だ」
「はい。ですが、その前に」
「うむ?」
「皆さま、この国の現状をいかがお考えでしょうか?」
王允は目を大きく見開くと、客人たちに問いかけた。
◆◆◆
沈黙がその場を支配した。沈黙に堪えきれず、劉繇が声をあげる
「そう、急に言われましても」
彼はそう言うと、不安げに右隣に座る劉表の顔を見た。劉表は、その長い髭をしごきながら頷く。
「わしとこの御仁との付き合いは長い。王允殿は、この国の行く末を心から憂えるお方。素直に存念を述べれば良い」
頼れる縁者の声に励まされ、劉繇は気を強くする。
「なれば、この若輩よりこの国の現状について意見させていただく。現在、世は乱れております。そして、漢を――劉一族を軽く見る風潮は目に余るように思います」
「ほ、やはりそう思われますか」
「はい。特に私が危惧するのは徐州に現れた『天の御遣い』を名乗る輩の存在です」
劉繇の発言に、王允は無言で大きく頷いた。その頷きに、劉繇は気を強くする。
「その輩、劉家が治めるこの漢土において、あろうことか自らを天の御遣いと名乗り、その虚名を持って民草を惑わしております。形式上は、劉備とかいう小娘を傀儡にしているようでありますが」
「左様。とりあえず認めはしましたが、あの小娘が本当に劉家の血を引いているかは未だ不明にございます」
「そうでしょう。まったく持って、許しがたい」
そう言うと、劉繇は右手を握り卓を叩いた。低く鈍い音が部屋に響く。
「今は、世が乱れているゆえ目を瞑っております。しかし、いつかの日か天誅を下さねばなりますまい」
「おっしゃる通りにございます!さすがは、劉一族の麒麟児におわしますな」
「世辞はいりません」
そう答えつつも、劉繇はまんざらでもない顔を見せる。そこで、劉表が王允に声を掛けた。
「天の御遣いといえば、予州にも現れたとの噂がありましたな」
◆◆◆
「確か、黄巾賊との戦で曹操が配下として降臨したとか」
「は、おっしゃる通りでございます。しかし」
「うむ。その後、とんと噂を聞かぬ。曹操も、そうした者がいるということを公言してはおらぬ。手元に天の御遣いがいるとなれば、そのことを喧伝してもよさそうなものだが」
「現在、調査中でございます。今、しばらくのお待ちを」
「よろしいでしょうか」
その声に、卓にいる男たちの視線が集まった。声を挙げたのは、王允の背後に立つ眼鏡を掛けた文官――于吉である。
「実は私、その戦に曹操殿への援軍として参加いたしました。そして、その天の御遣いを名乗る人物に会っております」
「ほう。では、教えてくれるかな」
「はい。その男、名を前田慶次郎というのですが……単なる粗暴な田舎者。無視して構わぬかと」
「ふむ?」
「何でも、海の向こうにある未開の土地から渡ってきたとか。それが、この国では海の向こうに『蓬莱』があるという伝説があるというのを聞き、自らがその蓬莱――天の国から来たのだと勘違いしているようで」
それを聞いて、劉繇が吹き出した。
「ははは、まさに『夜郎自大』。田舎者が考えそうなことですね」
「まさに。それ故、曹操殿もその男が天の御遣いであると公言しないものと」
「確かに。公言したら、大恥をかくことになりますね」
「はい。ですから、そうした男を我々が天の御遣い扱いしてしまうのは……」
「その田舎者の思うつぼ。そういうわけですか」
「おっしゃる通りです」
そう言うと、于吉は軽く頭を下げた。于吉の説明を聞いて、王允はにっこりと笑う。
「ほ、これで王允が悩みも一つ減りました」
「あのような野人を気にされているとは知らず。王允殿、お伝えせずに失礼いたしました」
「いやいや、郭図殿。こちらこそ、そのことをおぬしに確認しなかった。わしの落ち度じゃ」
後ろを向いて微笑む王允の背中に、低い声が投げかけられた。
「王允殿」
「何ですかな。劉繇殿」
「その者、名を何と申しましたか」
「ほ、そういえば紹介がまだでしたな。この方は――」
「失礼いたしました。私は袁紹様が臣、郭図と申します」
◆◆◆
「袁紹、だと……」
劉繇が眉をひそめる。
「王允殿。袁紹の臣がいる場所で本音を語ることなどできぬ。私は帰らせてもらおう」
そう言うと、劉繇は立ちあがった。その姿を見て、王允もまた立ち上がる。
「お待ち下され。劉繇様のご心配ごもっとも。しかし、郭図殿は袁紹殿が臣である前に、漢朝が臣でございます」
「ほう?」
いぶかしげに劉繇が于吉を見る。
「では、その証拠はどこにあるのです」
「この爺を信用して下され。と、言いたいところですがな」
王允は意味ありげに笑うと、いきなり話題を変えた。
「ところで、黄巾の乱」
「はあ?」
「皆さまの任地で、黄巾賊は現れましたかな?」
「え?いや……」
劉繇は劉表の顔を見る。劉表は首を振る。劉璋は相変わらず、座卓の上を見つめて何かをつぶやいている。王允は言葉を続けた。
「益州も含め、現れなかったはず。彼らが狼藉を働いたのは、劉一族以外が治める土地にございます」
「王允殿。もしや」
劉表が問う。その問いかけに、王允は頷いた。
「ご明察」
「ど、どういうことです?」
「黄巾賊は劉一族以外を弱体化させるために、意図的に動いていた。そう、王允殿は言っている」
動転する劉繇に、劉表が王允の答えを代弁する。
にわかには信じがたい。劉繇は興奮して王允に問いかける。
「しかし、この洛陽のある司隸でも黄巾賊は跋扈していたではないですか!」
「はい。だからこそ、董卓軍を呼んだ」
「まさか」
「その通りにございます」
王允はにっこりと笑う。
「涼州で着実に地力を蓄えていた董卓が一派。彼らの力を少しでも削ぐためでございます」
「何と……しかし、そんなことが果たして可能なのですか?」
劉繇が身を乗り出す。その額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「はい。ここにいる郭図殿は、特別な力を持つ『道士』にございます」
「道士?」
「皆さまは、どのようにしてこちらにいらっしゃったのですかな?」
「それは……」
劉繇は背後に視線を移した。闇に紛れて、壁際に二人の白面で顔を覆った男が立っている。劉繇は揚州の自宅に突然現れたこの白面の男に、洛陽への同行を請われた。衛士を呼ぼうとしたその時、その男に手を握られた。次の瞬間、彼は洛陽に移動していたのである。
「はい。皆さまをここにお連れしたのは、郭図殿配下の道士たちにございます。彼らの力をすれば、愚民どもを扇動することは容易なこと」
そう言うと、王允は笑って見せた。その顔を見て、劉繇は額の汗を拭う。確かに、不思議な術であった。これが道士の術であるとするならば、王允の言うこともあながち嘘ではないのかもしれない。しかし、このような怪しげな輩を信用しても良いものか。
◆◆◆
「わしは王允殿を信用する。したがって、郭図殿も信用する」
強い声でそう発言したのは劉表であった。その顔を見て、劉繇も覚悟を決めた。劉表のあの自信に満ちた表情。郭図による黄巾賊への働きかけについて、独自の確証を得ているのかも知れない。
「劉表殿がそうおっしゃられるのであれば、私も異論ございません。郭図殿。失礼した」
「いえ。劉繇殿のご懸念、ごもっとも。お許しいただき、ありがとうございます」
「うむ」
劉繇は腰を下ろす。それを見て、王允も腰を下ろした。そして、劉表に問いかける。
「少々脱線しましたな。それでは、劉表様にこの国の現状についてのお考えをお聞かせ願いたく」
「うむ」
劉表は咳払いをすると、話し始めた。
「確かに、徐州の天の御遣いを名乗る輩、天に唾吐く不届き者である。しかし、わしはそれよりも華北の袁紹にこそ、注意を払うべきとと考える」
「ほう」
「今や、かの者は三州の牧を兼ねておる。かつて、これほどの領土を有した臣下はおるまい。放っておけば、禍根となる。いつの日にか、『王』を名乗ることを許さざるを得なくなるだろう」
劉表はそう話しつつ、ちらりと于吉の表情を伺った。その表情にはまったく変化がない。劉表の言葉に、王允が深く頷く。
「確かに。三州を治めるともなれば、漢朝としても王として冊封せざるをえなくなるやも知れませぬな」
「うむ。仮に袁紹が王となれば、漢朝の勢威は大いに衰えることになるだろう。場合によっては、易姓革命すらありうる。しかし」
「しかし?」
「袁紹に瑕疵はない。最近牧を兼ねることになった幽州とて、住民の請願によるもの。朝廷は許可せざるを得なかったと聞く」
劉表は苦々しい表情を浮かべて見せた。
「すなわち、現時点ではかの者に罪を被せることもできぬ。また、追い詰めて挙兵させるわけにもいかぬ。三州を合わせた兵力は侮れぬ。そして、放っておけば」
「はい。いずれは王に。朝廷がそうしなくとも、民がそう願うかも知れませぬな」
「うむ。わしの考えは、以上だ」
そう述べると、劉表はその長い髭をしごいた。
◆◆◆
劉表の結語を受けて、王允は劉璋に視線を移す。
「では、最後に劉璋様。貴方様のご意見を伺いたく」
「……」
劉璋は、いつの間にかつぶやくのを止めていた。卓の上に目を落としたまま、黙り込んでいる。そんな彼に、劉繇は侮蔑の視線を送った。
<愚鈍な男だ>
恐らくは、ここにいる意味すらわかっていないに違いない。
劉繇は、益州の官吏たちを哀れんだ。一年半ほど前、益州の主力たる黄忠、厳顔、そして魏延といった名だたる勇将たちが揃って出奔したのも、この小男を君主として認めることができなかったからに違いない。仮に自分がその臣であったとしても、とても耐えられるとは思えなかった。
こんな「豚」を君主として仰げるものか。これが同じ血族だとは。そうでなければ、こうして一緒に卓を囲むことすら御免被りたいところ。そんなことを思いながら、劉繇は右隣に視線を送る。劉表と目を合った。二人は、小さく鼻で笑う。
沈黙の時が流れた。やがて、王允が告げる。
「劉璋様も、劉表様、そして劉繇様と同じご意見ということでよろしいですかな」
「……」
「承りました。ありがとうございます」
王允は劉璋にうやうやしく頭を下げる。劉璋はまったく反応しない。相変わらず、黙り込んでいた。
王允は頭を上げると、ゆっくりと立ち上がった。
「この王允、皆さまのお考えに深く感銘を受けました。そして、皆さまが国士たることを改めて痛感いたしました。この爺めが皆さまをお呼びした理由も、皆さまの意見を同じくするがためにございます」
「今、漢帝国は未曾有の国難の中にございます。それもこれも、漢室の恩顧を忘れた者どもが好き勝手に私利私欲を追求したがため。しかるに、この爺めは愚考いたします。今一度、この国のすべてを劉家の手に取り戻すべきであると」
「そして、この国難を救うためには劉家の血を引くやんごとなき方々――そう、皆さまの力が頼り。そのための手立ては、ここにいる郭図殿の力を借りて既に準備してございます。どうか、この爺めに皆さまの力をお貸し願えませぬか。そして、この国の正しきあり方を――」
「……ぷっ」
張り詰めた雰囲気をぶち壊すような声が、卓の一角から漏れた。