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恋姫†無双~慶次伝~  作者: RH
第10章 契り
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第5節 嵐前

「おう、間に合いましたか」


 慶次郎と何度目かの指切りを終えた音々音の目に入ったのは、東門から出てくる二人の武人らしき女性であった。訓練の帰りなのだろうか。白い帽子を被った女性は、その手に槍を持っている。


 彼らの姿には見覚えがあった。曹操が配下、荀彧に城内を案内してもらった際、練兵場で訓練の指揮を執っていた二人である。声を掛けてきたのは、そのうちの黒い長髪の女性であった。


 親子水入らずの時間を邪魔するとは何と無粋な。音々音はそんな不愉快な感情を押し殺しつつ、堂々と告げる。


「父……いえ、前田殿以外の見送りは無用。そう、申し伝えた筈ですが」

「お言葉ごもっとも。しかし我ら武人なれば、天下無双たる呂布将軍に一度はお目にかかりたいというのが正直なところ。大目に見てはいただけぬか」


 そう言うと、その女性はからからと笑った。そこまで言われては仕方がない。音々音は軽く頷いた。


「かたじけない。それでは、師匠。ご紹介願えますかな」

「よかろう。音々音、恋。この武将は夏侯惇という。予州の柱石の一人じゃ」

「師匠にそう言われると照れますな」

「ぬかせ。そして、その隣はわしの家臣、趙雲」

「趙雲に。今後、お見知りおきを」


 音々音は無言で頭を下げる。恋は聞こえているのかいないのか、ぼーっとした表情で立ったままだ。


「うむ。では、こちらの二人を紹介しよう。まず、この方天画戟を持った武将が恋――呂布じゃ。まあ、説明はいらんな」


 慶次郎が恋を見る。その顔を見て、恋は無言で軽く頭を下げた。


「そして、こやつが――」


 そう言うと、慶次郎は腰をかがめた。そして両手を音々音の腰に伸ばし、一気に両肩に乗せる。そしてゆっくりと立ち上がった。


「きゃっ!ち、父……いや、慶次……前田殿!」


 慶次郎の肩の上で、音々音がじたばたと動く。慶次郎はそんな音々音の顔を愛おしそうに見上げた後、にっこりと笑って言った。


「――わしの『娘』の音々音。陳宮じゃ。よろしくな」

「は?」

「な……!」

「?」


 その言葉を耳にして、春蘭は目を丸くし、星は口を開け、恋は首を傾げた。


「師匠。つかぬことをお聞きします」

「うむ」

「師匠は、独り身とうかがっておりましたが」

「うむ、独り身じゃぞ」

「?」

「音々音とは、つい一週間前に親子の契りを交わした。義理の娘ということになる」

「そ、そうでしたか」


 そう答えつつも、春蘭は混乱する。華琳に予州牧の地位を授けに来た正使と副使。その副使がいつの間にか師匠の娘になっている。どうにも話が読めない。


 だが、「仕方ない」。春蘭はとりあえず納得することにした。そう、師匠のやることだ。仕方ない、そう思うだけでこの人にかかわるたいていの問題は片が付く。深く考えた方の負けである。


◆◆◆


「ほら、音々音。挨拶をせぬか」

「あう」


 音々音は恥ずかしさのあまり真っ赤になっていた。朝廷からの副使として紹介されるつもりだった。それが、いきなり娘として紹介されてしまった。予想外である。


 もっとも、この人の娘になるということは「こういうこと」だという、うっすらとした確信がある。音々音は覚悟を決めて挨拶することにした。


「わ、わたしは前田慶次郎が息女、陳宮と――」

「ねね」

「れ、恋殿?」


 音々音の挨拶に、恋が割って入る。思いも寄らぬ闖入者に、音々音は慌てた。


「ねね、慶次の『子ども』になったの?」

「は……はい」

「じゃ、慶次はねねの『お父さん』?」

「そ、そうです……」

「……?」


 恋は首を傾げた。その表情を見て、音々音は自分の不手際に頭を抱える。この一週間、音々音と恋は慶次郎とずっと一緒にいた。しかし、その過程で音々音は慶次郎を一度も「父上」と呼ぶことはなかった。いや、呼べなかった。ようやく素直になれたのが、つい先ほどのことである。音々音と慶次郎にとっては、その呼び名は突然のことではない。しかし、恋にとっては青天の霹靂なのであった。


 しかも、その経緯が経緯である。とても簡単に説明できそうにない。どうすれば良いのだろう。音々音が思い悩んでいると、恋が小さく頷いてその両手をぽん、と叩いた。


「……じゃ、恋はねねの『お母さん』になる」

「はう」


 思わず、声が漏れた。ようやく父親ができた。その喜びが覚めやらぬというのに、今度は母親まで。しかも、長年に渡り敬愛の対象であった恋がそう申し出てくれたのだ。その言葉を聞いた次の瞬間、音々音は忘我の境地に達した。半分、気を失っている。


 そんな音々音をよそに、お母さん宣言をした恋はしばし慶次郎の顔を見つめた。そして、何かに気づいたかのような表情をすると、いきなり顔を伏せて黙り込んだ。この一週間、見たことのない態度である。心配になった慶次郎は声を掛けた。


「どうした、恋?」

「そうなると……なの?」

「ん?聞こえぬぞ」


 恋がおずおずと顔を上げる。気のせいか、その顔はほんのりと赤らんでいる。恋は上目遣いのまま、その左手をそっと握って自分の唇に当てた。そして、先ほどの言葉を繰り返す。


「そうなると、慶次は……恋の『旦那さん』に……なる……の?」


◆◆◆


「いや、その理屈はおかしい」


 気がつけば、恋の目の前に槍を手にした女性が立っていた。恋は眉をひそめる。せっかくの気持ちのいい時間を邪魔された。その女性は笑顔を浮かべているが、どう見ても好意を感じない。


「……誰?」

「先ほど紹介を受けたであろう。慶次殿が第一の臣下、趙雲と申す」

「何か、用?」

「今の言葉、撤回してもらおう」

「なぜ?」

「なぜって……その、かように勝手に妻を名乗られては、慶次殿に迷惑ではないか」

「慶次、迷惑?」


 恋は首を傾げると、星の肩越しに慶次郎を見た。飼い主に捨てられることを恐れる子犬の表情である。


 慶次郎は苦笑いを浮かべた。この一週間、呂布――恋と一緒に過ごして分かったことは、この天下無双はとことん無邪気であるということであった。そして、世間の常識がごっそり欠けているところがある。


 そして今も、恐らくは男女が夫婦になる意味を知らずに話している。何せ三人で過ごしたこの一週間、そうした色恋めいた出来事はまったくなかったのだから。きっと、仲のいい男女のことを夫婦だと勘違いしているのだろう。とりあえず、その勘違いを解く必要がある。


「迷惑ではないぞ。天下無双にそう言われるとは、光栄の至り。じゃが、夫婦というものは――」

「ほら」


 慶次郎から言質を取ると、すぐさま恋は星に向かって軽くあごを上げてみせた。いわゆる、ドヤ顔である。


 次の瞬間、恋と星の間に火花が散った。見れば、星の龍牙と恋の方天画戟が組み合っている。星が両手で打ち込んだのに対し、恋は右手のみで受け止めていた。微動だにしない。


 星の顔色が変わる。全力で打ち込んだ。だが、恋はそんな星の様子を無視して首を傾げた。何かを思い出している素振りである。そして、小さく頷いた。


「思い出した」

「何をだ」

「お前みたいな女を、指す言葉」


 恋は、空いた左手を星に向かって指さす。


「泥棒猫?」

「殺す」


 先日の慶次郎と恋の打ち合いに勝るとも劣らぬ、白刃の応酬が始まった。


◆◆◆


 連続する金属音を耳にした音々音が意識を取り戻すと、目の前で恋と趙雲と名乗った女性が恐ろしい速度で打ち合っていた。隣に目を移せば、夏侯惇と名乗った女性が腕を組み、感心した表情でその打ち合いを眺めている。


「あの……父上?」


 音々音は、目の前の頭にすがりながら問う。


「心配するな。ただの戯れじゃ。まあ、怪我をすることはあるまい」

「そ、そうですか」


 慶次郎の言葉を聞いて、音々音はとりあえず安心した。音々音は、恋についてはまったく心配していない。それよりも、慶次郎の部下に怪我をさせることを心配していた。だが、彼がそう言うならば大丈夫であろう。


 そして、今こそ問わねばなるまい。


 避けてきた、あの問いを。


 聞かないこともできる。だが、ここで聞いておくことが、後々慶次郎の身を救うことにつながるかも知れない。そんな、予感がした。彼女は大きく息を吸うと、慶次郎の左耳にその口を寄せてささやく。


「父上」

「ん?」

「つかぬことを、お伺いいたします」


 その声は、真剣である。慶次郎は左に顔を動かした。つぶらな瞳が、じっとこちらを見つめている。


「何じゃ」

「はい。……父上は」


 一旦、言葉を切る。そして問うた。


「『天の御遣い』と名乗られたことは、おありですか?」


◆◆◆


「……遅いわね」


 そうつぶやくと、賈駆――詠は筆を置いて東の窓を見た。窓の外には、青く晴れ渡った空が広がっている。そのつぶやきの対象は、なかなか戻ってこない董卓軍の柱石たる二人――恋と音々音に対するものであった。


 予州の曹操に牧の官位を与えるべく出立した一行は、正使と副使を残して戻ってきた。聞けば、音々音が誤って酒を飲んで体調を崩してしまったという。そのため、彼女の体調の回復を待ってから洛陽に戻るとのことであった。


 それが、戻ってこない。詠は苛立ちと不安を感じていた。二日酔いにしては、帰りが遅すぎる。


 音々音には、振興著しい予州の現状について報告してもらう予定であった。そのために、董卓軍では数少ない文官である彼女をわざわざ使者として予州に送ったのである。


 知りたいことはたくさんあった。画期的と噂されるその兵制。そして切れ者揃いらしいその人材。そして、黄巾賊討伐の戦場に降臨したという、もう一人の「天の御遣い」。


 もしや、曹操に疑いをかけられて拘留されているのか。それとも、予州の現状に関する調査に時間が掛かっているのか。いずれにせよ、今日中に戻らないようならば二人の安否を確認するために新たに使者を送らねばなるまい。そんなことを考えながら空を見上げる詠の耳に、部屋の扉が開く音が聞こえた。


 振り返れば、抜けるような白い肌をした優しげな少女がお盆を持って立っていた。お盆の上には、かすかな湯気を立つ湯飲みが二つ載っている。


「お疲れさま、詠ちゃん。えっと、あの……お茶でもどうかな」


 その少女の名は董卓、字を仲穎。そして、その真名を月。洛陽の守護神と謳われ、大陸最強とも噂される軍閥、董卓軍の領袖である。


◆◆◆


「ありがとう、月」


 詠は親友に礼を言うと、窓際から離れて部屋の中央に位置する卓に移動した。この質素な執務室の中で、その卓だけが二人の地位にふさわしい重厚さを示している。この卓は、涼州にいた頃から二人の時間を過ごすための大切な場所だった。これだけは、と本拠地からこの部屋に持って来たのである。


 詠と月がいるこの部屋は、洛陽の宮城の隅にある小さな建物の中にある。董卓軍の本営にもなっているこの建物は、その軍が果たしている役割を考えれば、非常識なほど小さい。


 一年ほど前から、董卓軍は請われて漢の首都、洛陽の守備についていた。その絶大な軍事力の故に、月はその気になればこの帝国の実権を握ることもさほど難しくない立場にある。しかし、彼女はその生来の清廉さでそうした実益をすべて固辞し、洛陽周辺の治安維持に努めていた。


 黄巾賊の蜂起によって乱れたこの世の中を一刻も早く平和な世界に戻したい。それが月の願いであった。見返りを求めず、言わば骨折り損に過ぎないこの役目を当然のように担う董卓軍に対して、洛陽の住民はやがて深い信頼を寄せるに至った。


 しかし、問題は宮廷に巣食う魑魅魍魎たちである。彼らに足を引っ張られることを避けるため、董卓軍の面々は常に質素たることを心がけた。この本営となる小さな建物も、そうした意図で選ばれた。そうした態度は住民たちの更なる信頼を生んだが、同時に魑魅魍魎たちの更なる妬みも買った。


 結局のところ、この魔都にいる限り権力争いとは無縁ではいられない。権力争いに親友が巻き込まれるのを恐れる詠は、一刻も早く本拠地の涼州に戻りたかった。しかし、その親友はその責任感からなかなか洛陽を離れようとしない。


 親友の身の安全を第一とすべきか。それとも、親友の理想の実現を助けるべきか。詠の悩みは、尽きることがなかった。


 その身の安全を守るために、せめてもの対策として董卓軍では領袖たる月の素性を徹底的に隠している。そのかいあって、董卓軍の将軍たちを除いてその素性を知る者は、この洛陽に皇帝と「もう一人」しかいない。


◆◆◆


「でもね、月。あなたはこんなことをしなくて良いと何度も言ってるでしょ」


 そう言いながらも、詠はどこかうれしそうにお盆を受け取る。そしてそれを卓の上に置くと、月に椅子を勧めた。


「で、でも。このくらいしか、詠ちゃんのためにできることないし」

「それでいいの。君主たるもの、こんなことを軽々にしてはいけないわ」


 詠は月を軽く睨むと、月が腰を下ろした椅子の対面に座る。そして、湯飲みを手を伸ばした。疲れたその身に、ほのかな甘みを帯びたお茶が染み渡る。


「美味しい」

「そ、そう?良かった」

「特別な茶葉なの?」

「ううん。ちょっと、茶葉の組み合わせを工夫してみたの」

「だから、そんなことをしなくていいって言ってるでしょ」

「で、でも、詠ちゃん……」

「一応、感謝しておくわ。ありがとう」


 そう言うと、詠は顔をほのかに染めて横を向いた。そんな親友の横顔を見て、月はようやく微笑む。


 洛陽に来てから、詠の仕事はこれまでの二倍、いや三倍に増えた。これまでの董卓軍の運営のほかに、朝廷での仕事が加わったためである。月に恥をかかせないために、詠は慣れない朝廷での仕事を泣き言も言わず黙々とこなしている。


 そんな親友に、少しでもいいから報いたい。そう思った月は、暇を見つけては詠のためにお茶の入れ方を工夫しているのであった。そして、こればかりは詠に何を言われても止めるつもりはなかった。


 二人して湯飲みに口を運び、卓に置く。お互いの目が合い、彼らは微笑みを浮かべた。詠は思う。この時間のためならば、どんなことだって我慢できる。その時、執務室の扉を叩く音が聞こえた。詠の目が細くなる。


「どなた?」

「ご多忙のところ、失礼しますぞ」


 扉がゆっくりと開く。そこには、笑顔を浮かべた小柄な白髪白髭の老人が立っていた。その姿を見て、詠はすぐに立ち上がる。そして、深々と頭を下げた。


「こちらこそ、失礼を。……王允殿でしたか」

「王のおじいさま」

「久しぶりじゃな、董卓殿。そして賈駆殿」


 この老人こそ、洛陽において皇帝以外で董卓の素性を知る唯一の人間――司徒の王允である。


◆◆◆


「ほ、陳宮殿はまだ戻られておらぬのか」

「申しわけございません。王允殿自らのご依頼でしたのに」

「ほ、お気になさるな。こちらこそ、無理にお願いして申し訳ないと思っておるのです」


 頭を下げる詠に、王允も頭を下げる。それを見て、詠も慌ててもう一度頭を下げた。


 洛陽の守護を任せながら董卓軍の面々を「田舎者」としてさげすむ洛陽の官僚たちの中で、王允のみが董卓軍に好意的であった。そもそも、洛陽に董卓軍を呼んだのは彼であった。彼は董卓軍のために何かと便宜を図り、また他の官僚たちとの折衝を進んで引き受けてくれていた。


 しかも、司徒という立場にありながらその腰は極めて低い。董卓軍の面々を年少者と侮ることなく、常に礼を持って接した。そうした彼の態度に感銘を受けた月は、詠の反対を押し切って当初は皇帝にしか明かさない予定だった自らの素性も明かしている。


 素性を知った王允は驚いてみせたが、すぐさま詠たちの心配を思い量り、董卓の素性を隠匿することに同意した。そして今や、彼はこの洛陽で董卓軍の庇護者ともいうべき存在になっていた。


「それにしても、王允殿」

「ほ、何じゃな賈駆殿」

「予州に、もう一人の天の御遣いが現れたというのは本当なのでしょうか」

「現時点では、噂に過ぎないがの。だが、本当に現れたとするならば」

「するならば?」

「……不敬千万」


 いきなり低くなったその声に、詠と月は息を飲む。気がつけば、王允の顔から笑みが消えていた。


「劉家の始祖は、この大陸を治めるべく天から使わされたお方。したがって本来、天の御遣いとは劉一族を指すべきもの。にもかかわらず。劉姓の皇帝がいらっしゃるにもかかわらず、天の御遣いを名乗るとは言語道断」

「「……」」

「いつの日か、徐州で御遣いを名乗る輩と同じく成敗せねば。……そうは思いませぬか、董卓殿」

「は、はい!」

「ほ、流石は漢の藩屏たる董卓殿。素晴らしい主君を持って幸せですな、賈駆殿」

「おっしゃる通りです」


 そう答えながらも、詠は辟易としていた。この王允、普段は好々爺然とした人の良い老人なのだが、漢への忠節という話題になると人が変わるのである。王允に私欲はなく、漢の安定を願うその気持ちは本物であった。彼は常に正論を語り、その信念にはいささかの揺らぎもない。その毅然たる王允の態度に、月は心酔していた。そして、それは董卓軍が洛陽を去ることができない大きな理由の一つになっていた。


「王允様」


 気がつけば、執務室の外に眼鏡を掛けた一人の文官が立っていた。若い男性である。王允を呼びに来たようだ。


「皆さまが、お揃いになりました」

「ほ、もうそんな時間かえ」

「は」


 文官が頭を下げる。王允は軽く頷くと、月たちに顔を向けた。


「少々話しすぎたようですな。邪魔したの」

「いえ、そんなことはありませんわ。王のおじいさま」

「ほ、董卓殿は本当に心優しいお方じゃ。それでは、失礼する」


 笑みを浮かべて、王允は執務室から去ろうとする。詠がほっと息を抜こうとした時、くるりと王允が振り向いた。


「賈駆殿」

「は、はい」

「それでは、陳宮殿が戻ってきたら――」

「――はい。すぐさま、予州の天の御遣いについて報告に参ります」

「ほ、よろしく頼みますぞ」


 王允は小さく頭を下げると、ゆっくりと執務室から出て行った。


◆◆◆


 洛陽の宮廷近く、高級官吏が多く住む区画に王允の屋敷はあった。その地位を考えれば、屋敷の規模は決して大きくない。しかし、見る者が見ればその設備に目を見張ることだろう。小さいながらも、その屋敷はまさに要塞ともいうべき防御を備えていた。


 その屋敷の最奥には「窓のない部屋」がある。その部屋に向かって、二人の男性が歩いていた。王允と彼を呼びに来た文官である。王允は、その右隣を歩く文官の顔を見上げると上気した顔で語りかけた。


「いよいよですな」

「はい。漢の未来は、王允様の双肩にかかっております」

「ほほほ。この老人にのう」

「王允様。こたびの盟約の成立に、自信はおありですか」

「ほ、さあて」

「王允様」

「はは、冗談じゃ。必ず、わしが実現してみせる。漢を救うための愛国者たちの『契り』。このわしがまとめずに、誰がまとめるというのじゃ」


 そう言うと、王允は正面を真っすぐに見据えた。その目は、わずかに血走っている。無理もない。彼の悲願が叶おうとしているのだ。そんな彼を、文官は冷めた目で見下ろしていた。


 十歩ほど先に、二人の大柄な兵士が頑丈そうな扉の前に立っている。目的地の窓のない部屋だ。兵士たちは、部屋に近づく二人の姿を見て背筋を伸ばす。王允が声を掛けた。


「客人は、この中に?」

「はっ。皆さま、お待ちでございます」

「ふむ。それでは、郭図殿」

「ええ。参りましょう」


 王允の隣に立つ郭図――于吉は、眼鏡に手を掛けながら答えた。二人の兵士が、部屋の扉に手を掛ける。重々しい音がして、扉がゆっくりと左右に開いた。部屋の中央には大きな卓があり、その上に数本の蝋燭が立っている。


 その小さな炎に照らされて、卓を囲んで座る三人がこちらを見た。

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