第5節 昇竜
「お姉様、参りました」
蓮華は雪蓮の執務室の前にいた。その背後に、亞莎と思春がいる。彼らは、これから予州に援軍として出陣する。その前の挨拶のため、参上したのであった。
「蓮華様。お入り下さい」
冥琳の声がした。その声に促されて部屋に入ると、雪蓮の姿が見えない。主のいない執務机の隣に、冥琳が腕を組んで立っていた。
「冥琳。お姉様は?」
「ふて寝をしています」
「は?」
「ふてくされて、寝床から出てきません」
曹操からの二度目の援軍要請に対して、雪蓮は即座に援軍の主将を自ら買って出た。無論、慶次郎の添え書きあってのことである。しかし、それは孫軍のすべての将の反対によって見送られていた。それから、雪蓮はずっと不機嫌なままなのである。
それにしても、これから妹が出陣するというのに。蓮華は右手を額に当てると、ため息をついた。
◆◆◆
主君不在のまま、冥琳は若い三人を前に威儀を正した。そして、彼らが果たす役割を確認する。
「亞莎。お前の役割はわかっているな」
「は、はい」
「副将として、揚州から予州に至るまでの道程、地形、兵が要した糧食、その他もろもろをすべて記録しておけ。後で報告を出してもらう。良いな」
「しょ、承知しております」
亞莎が緊張した表情で頷く。今回の出兵は曹操への援軍であると同時に、「予州侵攻」を目的とした演習でもある。そのために、派遣する将としては蓮華や亞莎といった戦の経験が不足している若い武将たちを選んでいた。
「そして蓮華様。貴方様には、雪蓮様から特に命令が下っております」
「聞きましょう」
嫌な予感がする。そんな蓮華に対して、冥琳が申し訳なさそうに告げた。
「前田慶次郎殿の、女関係を探ってくること」
「は?」
「雪蓮の想い人の、女関係を探ってくること、です」
蓮華はがっくりと肩を落とす。初めて主将を務める戦で命じられることでは断じてない。まだ見ぬ「前田慶次郎」に対して恨みがこみ上げた。八つ当たりであるのはわかっている。しかし、ここまで迷惑をかけられると恨まずにはいられない。
「最後に思春。この中でもっとも場数を踏んでいるお前には、斥候を務めてもらう」
「は」
「蓮華様が万全の体制で心置きなくその采配を振るえるよう、戦場を整えておけ」
「心得ております」
思春は、静かに頭を下げた。
◆◆◆
斥候として先行するために思春が厩舎に向かうと、そこには雪蓮がいた。厩舎の壁に背中を預けて腕を組んでいる。思春の姿を見ると、組んだ腕をほどいて手を振った。
「はぁい」
「雪蓮様、もしや」
「こっそりついていく。なんて、しないわよ」
思春は頷く。豪族の集合体である孫家の勢力において、合議の末決まった結論を覆すことは孫家の主であってもできない。そのことを忘れてはいない雪蓮に、思春は安心した。恋に狂っているわけではなさそうだ。
「思春。あなたに頼みがあるわ」
「私にできることであれば」
「前田慶次郎。知っているわね」
「は。雪蓮様の想い人と聞いております」
「そう、惚れた男」
雪蓮は予州の方向を見て、その唇を右手で撫でた。
「孫軍の中でも、あなたが踏んだ場数は群を抜いている。そんな思春に、あの人が『武人』としてどうか見極めて欲しいの」
「武人として、ですか」
「そう。『男』としては最高なことはわかっている。でも、皆を納得させるためにはそれでは足りない。これから始まる乱世を考えれば、武人としても最高であることの証明が欲しい」
「既に、わかっているかのような口ぶりですね」
「当然よ。私が惚れた男ですもの。ただ、その確証が必要なの」
「承知しました。しかし」
思春は困ったような表情を浮かべた。雪蓮が首を傾げる。
「どうしたの?」
「いえ、私もいくさ人。戦場で見たものについては、いかなる虚飾も剥いでお伝えすることになります。それでよろしいのでしょうか」
「ふーん。主君の男を見る目を疑うってわけ?」
「いえ、そういうわけでは」
「冗談よ。それなら問題ないわ。あなたなら、見ればわかる」
「は」
「ただし、思春。一つだけ、気を付けなさい」
「何でしょうか」
雪蓮は微笑んだ。思春はぞっとする。その微笑みは、まるで氷のように冷たい。
「あの人に惚れたりなんて――しないでね」
◆◆◆
曹軍の武将たちは、あ然としていた。なぜなら、華琳から単騎出陣の許可を得た慶次郎が、何を思ったかその場で鎧を脱ぎ始めたからである。その上、腰に差されていた刀すら抜いた。
「春蘭」
「は、はい」
「おぬしのマントを、譲ってくれぬか。死出の伴に使いたい」
「し、師匠ぉ……」
涙目の春蘭は、それでもマントを外すと慶次郎に渡した。既に、主君である華琳が出陣の許可を出している。もはや引き留めることはできない。しかし、これはないではないか。春蘭は慶次郎を恨めしく思う。何も武装せぬまま、単騎で一万八千の軍勢に突っ込むなど。
華琳もまた、あ然としていた。先に慶次郎の単騎の出陣を認めた理由の一つに、彼が着用している鎧があった。「南蛮鎧」とその男が呼ぶその見慣れぬ黒鎧は極めて強靱で、それを着用している限り慶次郎に致命傷はないだろうという計算が彼女の中にあった。ところが、こともあろうにこの男はその鎧を脱ぎ捨ててしまったのだ。
そんな曹軍の武将の中で、星のみが涼しい顔で慶次郎を見つめていた。彼女は慶次郎を信じている。先ほどは少々うろたえてしまったが、冷静になって考えればこの男はそう簡単に「死ぬ」ような男ではなかった。きっと、わずかであっても彼なりの勝算があるのだ。
陪臣である彼女にとって、大切なのは主たる慶次郎であった。彼の命がかかる状況であれば、華琳の命令に従うつもりはさらさらない。いざとなれば単騎、彼の元に馳せ参じるだけである。一緒に生きる機会を――死ぬ機会を奪われてなるものか。
そんな春蘭、華琳、そして星の視線を感じながら慶次郎は朱槍を持って松風の側に立つ。そして、春蘭たちの後ろから無言で自分を見つめる視線に気がついた。親衛隊の隊長をつとめる武将――楽進こと、凪である。自らの顔の傷を恥じる彼女は、兵たちの前では相変わらず頭巾のついた面頬を被り、その素顔を隠し続けていた。
<これは良い機会かも知れぬ>
慶次郎は凪を呼ぶ。真の意味で曹操軍の初陣たるこの戦で顔をさらすことができなければ、これからもずっと彼女は素顔を隠して過ごさねばならないだろう。凪が呼びかけに応じて彼の前に立つと、慶次郎は彼女に話しかけた。
「凪。せっかくの機会じゃ。おぬしの素顔を兵たちに見せてみぬか」
「と、とんでもございませぬ!私は一生、この面頬をつけて過ごす所存にて」
凪は大きくその首を振った。その意思は固いようだ。慶次郎は腕を組む。そして、一計を案じた。
「凪。わしはこれから死ぬかもしれん」
「な、何をおっしゃるのです!」
「最後の頼みじゃ。面頬をとってくれぬか?」
「それは、卑怯ではありませぬか。そもそも、慶次殿は既に私の素顔をご存じでしょうに」
「存じておる。だが、おぬしの顔を皆に見せたいのじゃ」
「し、しかし……」
「この通りじゃ」
慶次郎は深々と頭を下げた。凪は戸惑った。兵たちの視線が自分たちに集まっているのを感じる。こんな場所で素顔をさらせというのか。
しかし、恩人にいつまでも顔を下げさせたままでいるのは凪の本意ではない。いつの日か、その恩は返さねばならないと思っていた。
◆◆◆
凪が華琳に士官できたのは、慶次郎の推挙による。冀州からの帰路、猪々子に追われた慶次郎に対して凪は戦いを挑んだ。武者修行中であった彼女は、慶次郎を官兵から逃げる賊であると勘違いして成敗しようとしたのである。
凪による奇襲のかたちで始まったその戦いは、慶次郎の勝利に終わった。より正確には、赤兎馬の勝利である。凪の気弾を当てられた赤兎馬が腹を立て、凪に体当たりをして突き飛ばした。そのまま気を失ってしまった彼女を慶次郎は捨て置けず、赤兎馬に拾い上げるとそのまま猪々子たちの追走を振り切り、予州まで連れてきたのである。
風の言葉通りに馬に女性を乗せて戻ってきた慶次郎に対して、星、華琳、そして春蘭が示した怒りはすさまじかった。新しく配置された門番たちが、揃ってすぐさまその場で崩れ落ちる程のものである。
しかし星は慶次郎に「家臣」として認めてもらうことでその怒りを解き、華琳は慶次郎が推挙した凪が一流の武将であることを知ってその矛を収めた。春蘭はその場で慶次郎に一騎打ちを挑み、その後二刻(四時間)もの間続いた戦いの中で彼を武人として認めた。そして今や、彼を「師匠」と呼ぶまでに心酔するまでになっている。その過程で、ペロペロキャンディを噛み割るほどに大変機嫌が悪くなった軍師が一人いた。それはまた別の話である。
そうした経緯を経て華琳に仕えるようになった凪は、今や親衛隊の将を任せられるまでになった。そして華琳の意向もあって、彼女がその顔に傷をつくる理由となった故郷の村を襲う賊たちを討伐することもできた。また、華琳のもとにいた故郷の友人、沙和と真桜にも再会することができた。これすべて、慶次郎が気絶した凪を助け、華琳に推挙してくれたゆえである。
その大恩ある彼に対し、凪は沙和と真桜以外では唯一、その傷だらけの素顔を見せていた。しかし、それ以外では主君である華琳にさえ見せたことはない。凪の顔に傷があることを知った華琳は、その真名を求めはすれ顔を見せることまでは無理強いしなかった。
その慶次郎が、兵たちの面前で顔を見せろという。彼が死んでしまったら、その恩は二度と返せない。そして、一万八千の兵に単騎向かおうとする彼が死ぬ可能性は非常に高かった。迷っている暇はない。一瞬の逡巡の後、彼女は意を決した。
◆◆◆
「わかりました。最初で最後の機会です。恥を忍んで、この顔をさらしましょう」
そう言うと、凪は慶次郎の返事を待たずに頭巾ごと面頬を取った。兵たちの間に、声にならない声が上がる。彼らの目の前には、傷だらけの顔をした銀髪の少女が立っていた。その髪は三つ編みになっており、その視線は凛と前を向いている。その凜々しい顔は、ほんのりと赤く染まっていた。
そんな少女の側に立ち、その肩に手を掛けると慶次郎が兵たちに向かって叫んだ。
「見よ!この顔を!」
慶次郎の手の下にあるその肩が、びくっと動く。
「傷だらけのきたない顔じゃ!」
「……っ」
凪は差恥のあまり下を向いた。親衛隊の兵たちが殺気立って慶次郎を睨む。
「だが、それがいい!」
「「「おお!」」」
兵たちの中で喚声が上がる。凪は慶次郎の顔を見上げた。
「顔はおなごの命ぞ!そして凪は仲間を守るためにその命をかけてきた!兵たる者、将たる者、これを美とするべし!」
「「「応!」」」
兵たちが腕を掲げて応えた。彼らの目はきらきらと輝いて、ようやく見ることができた親衛隊長の可憐な素顔を見つめている。凪は顔を真っ赤にして、口をぱくぱくとさせた。
「どうじゃ、凪。皆、おぬしに見とれておるわ」
「……!」
「自信を持て。おぬしは美しい」
「い、いえ、私など、こんな、傷だらけの顔など」
凪が首をぶんぶんと振る。慶次郎はため息をついた。
「心配するな。万が一引き取り手がなければ、わしがもらってやる」
「「「「「!」」」」」
「まあ、おぬしほどの器量であればそれはいらぬ心配というもの……」
「ふ、ふつつか者ではございますが、よろしくお願いいたします!」
「お、おう?」
先程までの差恥の表情が嘘のように、凪は晴れ晴れとした笑顔を浮かべて慶次郎を見上げる。気がつくと、兵たちが皆、生暖かい視線を慶次郎に向けている。居心地が悪い。慶次郎は自分をじっと見つめる凪から目をそらした。そして、やはり自分を見つめる四人の視線に気がついた。
「師匠!婚礼では、是非ともこの春蘭に演武をお任せあれ!」
「ふ。ならば、この秋蘭は司会を任せていただこう」
「慶次殿。行くなら早くして下され。待ちくたびれ申した」
「さっさと死んできなさいよ」
「う、うむ」
なんともいえない雰囲気の中で、慶次郎は松風にまたがった。
◆◆◆
慶次郎が松風に乗って丘をゆっくりと下っていく。その後ろ姿を眺めていた華琳は、振り返るとそこに控える諸将に告げた。
「さて、戯れはここまでよ。各自、先に命じた地点に待機しなさい。慶次が何をするつもりなのかはわからないけれど、『何か』が起きたらこちらで銅鑼を鳴らす。それと同時に攻撃開始。いいわね」
諸将は頷くと、各自おのれの持ち場に戻っていった。しかし、その場から動かない武将が一人いる。
「星?」
「華琳殿。その草冠は、被ったままなのですかな?」
「ああ……」
華琳は頭の上に手をやった。慶次郎が手を尽くしてつくった草冠である。ところどころに、野の花が咲いている。それを愛おしげに撫でながら、華琳は自嘲気味に笑った。
「無位無冠の今の私には相応しくなくて?」
そんな華琳に対して、星は表情を崩さない。そして、噛みしめるようにゆっくりと言った。
「華琳殿。これは決して嫌味で申し上げるのではありませぬ。非常に、似合っております」
「そ、そうかしら」
「私は、慶次郎から何もいただいたことがありません。実に、うらやましい。……いや、戯言が過ぎました。失礼」
星は頭を下げると、白虎騎に向かって歩いて行く。その背中を、華琳はじっと見つめていた。
◆◆◆
昼食を終え、馬上の人となった馬元義の目に、丘の上から黒馬に乗って駆け下りてくる男が目に入った。
「何でぇ、あれは」
「さあ。許からの降伏の使者ですかね」
その男は右手に大きな黒い旗を掲げ、ゆうゆうとこちらに向かってくる。その顔には微笑みが浮かんでいる。春の陽気に誘われて遠乗りに出かけて来た、そんな雰囲気である。
そんな雰囲気のまま、その男は縦四列になっている歩兵の方陣の真ん中に馬を乗り入れた。見れば、その身には寸鉄も帯びていない。鎧も身につけていなかった。そんな無防備な男が笑顔を浮かべたまま、ゆっくりと馬を進めている。
歩兵たちは戸惑った。この男は何なのだろう。体は大きいが、武装しているわけでもない。よくわからない黒い旗を掲げている。緊張している風でもない。まるで、友人に会うためにここに赴いたような。馬元義様の知人だろうか。
彼らが戸惑っている間にその男は歩兵たちの隊列を過ぎ、騎兵たちの隊列の前まで来た。彼らがとりあえず囲もうとしたとき、その男が大声を上げた。
「馬元義殿はいらっしゃるか?予州の住人、前田慶次郎が参上したとお伝えあれ」
まえだけいじろう、だと。半町(約五十五m)ほど離れた場所で慶次郎の名乗りを聞いた馬元義は、その名前に思い当たるものがあった。声を上げる。
「わしが、馬元義だ」
その声がすると、横二列の騎兵がその真ん中でさっと横に分かれた。慶次郎と馬元義の間に道ができる。
「おお。お初にお目に掛かる。わしは前田慶次郎と申す」
「おぬしが前田殿か。周倉から話は聞いてるぞ」
「周倉から?」
「ああ。前田殿。おぬし、天の御遣いだそうだな?」
周倉の奴め。慶次郎は苦笑する。
「そんな風に、言われていることは確かだの」
「謙遜はよせ。予言者の管輅も太鼓判を押したと聞いている」
「風評じゃよ」
「そうかね」
二人は笑いあう。気持ちのいい男だ。お互い、そう思った。
「馬元義殿。おぬし、ここら一帯の黄巾賊の将と聞くが」
「まあ、そういうことになるかな」
「ならば、聞きたい。ノッポ、デブ、チビの三人組に心当たりはないか?」
「ノッポ、デブ、チビの三人組?」
「ああ。絵に描いたような『三人組』よ」
馬元義は首をひねる。
「うーん、知らんなあ。……おおい、野郎ども!」
馬元義が野太い声を上げた。一万八千の黄巾賊がその大将に視線を向ける。
「ノッポ、デブ、チビの三人組を知らねえか?」
ざわざわと兵たちが話す声がする。しかし、その所在を知っているという声は上がらなかった。
「誰も知らんようじゃな」
「そうか。すまんな、手間を取らせた」
慶次郎は頭を下げる。
「いいってことよ。で、前田殿。加勢に来てくれたのか」
「いや。残念ながら、その逆じゃ」
「逆?」
「ああ。わしはおぬしの首を取りに来た」
「ほ、そうかね」
「ああ」
二人は再び、笑いあう。周囲の黄巾賊がざわめき始めた。
「ところで、その黒旗は何じゃ」
「ああ、これか。これは『弔旗』じゃ」
「弔旗?」
「ああ。おぬしへのな」
そう言うと、慶次郎はその黒旗を大きく振った。黒旗――春蘭から譲ってもらったマントが抜けて地面に落ちた。その旗の柄は、朱槍である。長大な槍穂が、初夏の日差しを浴びてきらめいた。その朱槍を頭上でぐるぐると回すと、穂先を馬元義に向ける。そして、慶次郎は大音声で叫んだ。
「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ!
我こそは天の御遣いにして予州の住人、前田慶次郎と申す者なり!
縁ありて中原に咲く黄金の華、蓋世の英雄、予州の義人たる曹操殿にお味方いたす!
――馬元義殿、お覚悟なされよ!」
◆◆◆
その声は朗々と辺り一帯に響いた。木霊となって広がっていく。
「華琳様?」
凪は動かなくなった華琳に声を掛けた。華琳が機械仕掛けの人形のように振り返る。その顔はゆでだこのように真っ赤である。凪はなだめるように声をかけた。
「華琳様。慶次殿は華琳様の名を知らしめるべく……」
「わ、わかっているわ。わかっているのよ」
「はっ」
華琳はうれしかった。あれほど慶次郎が忌避していた天の御遣いという称号。その称号を、今の口上で彼はあっさりと用いてみせた。それは、明らかに華琳のためであった。予州の無位無冠の若者に過ぎないこの自分は「天の御遣いによって選ばれし人」であると、彼は高らかに宣言してくれたのだ。
それにしても。あの文言はちょっと大げさではないか。
<打ち合わせをしておけば良かったわ>
華琳は、額ににじむ汗を拭った。
◆◆◆
「おぬし、阿呆か?」
「よく言われるわ」
馬元義と慶次郎は笑いあう。そんな二人の回りで、一斉に黄巾賊たちが動き始めた。慶次郎に面する方陣の歩兵たちは一斉に剣を抜く。草原に白刃が林立する。歩兵たちの後ろでは、弓兵たちが斜め上に向かって弓を引き絞った。声を出す者は誰もいない。ただ、人殺しの道具だけが乾いた声を上げていた。
二人はそんな喧噪が耳に入らぬように話を続ける。
「そんなに声高に叫ばんでも、黙って近寄ってぶすりとやれば良いではないか」
「つまらぬことを言うな。折角の舞台、楽しまなくては損であろう」
「ははは、そうかもしれんな」
喧噪が止む。舞台は整った。慶次郎は息を吸い込むと、あらん限りの大声で叫んだ。
「いざ!」
馬元義が応える。
「尋常に!」
二人の声が重なった。
「「勝負!」」
次の瞬間、黄巾賊の歩兵たちが雄叫びをあげながら洪水のように慶次郎に向かって左右から一斉に押し寄せた。同時に、慶次郎は松風の背に伏せる。それが合図であったように、松風がまるで爆発したかのような勢いで駆けだした。その後を追うように、地面に無数の矢が突き刺さる。針山が次々とできていく。
慶次郎を乗せた松風は、見る間に一列目の騎兵たちの前に辿りついた。騎兵たちは立てていた槍を水平に構えると、隊列を半円状にして慶次郎を押し包むように突っ込む。逃げる場所のない、必殺の陣形である。その中に、慶次郎が沈んだ。
◆◆◆
地響きを立てて、黄巾賊一万八千が動き出した。彼らの目は、すべて慶次郎に向いている。その背後はがら空きだ。「何か」が起きたのだ。凪が叫ぶ。
「華琳様!」
「わかっているわ!」
凪の声に、華琳が叫び返す。そして銅鑼を鳴らさせるために振り向こうとした瞬間、二人は同時に声を出した。
「「あ」」
銅鑼が鳴る前に飛び出そうとしていた星も、思わず声を漏らす。
「あ」
銅鑼の音を今か今かと待ちわびる春蘭、それを抑える秋蘭もまた、声をあげた。
「「あ」」
その姿を見て、華琳はつぶやいた。
「翔んだ……」
◆◆◆
「翔んだ……」
馬元義はつぶやいた。騎兵たちに包まれて消えた松風の巨体は、次の瞬間に空を翔んだ。跳ねた、では足りない。まさに「翔んだ」。松風は一瞬にして囲んでいた騎兵たちを飛び越える。そして、その背後の人馬を押し潰した。骨が砕ける嫌な音が響く。
松風は馬元義に向かって再び猛烈な勢いで走り出す。馬上の慶次郎の体には無数の切り傷が付いていた。無理もない、彼は鎧を着ていない。彼の背後には、血煙がたなびいた。
二列目の騎兵たちが慶次郎に向かって突っ込む。先ほどと同じような光景が繰り返された。彼らの槍が慶次郎に届くその直前、松風はまるで地面に伏せるがごとくその馬体をかがめる。そしてその丸太のような後ろ脚を踏ん張ると、その巨体は重力を忘れたかのように宙を駆けた。騎兵たちの槍穂は、また新たな傷を慶次郎の体に刻む。
松風が地響きを立てて着地した。慶次郎の前に、馬上で呆然とたたずむ馬元義がいる。護衛達が大将を守るために馬元義を囲んだ。だが、横薙ぎの一閃で彼らの首は一瞬で消え失せる。
魔物のような男が迫る。悪魔のような馬が迫る。この世のものとは思えないその人馬の姿を、馬元義は夢うつつで見つめた。これは、現実なのか。思わず、見とれていた。
気がつくと、男が朱槍を振りかぶっている。
「すまんな」
それが馬元義の聞いた、最後の言葉だった。