第4節 冀州
豪華な天蓋のある寝台の上で、銀髪の美女が目を瞑っていた。その肌は、極上の白磁のように白く透きとおっている。慶次郎は寝台の側に歩み寄ると、眠れる美女を見下ろした。そして、そっと声をかける。
「冬華……」
寝室の窓から風が吹き込む。その銀髪が、漂うようにはらはらと舞った。
◆◆◆
まったく、反応がない。慶次郎は腰をかがめると、顔を近づけた。そして気づいた。冬華の胸が動いていない。呼吸をしていない。
振り返って于吉に問いただそうと慶次郎が体を起こしたその刹那、冬華の胸がゆっくりと上下した。そして、再びその動きは停止する。
「これは」
「仮死状態ですよ」
「かし?」
「死んだように眠っている状態、とでも申しましょうか」
慶次郎が左慈と対峙したあの夜、冬華は左慈にその首を手刀で打たれて気を失った。以来、目を覚まさずこのままの状態でいるという。
「このまま、目を覚まさぬのか?」
「いいえ、そんなことは」
于吉はゆっくりと首を振った。
「私たち管理者は、自らの心、もしくは体が危機的な状態に陥ったとき、このような状態になって回復を待つのです。時が来れば、彼女も目を覚ますはず。しかし」
「しかし?」
「左慈が、何らかの術をかけた可能性もなきにしもあらず」
「……」
「その場合、管輅がいつ目を覚ますかは私にも」
「そうか」
慶次郎は再度、体をかがめると冬華に顔を近づけた。人形めいたその表情は、かすかに微笑んでいるようにも見える。慶次郎はその額を愛おしげにゆっくりと撫でた。そして体を起こすと、くるりと寝台に背を向けた。そして、横に立つ于吉に問う。
「ここから予州までは、どのくらいじゃ」
「今から、帰られるので?」
「ああ」
「薄情ですね」
「薄情?」
慶次郎は、于吉の顔を見た。能面のような表情をしている。だが、その眉はわずかにひそめられていた。
于吉は、自分でもおかしいと思っていた。実のところ、このように「こと」を進めたのは自分である。哀れな左慈は、于吉の手のひらで踊る道化に過ぎない。すべては、計画通りの出来事だ。
なのに、無性に腹が立った。それが「友人」である左慈をも道化とせざるをえない自分の役割に対するものなのか。それとも、もう一人の道化たる管輅を哀れに感じたからなのか。理由は、自分でもよくわからない。
「せっかく、会うことができたのです。せめて、もう少し一緒にいてあげては?」
「なぜじゃ」
「なぜって……。管輅は、命をかけてあなたを守ろうとしたのですよ?僅かな時間であれ、側に付き添ってあげても良いではありませんか」
思わず、声が大きくなった。自分のことを棚に上げての発言であることはわかっている。それでも、言いたくなった。于吉は慶次郎を軽くにらむ。にらまれたその男は、困った顔をして頭をかいた。
「ずっと一緒にいられるなら、そうもしよう」
「?」
「だが……。わしがこの世界にいられる時間は、さほど長くはあるまい?」
「な……!」
于吉は目をむいた。管理者であっても、貂蝉と于吉しか知らぬはずの「秘密」。その秘密を、この男はすでに知っている。気づけば、その男が自分をじっと見つめていた。
「やはり、か」
「は……」
しまった。かまをかけられた。于吉は思わず唇を噛む。そんな于吉を諭すように慶次郎は言った。
「考えてみれば、それも当然のことじゃ。すでに定まっている『歴史』を変えてしまうかもしれぬ存在。そんな迷惑千万な輩が、ずっとこの世界にいられるわけもない」
「……」
「おぬしらは、歴史の守り手のようなものじゃな。わしが来てから、さぞかし迷惑したことであろう。同情するわ」
何が面白いのか、慶次郎はくっくっと笑ってみせる。
「ならば、元の世界に戻るその時まで、わしは好きに生きよう。見たいものを見、聞きたいもの聞き、そして会いたい者に会おう。まあ、どれだけの時間がわしに残されているかはわからんがな」
目の前の男に悲壮感はなかった。だが、于吉は戸惑っていた。この男が、あっさりと己の存在が遠からぬ先に消え去ること、そして管理者という自分たちの役割を肯定するとは思ってもみなかったのだ。これでは、自分に「悪役」ですら務まらない。
「だから、この世界に元からいる者たちの心を乱そうとは思わぬ。わしがいなくなって、寂しい思いなどさせたくない。そんな、無責任なことはできぬ。だから、薄情なぐらいでちょうど良いのじゃ」
それは無駄な努力でしたね、と于吉は思う。彼は知っている。この男がこの世界に現れてから、どれだけの人々に影響を与えたか。その誰もが、彼を慕っているというのに。なんて「残酷」な男だ。
そんな于吉の気持ちを知ってか知らずか、慶次郎は話を続けた。
「それに、じゃ。わしは自分ができる最高の手当を冬華にしているつもりだがの」
「どういうことです?」
思わず、問うた。その男は、にっこりと微笑んで、于吉の左肩を右の手のひらで軽く叩いた。
「おぬしがおる」
「……!」
「この大陸随一の勢力を誇る袁紹殿の重臣、『郭図』として権勢を誇り、かつ同じ管理者であるおぬしがおる」
「……」
「目を覚ましているならまだしも、このまま眠ったままであるならば。わしと共にあるより、おぬしと一緒にいるほうが、はるかに安らかに過ごせるというものよ」
「そんなに、この私を信用して良いのですか?」
「構わぬ。わしは一度信じた男は疑わぬ」
「な……」
「おぬしを男と見込んだ。頼むぞ」
そう言うと、慶次郎は深々と頭を下げた。于吉の口が思わず開く。いいようのない感情が、彼の身を包んでいた。心が震えている。
同時に、苦い染みが胸に広がった。自分は、管理者としての役割を果たさねばならない。自分は、これからこの男を地獄に送り込む。きっと、肉片一つ残らぬ絶望的な戦場へ。そして、管輅の心を煉獄へ送り込む。その心に永遠に消えぬ悲しみが刻みつくように。
于吉は思わず、顔を伏せた。やはり、この男は残酷だ。この私に、このような思いをさせるとは。
そして――。
初めて、天を恨んだ。
◆◆◆
「見事なものだな」
「私たちは、五胡――匈奴や烏丸とも交易しています。馬の質に関しては、他の諸侯には負けない自信がありますよ」
広大な敷地をほこる屋敷の一角。大きな厩舎の前に、慶次郎と于吉は並んで立っていた。厩舎には、通常の馬よりも一回り大きな見事な馬が十数頭、並んで草を食んでいる。
河北の雄たる袁紹の重臣にして、希代の謀臣。それがこの鄴における于吉――郭図の立ち位置である。その権勢を反映してか、屋敷の敷地の大きさは主君に次ぐ。冬華のいる寝室は、この屋敷の奥深い場所にあった。
予州に戻ろうとする慶次郎を、于吉は来た時と同じ方法で送ろうとした。しかし、慶次郎が嫌がった。理屈のよくわからない方法で移動することに、なんとなく忌避感があった。慶次郎に于吉を責めるつもりはなかったが、そもそもこの鄴にも半ば強引に連れて来られている。
『冬華に会いたくはありませんか?』
『会えるのか?』
『ええ。前田殿が望みさえすれば』
『ならば、会わせてもらおう』
『わかりました。それでは、まず私の左手を握ってください』
『?こうか』
『はい。それでは』
そんなやり取りの後、気がつけば慶次郎はこの街を見下ろせる丘の上にいた。そうした経緯もあって、彼はあくまで地を通って予州に戻ろうとした。そんな慶次郎に、于吉は移動手段として馬の提供を申し出た。それならば、願ってもないことである。慶次郎は喜んでその申し出を受け入れた。
于吉は、どれでも好きな馬を選んで良いという。さて、どの馬を選ぶか。目を皿のようにして視線をやる慶次郎であったが、ふと、大きな厩舎から少し離れた場所に小さな厩舎があることに気が付いた。
「あれは何じゃ?」
「あれ?……ああ、あの厩舎ですか。本来は、病になったり怪我をしたりした馬を隔離しておく場所なのですが」
于吉は苦笑する。
「今は『とある馬』を入れてあります」
「とある馬?」
「はい。何と申しましょうか。常人には乗りこなすのが難しい馬でして」
「ほう!」
慶次郎の目がきらきらと輝いた。すぐさま、その厩舎に向かって歩き出す。その背中を、于吉は慌てて追いかけた。
その厩舎には、先に見た馬たちとその馬格はさほど変わらぬものの、雰囲気がまったく異なる馬がいた。まず、色が赤い。まるで、血の汗を流しているかのようだ。そして、全身これ筋肉といった体つきである。
「これは」
「汗血馬といいます。なんでも、西方から来た馬であると」
「……もしや」
「どうしました?」
「いや」
慶次郎は思案顔になると、于吉に問うた。
「これなる馬の名前は、何じゃ」
「まだ、特に定めてはおりませぬが」
「ならば、わしが名づけよう」
慶次郎は完爾と笑う。そして、告げた。
「この馬の名前は、『赤兎馬』じゃ」
◆◆◆
「赤兎馬、ですか?」
「うむ」
「確かに、赤いですけどね……。これが、ウサギですか」
于吉は苦笑しながら、赤兎馬と名づけられたばかりの馬を見上げた。匈奴の商人から高い金を出して手に入れたものの、この馬はその「性格」に難があった。まともに乗れる者は限られる。少なくとも、自分にはまたがれない。
「わしはこの馬を選ぶ。それで良いか?」
「……良いでしょう。ですが、よろしければその理由を教えていただけませんか」
「ふむ。もしかして、ではあるが」
「ええ」
「この馬を手元におけば、この世界で『あの武人』に会えるやもと思ってな」
「あの武人?」
「何、戯れよ。深い意味はない」
そう言うと、慶次郎は赤兎馬を厩舎から引き出した。そして、ひょいとまたがる。于吉は目を丸くする。
「ほう。凄いですね」
「ん?どうしてじゃ」
「この馬、実は性格に難がありまして」
「性格に難?」
「ええ。この馬、見ての通り雄馬です。そして大の――」
と次の瞬間、赤兎馬は恐るべき速度で後ろ足を跳ね上げた。油断していた慶次郎が宙を舞う。
「――『女好き』の『男嫌い』なんですよ」
屋根の上に半ばその上半身をうずめた慶次郎を眺めながら、于吉は笑いを堪えるのに必死だった。
◆◆◆
屋敷の屋根に飛び込んでから一刻(二時間後)後。慶次郎はぼろぼろになった服を着て、鄴の街を歩いていた。昼時である。大都市だけあって、大変な賑わいであった。
どうにか赤兎馬を乗りこなすことに成功したものの、このまま予州に発つにはいささか腹が減っていた。于吉は屋敷で食事を出すと申し出てくれたのだが、せっかくの機会だからと慶次郎は街に出てきたのである。
そんな慶次郎の目に、とある酒家が目に止まった。それほど大きくはないが、大変な賑わいである。そして、その客層が特徴的だった。いかつい男だらけなのである。
兵士御用達の店であるのかも知れぬ。ならば、安くて美味いと相場が決まっている。慶次郎はふらりとその店に入った。
「いらっしゃい!」
初老の男性が出迎える。その後ろで、やはり初老の女性が料理を運んでいた。夫婦で店を回しているようだ。
「あいにく、今は奥の席しか空いておりませんが」
見れば、一番奥に二つの食卓が空いていた。一つは二人掛け、もう一つは四人掛けの食卓である。これだけ混んでいるのに妙だな、そう思った。だが、今はとにかく腹が減っている。
「ああ、かまわん」
そう言うと、慶次郎はずんずんと奥に向かって歩いていく。店内の男たちが、奇異なものを視るような目でその背中を見た。慶次郎は二人掛けの食卓の椅子に、どかりと腰を下ろす。
「店主。お勧めのものを持って来てくれ」
「へ、へい。……あの、本当にこの席でよろしいので」
「かまわん。早くしてくれ。腹と背中とくっつきそうじゃ」
「へ、へい」
店主は心配そうに頷くと、厨房に入っていった。そして、すぐに炒められた肉と野菜が山盛りになった大皿を持って来た。慶次郎は早速箸を掴むと、大皿を手に持ってかき込み始める。
その時、店内が騒がしくなった。見れば、店の表にこの場には場違いにも見える若い女性が立っている。短めの髪に布のようなものを頭に巻き、いかにも元気そうな雰囲気の女性である。
その女性は、店内の男たちに声をかけながら大股で店に入ってきた。男たちと、それなりに親しい関係にあるようだ。ときに男たちの背中を叩きながら会話を交わし、笑い合っている。そして、慶次郎の前まで歩いてきた。
「よーう。お前、度胸あるな!」
「ん?」
慶次郎は目の前の皿から顔を上げた。
「おぬしは誰じゃ?」
「誰じゃって。……お前、あたいのことを知らないのか?」
女性の顔が、やにわに厳しくなる。慶次郎は頷いた。
「ああ、知らぬ。悪いが、この街に来ばかりでな」
「何だ、新入りかよ」
女性は破顔すると、慶次郎の向かいの椅子に座る。
「それじゃ、仕方ないな。今日は大目に見てやる」
「ふむ?」
「お前も聞いていると思うが、これから麗羽様がやってくる。好きなだけ食べていいけど、くれぐれも粗相の無いようにな」
「……?」
まったく、意味が分からない。慶次郎が首を傾げていると、店内の雰囲気が変わった。男たちは先ほどと変わらぬ様子で食事をし、会話を交わしている。だが、なんとなくぎこちない。その目が泳いでいる。
<緊張しておるようだが……>
慶次郎は改めて首を傾げる。その時、慶次郎の前に座っていた女性が大声で叫んだ。
「麗羽さま―!ここに席が空いてるぜ!」
「そんな大声を出さなくてもわかりますわよ、猪々子さん」
慶次郎の目の前に、二人連れの若い女性が現れた。一人は、おかっぱの黒髪の女性である。そしてもう一人は、くるくると巻いた金髪が目立つ、きらびやかな服をまとった何とも豪奢な雰囲気の女性であった。二人は慶次郎たちが座る食卓の隣、空いていた四人掛けの食卓に向かい合わせで座った。
「「い、いらっしゃいませ!」」
厨房から、店主の男性と給仕の女性が飛び出してきた。その額には、汗が浮いている。その二人に尊大に頷くと、金髪の女性はおごそかに「注文」した。
「この店で、一番美味しい料理を持って来なさい。大至急」