第3節 仕合
慶次郎は、改めて自らの身体を見た。なるほど、どうやら老人の身体ではない。うきうきしていたのは、どうやら気分のせいばかりではないらしい。身体そのものが元気なのだ。
左の袖をまくる。そこには丸太のような腕があった。慶次郎はまゆをひそめる。そこにあったのは鉄砲傷である。その傷は、長谷堂の戦いで受けたものであった。
慶次郎は考える。これは二十代の自分の身体に魂が戻ったというよりは、七十三歳の自分が若返った身体である、と考えて良さそうだ。
「すごい傷ですね」
慶次郎の腕をまじまじと眺めていた趙雲がつぶやく。鉄砲傷以外にも、縦横無尽に走る刀傷、槍傷。彼女の目に、それらはまるで模様のようにも見えた。
慶次郎は、そんな趙雲の顔を見る。思いのほか幼い。恐らく、十代の後半、または二十代の前半であろう。
無言で袖を戻すと、慶次郎はノッポの槍を手に取った。そしてにこりと笑うと、趙雲に向かって言った。
「さて、趙雲殿。せっかくの機会じゃ。軽くお手合わせ願えないか」
◆◆◆
「本当によろしいのですか」
「かまわん」
「はあ……」
趙雲は困惑していた。
相手は、まるで棒きれのような槍を持っている。彼女の愛槍である龍牙を当てれば、ひとたまりもなく折れてしまいそうだ。しかも、この人は酒を飲んでいる。
たしかに、大きい。しかし、図体がでかい男というものは、そうじて動きが鈍いものである。そして、概して「男性は女性に劣る」。少なくとも、「この世界では」そうである。
いかに天の御遣いであるとは言え、簡単には負けない自信もあった。この人は天から来たばかりで、自分のことを知らない。「常山の趙子龍」と呼ばれ、知る人ぞ知る存在である自分のことを。ここは、軽くうちのめして自分の価値を知らしめるのも一興。
「条件はそうだな……戦闘不能になったら負け、というのでどうだ」
「……」
「ん?どうした」
「いえ」
腹が立った。そんなにもなめられているとは。そもそも、この人は本当に天の御遣いなのか。手加減できるだろうか。
「おいノッポ」
「へ、へい」
「お前、審判な。勝負がついたら止めろ」
「わかりやした」
目の前の男はふくべをノッポに向けて放り投げると、趙雲と向き合った。
「それでは始めようか」
男が言うと同時に、趙雲は突っ込んだ。
神速である。
一気に決めるつもりであった。
が、すぐさま後ろに飛んだ。
<な、なんだ……>
目の前の男の雰囲気が一変している。
まるで、野生の虎に出会ったかのようだ。
一見隙だらけのようにみえて、まったく隙がない。
やはり、この人は天の御遣いなのだろう。しかし!
趙雲は、槍を構え直す。
もう、手加減する気持ちはさらさらない。
神速の槍を、男の急所目指して突き込んだ。
ここに至っては、間違って殺してしまってもやむなしと思っている。
しかし、当たらない。
棒のような槍で、受け流されている。
そして、男はじっとこちらを見つめている。
冷や汗が止まらない。
◆◆◆
<ふむ、これは真に趙雲であったか>
慶次郎は考える。彼は趙雲の槍さばきのすさまじさに、内心驚いていた。これほどの槍の使い手に出会ったのは、戦国の世でも両手の指で数える程。しかも、これが妙齢の女性なのである。
となると、これは慶次郎の知っている三国時代ではない。似ているが、別の世界と言うことだろう。
慶次郎は趙雲の槍をさばきながら思う。
天は。
天は、自分に何をさせようとしているのだろう。
このような、まるで、おとぎ話のような世界で。
槍の刃が合わさった。砂利を踏みしめたような音がして、慶次郎の槍の刃が削れる。対して、趙雲の槍の刃は、刃こぼれ一つない。よほどの槍と思われた。しばし刃を合わせ後、趙雲が後ろに飛ぶ。そのまま、二十歩程離れて立った。
その小さな唇から、荒い息が漏れている。
しかし、その目は燃えるようだ。
必殺の一撃が来るか。
となれば「狙い」は一つ。
何とも分かりやすい。
——若いのう。
「はっ!」
趙雲は裂帛の気合いと同時に目にも止まらぬ速さで、駆けだした。そして、慶次郎から十歩離れた場所で急に腰をかがめる。そして、一瞬にして姿を消した。
慶次郎はその視線を上に向けた。彼女は空中にいた。槍を大きく振りかぶっている。そのまま、投げつけるものと思われた。その姿を見て、慶次郎は地面に槍を投げ捨てた。
「!」
趙雲の表情が驚愕の表情に変わる。一瞬の逡巡の後、彼女はその槍を慶次郎の心臓に向けて投げ放った。
◆◆◆
「わしの勝ちだな」
地面に降りた趙雲の首筋に、槍の穂が当てられた。それはノッポの槍ではない。彼女の龍牙である。
慶次郎は、飛んできた龍牙を掴んだのである。趙雲が心臓を狙って投げつけたその槍は、あたかもそこに来るのがわかっているかのように慶次郎の右手で簡単に掴まれた。そして掴んだ龍牙をくるりと返すと、その槍の穂を趙雲に向けたのである。
「私の……負けです」
趙雲は、次に来る痛みに身体を硬くした。全力であった。最後は捨て身の技だった。しかし、まったく届かなかった。完全に読まれていた。おのれの未熟さを恥じる彼女の頭に、予想とは異なる小さな痛みが走った。
「あいた」
趙雲が頭を挙げると、そこには龍牙の柄があった。慶次郎が彼女の頭を柄でこづいたのである。何をしてるんだ、という顔でこちらをみている。慌てて、槍の柄を掴んだ。
「流石は常山の趙子龍。神速の槍、感服いたした」
慶次郎が頭を下げる。つられて、趙雲も頭を下げた。
「あ、あの。私のことを、ご存じでしたか?」
「うむ、知っている。この国に並びたつ者がない、槍の使い手であると」
「……しかし、あなたには負けた」
「手合わせをしただけよ。いくさではない」
からからと慶次郎は笑うと、ふくべをノッポから受け取って口を付けた。そして、趙雲に渡す。
「一口、どうかね」
「い、いただきます!」
趙雲はふくべに口を付ける。芳醇な香りが口内に漂った。
「このような酒、初めてですぞ」
「む、そうか」
「お返しと言ってはなんですが……」
趙雲は乗ってきた馬に戻ると荷物から小さな壺を取り出し、その蓋を開けた。そして慶次郎に差し出す。
慶次郎はその壺を受け取ると、その中身を無造作にひとつかみ、口に放り込んだ。
「これはうまいな……」
「メンマと申します」
「いや、これは初めての味だ」
慶次郎は振り返ると、黄巾賊の三人組に声を掛けた。
「おぬしらもどうだ!」
「あ、それは、その、特別な」
趙雲は慌てた。秘蔵のメンマなのである。しかし、慶次郎の笑顔にダメとは言えない。
「ん?どうした?」
「ええい、どうぞ存分に食べて下され!」
「いや、恩に着る」
にこにこしながら、慶次郎は三人組のところに歩いていった。
なんて人だ。
負けたのに、悔しくない。殺し合ったのに、すがすがしい。
自分を殺そうとした相手と、まるで昔からの友のように酒を飲んでいる。
この人は、きっと天の御遣いだ。
いや、そうでなくとも――。
趙雲は一人うなずくと、慶次郎の背中を追いかけた。