第1節 仕官
慶次郎が昼食後の茶を喫していると、玄関の扉の鈴が鳴った。
「けいじろー!」
もはや、慣れ親しんだ声がする。慶次郎は湯飲みを床の上に置くと、玄関に向かって歩いて行った。
玄関には、三人の人物が立っていた。一人は華琳。その後ろに立つ二人の男性には見覚えがない。給仕服のようなものを着て、それぞれ両手一杯に竹簡でできた巻物を抱えている。
「どうした、華琳」
「昨日、また来るって言ったじゃない」
「確かにな」
とはいえ、翌日すぐに姿を現すとは思っていなかった。今は雌伏しているとはいえど、恐らくはそれなりの勢力の頭目であろう華琳。その人物が、それほど暇である筈もない。悪女の深情け。何となく、結城秀康のことを慶次郎は思い出していた。
「これ、差し入れよ」
華琳は後ろを振り返る。二人の男性が頭を下げた。
「差し入れ?」
「そ、差し入れ。昨日、書物をほとんど読んでしまったと言ってたじゃない」
「うむ」
「『流流楼』の五階に置いてあった書物よ。稟も風も読み終わったと言ってたから、持って来たの」
「それはありがたいな」
「それじゃ、失礼するわね」
そう言うと、華琳は慶次郎の側を通り、ずかずかと屋敷に入り込んだ。
「華琳?」
「私も読んでないものがあるの。一緒に読みましょ」
そして返事も聞かずに、縁側の部屋に入っていった。
◆◆◆
二人の男性は、縁側の部屋の隅にある書物の山の隅に持って来た書物を追加すると、頭を下げて屋敷を出て行った。彼らを玄関まで送った慶次郎は、台所で新しく茶を入れると湯飲みをお盆にのせて縁側の部屋に戻ってきた。見れば、華琳は早速新しい書物の山を漁っていた。慶次郎はその後ろ姿をまじまじと見つめる。
昨日は髪を下ろしてお嬢様然としていた彼女は、今日は髪を左右に結んでまとめ、肩が見える動きやすそうな服装をしている。結んだ髪は、髑髏の意匠をかたどった髪飾りで結わえられていた。慶次郎の視線に気づいた華琳は、伏し目がちに尋ねる。
「昨日の格好の方が、良かったかしら」
「いや。昨日もなかなか良かったが、今日の格好の方が似合っとる。傾いておるな」
「かぶく?」
「おぬしの美意識がわかる、ということよ」
「そ、そう……」
華琳は、ほんのりと顔を赤らめてうつむいた。
「わしも若い頃は、髑髏をあつらえた陣羽織などを着ていた。趣味が合うの」
「若い頃?」
「まあ、言葉の綾じゃ。それより、どんな書物を持って来てくれたのかな」
慶次郎は湯飲みを乗せたお盆を床に置くと、華琳の横に座り込んだ。
◆◆◆
それから二刻(四時間)の間、二人は縁側の敷物の上に座り、思い思いの格好でただ書物を読んでいた。会話を交わすわけではない。ただ、一緒にいるだけである。時折、竹簡が触れあう硬い音が響いた。そこには静謐だが、満たされた時間があった。
「ほう」
慶次郎が小さな感歎の声を挙げた。彼の横に寝転がって書物を読んでいた華琳が顔を上げる。
「どうしたの?」
「いや。この『孫子』の注釈なのだがな。実に良く書けておる。題名も作者の名前も記載されてはおらぬが、よほど『孫子』を読み込まねば書くことはできまい」
「そ、そうかしら」
「うむ。ぜひ、作者の顔が見たいものじゃ」
「はい」
華琳が慶次郎の前に座り込む。
「おぬしかよ」
「驚いた?」
「さすがよな」
「題名は、まだつけてないの」
「……『孟徳新書』、ではいかがかな」
「悪くないわ」
華琳はうれしそうに微笑んだ。そのとき、扉の鈴が鳴った。迎えが来たようだ。気がつけば、日は暮れかけている。
「時間のようね」
そう言うと、華琳はすっくと立ち上がった。そして、部屋の出入り口に向かって歩き出す。そして、くるりと振り返った。
「それでは、またね」
「ああ、またな」
◆◆◆
翌日の朝。慶次郎が朝餉の片付けをしていると、玄関の扉の鈴が鳴った。そろそろ、星が帰ってくる頃か。そんなことを思いながら、手ぬぐいで手を拭いながら玄関に向かうと、そこには華琳が立っていた。
その姿はまた昨日とは異なる。旅装であった。最初に会ったときのように、松風を見上げている。
「華琳」
「約束通り、また来たわ」
「おぬしの家が心配になってきたぞ」
「余計なお世話よ。これから、帰るつもりなの」
「――そうか」
華琳は松風の前足を撫でた。岩の表面を極上の毛皮で覆ったような感触がある。
「ほんと、素敵な馬ね」
「ああ」
「一度、乗ってみたかった」
慶次郎は答えない。背後の扉の影から、稟が顔を出した。
「華琳さま。そろそろ、お時間です」
「そう」
名残惜しげに松風の前足から手を離す。そして、慶次郎に丁寧に挨拶した。
「前田慶次郎殿。本当にお世話になりました」
「また、お越し下され」
「いえ。もう、来ないわ」
華琳は微笑んだ。一昨日、慶次郎に真名を告げたときのような可憐な微笑みである。その笑顔を見ながら、慶次郎は鼻の頭を掻く。そして、小さな声でつぶやいた。
「――わしの負けか」
「え?」
華琳の声には答えず、慶次郎はにこりと笑って言った。
「街の外まで、お送りしよう。準備をする。しばし待たれよ」
◆◆◆
小沛の街の人々は、通りを進むその馬、その男、そしてその女に目を見張った。
馬の名は松風。一週間ほど前、東方からの旅人を名乗る男が臥牛山から戻る時に乗ってきた巨大な黒馬である。華麗な鞍を乗せ、悠々と通りの中央を進んでいる。人々を割って進むその姿は、あたかも天馬の如く。
男の名は前田慶次郎。天馬の如き馬に乗る偉丈夫である。黒がねの鎧をその身にまとい、表が黒、裏が猩々緋ののマントをひるがえしている。その右腕は、ぎょっとするような槍穂を持つ朱槍をかいこんでいる。威風堂々としたその姿は、あたかも天将の如く。
女の名は曹操。天将の如き男がまたがる鞍の前鞍に横座りする美少女である。朝の日差しが、その金色の髪にきらきらと反射している。その腹部を左手で軽く支える男を可憐に見上げる姿は、あたかも天女の如く。
そして、その後ろをこれまた見目麗しい二人の女性が乗った馬が続き、さらにその後ろを数騎の軽装の武人が続いていた。
彼らの姿はまるで天の国から降臨した軍勢の如く凛々しく、そして美しかった。やはり、この東方の旅人はただ者ではないのではないか。小沛の街の人々は、ようやく確信を持ち始めた。
下邳に御遣いが現れてからは恐れ多くて口にすることはなかったが、彼と触れあった人々の中には、この男こそ本当の御遣いなのではないかと思う人も決して少なくなかったのである。
管輅の予言通り、見慣れぬ白衣で突如この街に現れたこの男。臥牛山の化け物を退治して、その愛馬の前鞍に銀髪の美姫を乗せて悠々と戻ってきたこの男。そして今、この男は金髪の美姫を前鞍に乗せて街の出口に向かっている。二人の美姫を当然のように侍らせ、それが実に似合う男。どう見ても、常人ならざるこの偉丈夫。
やはり、本物の天の御遣い様なのではあるまいか。人々はそんな漠然とした思いを抱きつつ、慶次郎たちの後をゆっくりと追っていった。
◆◆◆
視線が高い。風が心地良い。そして、背中に感じる安心感。この気分を味わえる女性は、きっとこの世に自分だけだ。そんな気持ちで、華琳は至福の時間を過ごしていた。
街の出口を出てから四半刻(三〇分)。慶次郎と華琳は、無言のままだった。それで十分満足だった。これ以上、何を求めろと言うのだろう。
半町(約五十五m)ほど先に、街道の分かれ道が見える。短い逢瀬の終わりだ。悔いは、ない。この三日間を、自分はきっと忘れない。そう強く思いながら、華琳はゆっくりと振り向いた。
「ありがとう、慶次郎」
「礼を言うのは、まだ早いぞ」
「えっ?」
慶次郎は華琳を支える左手に力を入れる。同時に、松風が走り出した。
「きゃっ!?」
華琳が慶次郎にしがみつく。松風はみるみる間に速度を挙げると、稟たちの前から遠ざかった。稟は、一瞬の出来事に呆然とする。しかしすぐさま我に返り、前方に向かって叫んだ。
「華琳様!」
だが、もはや声が届くような距離ではない。稟は舌打ちをすると、馬に鞭を入れて全力で追いかけ始めた。
◆◆◆
半刻(一時間)程経った。松風は、山道をまるで平地を走るが如く駆け上っている。もはや後ろには、誰も見えない。どこにいくのだろう。私は、この男にさらわれたのかしら。なぜか、うれしかった。
「さて。高いところと言えば、ここしか思いつかなかった」
慶次郎は松風から降りると、鞍に座る華琳にそう言った。心が温かくなるのを感じる。この人は、初見の際に自分が高い場所が好きだと言ったことを憶えていてくれたのだ。
そこは鏡池のほとり、臥牛山の頂上であった。眼下には、絶景が広がっている。はるか遠くに、小沛の街が見える。手前にわき上がる土煙は、稟たちだろうか。青空が、地平線まで続いていた。
「なあ、華琳」
「なあに?」
「このまま、わしと一緒に旅に出ないか」
「……本気?」
「ああ。旅の準備はできとるぞ」
そう言うと、慶次は完爾と笑った。華琳も笑う。この男は、街の外まで華琳の護衛を務めると言ってこの格好で現れた。それが、こともあろうに自分を連れて逃げる準備だったとは。
「どうして、誘ってくれるの」
「おぬしを、見ていられなかったからよ」
「どういうこと?」
「おぬし、これからどうするつもりじゃ」
「……若輩と笑ってくれてもいい。いずれ、この国を握るつもりよ。その自信もある。準備もしてきた」
「なあ。本当は、そんなことにたいして関心はないのではないか?」
「……えっ?」
絶句した。すぐさま、否定しようとした。しかし、口が動かなかった。
どうして、否定できない。なぜ、私は頂点を目指そうとしたのか。それは天下万民のため――いや、違う。もっと、大切な理由があった筈だった。でも、それは何だったのか。必死に、言葉を絞り出す。
「どうして。どうして、そんなことを思うのかしら」
「おぬし、わしの前で泣いたな」
「ええ。恥ずかしながら」
「頂きを目指す者は、その野望に淫する者は、決して人前では涙を見せぬ。どのような理由があってもだ」
「!」
「涙を人に見せる者は、覇者ではない。人間よ」
慶次郎の声を聞きながら、華琳は古い記憶をようやく思い出していた。心の奥底にしまい込んでいた、あの記憶。誰よりも「異常」に優れていた子ども時代を。
家族を除いて、誰もが彼女を異人として忌避した。同世代の子どもには、話し相手になる者すらいなかった。大人ですら、彼女と対等に話せる者は限られた。いつも、一人ぼっちだった。寂しかった。
そんな彼女が人々に受け入れられたのは、その異才のためではなかった。彼女の語る「野望」のためであった。この国を握る。余人であれば妄想と切って捨てられるその野望が、この人ならばできると信じる者たちには希望となった。子どもながらに気づいた。この野望を抱いてこそ、私は自分の存在を「納得」してもらえる。その野望を信じる者たちは彼女を忌避せず、主としてかしずいた。彼女は、一人ではなくなったのだ。
やがて彼女は、それが自分本来の「野望」であると信じた。その才能を、全力で注ぎ込んできた。しかし、この男と接することでその思い込みに亀裂が入った。久方ぶりの感情の爆発が、隠していた記憶の扉を開けた。今、心が揺らいでいる。そして、この男はその揺らぎを見過ごしはしなかった。
「孤独に迷うぐらいなら、いっそのことすべてを捨ててみよ」
「……」
「一人も、そんなに悪いものではないぞ。何より、自由じゃ。何も、背負わなくて良い。まあ、野垂れ死にする自由もそこにはあるがの」
「自由……」
彼女はうっとりとつぶやく。孤独を避けるために掲げた野望が、本当の「孤独」をつくる。人の中で感じた孤独は、もはやつくろいようがない。だが、その孤独を楽しめるとしたら。それこそが、自由。その実例が、目の前にいる。この人と一緒に旅をする。なんて魅力的だろう。
華琳は慶次郎の誘いに応じようとした。しかし、その口から出たのは別の言葉であった。
「でも、慶次郎。あなたも迷っているんじゃなくて?」
◆◆◆
「ん?――わしが、か」
「そうよ。なぜ、あれほど長い間、屋敷にいたの?」
「それは……」
「あなたのような人なら、ずっと前に旅に出ていてもおかしくない」
「……」
「きっと、あなたは天の国ではそういう風に自由に生きていたのよ。でもこの世界に来て、それとは違う人生を選んでも良いのではないかと思った」
「……」
「誰かのために、生きてみる。そんな自分を、試してみたくなったのではなくて」
さすがは「英雄」。己の心を明かされて、慶次郎は苦笑せざるをえなかった。前世での己の生き様に悔いはない。にもかかわらず、天は自分をこの世界に呼んだ。その意味を知りたかった。そして、義父の言葉を確かめたかった。
「さすがは華琳。おみそれした」
「からかわないで。だから、私のところに来なさい」
「だから、の意味がわからん」
「人の使い方を教えてあげる。そして、あなたの価値を教えてあげるわ」
「たいした自信よな」
「そうよ。悪い?」
華琳は慶次郎を正面から見た。男の瞳が、自分に覚悟を問うている。答えねばならない。華琳は大きく息を吸った。もはや、自分を偽る理由などない。私は、本当の気持ちを伝えるのだ。
「ねえ、慶次郎」
「なんだ」
「一緒に、答えを探さない?」
この人は、この世界に来た意味を。そして、自分はその野望の本当のかたちを。
「わしが、人に仕えるたちではないことはわかったろう」
「わかっているわ。でも……」
目の前の少女が微笑んだ。その目がわずかに潤んでいる。慶次郎は覚悟を決めた。そもそも、既に朝の時点で負けている。
きっと、華琳――曹操は、放っておいても中華に覇を唱えるだろう。それだけの才能を持っている。人材も揃っている。まだ小さな勢力のようだが、きっといつの日か慶次郎の知る歴史を彼女はなぞることになるだろう。
だが、それがこの微笑みを凍らせた結果で良いのか。この心を錆び付かせた結果で良いのか。何より、その自由を犠牲にした結果で良いのか。
許しておけぬ。放っておけぬ。例え、それが余計なお世話であろうとも。そう思った相手がこの「英雄」であるというのなら、それもまた一興。
せめて、遊び相手になってやろう。もう少し強くなる、その時まで。この、寂しがりやの少女のために。
慶次郎は、王に対する騎士の如く片膝をついた。そして、朗々とした声で宣誓する。
「改めて告げよう。わしの名は前田慶次郎。東方から――天の国から旅してきた武人である。客将として、至誠を持って華琳に仕えたいと願う。……いかがかな」
「許します。ただ、至誠の証が欲しいわね」
「真名はない。だが、親しい者はわしのことを慶次と呼ぶ」
「わかったわ。――ねえ、慶次」
風が吹いた。馬上の少女の黄金の髪が舞う。英雄は乱れたその髪を左手で押さえると、恋する男に最高の笑顔を見せつけた。
「私、いい男に会ったのって初めてよ」
山麓から、蹄音が聞こえてきた。