第5節 英雄
華琳は想像した。自分が「天の御遣い」であったなら。そして「凡人」であったなら。昼時の活気ある時間である。市井の人々の声が、ざわざわと階下から聞こえてきた。自分が、彼らのような存在であったなら。
主君が黙り込んだのを見て、風は話を再開する。
「かの者が置かれた過酷な状況を思えば、その天与の能力を利用して幸せになろうと、もとい、その欲望を満たそうとしても、誰も責めることはできないでしょう。なにしろ、女性の方から迫ってくるわけですし。罪悪感も少なくてすむ」
「……」
「そして天の御遣いであるという立場は、複数の女性に手を出したとて許されるほどのもの。事実、先に挙げた孫策殿は、自らの勢力下の武将たちにその種を宿らせることで『天の一族』たることを画策したと聞きます。小沛に顔を出したのも、そのためだと」
華琳は頷いた。定期的に小沛から届けられる報告書には、その配下の武将も下邳の御遣いを探りに行っていたことが記されていた。
「ですが、北郷殿はそれらのことを一切しなかったのですよ」
「どういうこと?」
「はい。彼は御遣いとして得られるであろう地位や権力を必要最小限にとどめ、それ以外はことごとく遠ざけています。また、かの者は先に申しましたように、一部を除けば下邳のほとんどの女性から好意を寄せられています。恋されている、愛されていると言っても過言ではありません。しかし、その誰にも手を出していない。朴念仁を装って、気づかないふりをしています」
「慕われていることを自覚していないということはないかしら?」
「いいえ。さすがに気づくでしょう」
風は笑った。
「あれだけ多くの女性に慕われて気づかなかったら、それは人間として大切な感情が『欠落』しています。風はそんな人間を、天の御遣いだと認めたくはありませんね」
「それじゃ、北郷殿はなぜ朴念仁を装うの?」
「あくまで風の考えですが……。まず、かの者はそのような立場、女性に慕われることに慣れていません。彼の若い女性に対する戸惑いや照れをみればわかります。まあ、ごく一般的な十代の男性の、うぶな態度なのですよ」
風は、思い出したように含み笑いをする。
「しかしながら、今述べたように北郷殿は慕われているからと言って、その立場を利用しようとしていません。頼ろうともしていない。いや、どちらかというと忌避しているとすらいえるでしょう」
風は一息ついた。そして、結論を述べる。
「すなわち、かの者は自らが天の御遣いであることを、自らの置かれた状況の『免罪符』としなかった。そして凡人たることを自覚した上で、そう、命を賭けて皆が望む天の御遣いたろうとしているのです」
「命を、賭けて……」
華琳は、風の言葉をゆっくりと繰り返した。
◆◆◆
愛紗と星が食事から戻ると、練兵場は兵士達で活気に満ちていた。これから半刻(一時間)ほどすれば、午後の訓練が始まる。兵士達は自らの武具の手入れをしたり、雑談をしたり、思い思いの時間を過ごしていた。
その練兵場の隅で、必死で剣を振るう一人の男がいた。一刀である。その隣に、桃香や鈴々の姿はいなかった。早々に昼食を切り上げて戻ってきたのだろうか。彼もまた、兵士達と同様に半刻ほどすれば自らの仕事、デスクワークに戻らなくてはならない。
その姿を見て、星は昼食の席で愛紗が語っていたことを思い出した。北郷一刀は不平を言わない。弱音を吐かない。自らを誇らない。権力に淫しない。そして、天の御遣いたるための、ありとあらゆる努力を欠かさない。御遣いたることを引き受けてから、その努力は一日たりとも途切れたことはない。
彼は泣いてもよかった。逃げ出してもよかった。しかし、それをしなかった。「世の中を平和にしたい」という愛紗たちの気持ちに応え、ただ、天の御遣いとして立ち続けている。
その私心なき態度に、人々の期待から逃げずにそれを受け止めようとする態度に、自分は改めて尊敬の念を抱いたのだと愛紗は語った。そうした姿勢こそが、責任感こそが、彼の真の魅力なのだと。彼が英雄であろうが凡人であろうがかまわない。「そうした主こそ、忠義を捧げるに値する主」なのだと。
一心に剣を振るう一刀を見て、愛紗は申し訳なさそうな表情を見せた。彼女は、これから兵士達を訓練しなくてはならなかった。一刀を見ながら、ぼそりとつぶやく。
「時間があれば、お相手をしたいのだが……」
「それならば、私がお相手をしてもよろしいか?」
愛紗は驚いたように隣の星を見た。星が微笑んでいる。
「星、良いのか?」
「なあに。メンマのお礼と考えてくれればよろしい」
「そうか。すまぬが、よろしく頼む」
愛紗は一刀にちらりと視線を寄せると、星に頭を下げた。そして、兵士達のいる方向に歩いて行く。星はそんな愛紗の背中を見つめた。今、主の訓練に付き合うよりも、その兵の訓練に力を入れることこそが本当の意味での主への貢献になる。そう、確信しているのだろう。敬愛する主を持つ者の矜持がそこにはあった。
少々、うらやましく思う。星は自分と慶次郎の関係について思いを馳せた。自分は彼の顔を見て過ごすべきだろうか。それとも、彼の背中を押して過ごすべきだろうか。そもそも今の愛紗のように、自分は「恋慕」と「忠義」をはっきり分けて考えているのか。いや、そもそも分けて考える必要があるのか。
ぶるぶる、と星は首を振った。今考えても仕方がない。そして振り返ると、大声で呼びかけた。
「北郷殿!」
白く輝く衣を身にまとった優男が――
天の知識以外に能がない凡人が――
額に汗をにじませる青年が――
過酷な運命を真っ向から引き受けた「英雄」が、振り向いた。
◆◆◆
「天下万民のため、命を賭けて過酷な運命を引き受ける天の御遣い、か」
華琳は天井を見上げる。そして、つぶやいた。
「立派だけど。何だか、哀れな人生ね」
「「!」」
華琳のものとも思えないその発言に、軍師二人は目を点にする。天の御遣いであること。そして、凡人であること。その二点を除けば、下邳の御遣いと華琳の立場は通じるものがある。彼らはそう考えていた。
だからこそ当初、下邳の御遣いにこそ誼を通じるべしと彼らは考え、そのことを華琳に奏上したのである。そんな二人の表情に気づかないまま、華琳は天井を見上げたままつぶやき続ける。
「そうね、私がもし天の御遣いであったなら。そして、凡人であったなら」
「「……」」
「自分の身の丈に合わぬその運命を放り出し、天与の能力を生かして大いに人と交わり、見知らぬこの国をのんびりと旅して、天から離れたこの自由を楽しんで」
「「……」」
「きっと、わくわくするんじゃないかしら。誰も自分を知らない。すなわち、それはしがらみから自由ってことよね。寂しいけれど、その寂しさはきっと……」
「「……」」
気づけば、静かになっていた。階下の喧噪が、やけに響いた。華琳が天井から目を戻すと、軍師たちが無言のまま、まるで信じられないものを見たとでも言いたげな表情でこちらを凝視していた。
「どうしたの?」
「か、華琳様。恐れながら、今おっしゃられたことは」
「ええ、私がもし下邳の天の御遣いだったなら、ね。残念ながら、いえ、幸運にも私はそうではないけれど」
「……失礼いたしました」
稟は頭を下げる。風は無言のまま、華琳を見つめている。華琳は首を傾げた。何かおかしなことを言っただろうか。気が弛んでいるのかもしれない。華琳は頬を両手でぱん、と叩くと大きな声でいった。
「さて、お昼休みは終わりよ。さっさと残りの帳簿を片付けましょう」
華琳のかけ声に、二人の軍師は無言で答えた。不審に思った華琳が彼女たちに再度声をかけようとした時、稟が静かに立ち上がった。そして華琳の右側に歩いてくると、華琳の右前に積み重ねられていた竹簡の山をすべて抱えこんだ。
「稟?」
気づけば、風もまた自分の左にあった竹簡の山を抱えこんでいる。
「華琳様」
「どうしたの、稟」
「華琳様の『休暇』は明日までです」
「休暇?今回はそんなつもりでは――」
「華琳様。あなた様は明日、予州に戻られます。以後、もはや休む暇はございますまい」
「……稟」
「せめて、今日は休暇をお楽しみ下さい。残りの仕事は、私と風が片付けます」
そう言うと、稟はにっこりと微笑んだ。その微笑みはとても柔らかだった。華琳は、姉がいたらこんな感じなのだろうかと一瞬思った。
◆◆◆
流流楼の二人の給仕に山ほどの「お土産」を持たせ、跳ねるように歩いていく主君の姿が見える。無論、行き先は「あの男」のいる屋敷だ。稟は風と並んで、流流楼の五階にある西の窓から華琳の後ろ姿を眺めていた。
稟にとって、華琳とは畏怖すべき存在であった。十代半ばにして初めて会ったとき、その異才におののいた。その覇気に圧倒された。まさに「英雄」。いつか、この国のすべてを握ると語る彼女を、疑うことすらしなかった。この人ならば、きっとそれができる。ついていこうと思った。この人の作る国の姿を見たい。そして、それに携わりたいと。
しかし、昨日から今日にかけての出来事は、稟の華琳に対する印象を大きく変えた。泣き、喚き、怒り、笑う。彼女もまた、自分と同じ人間だった。私たちは彼女の意図に添うことに必死で、彼女の心の在り方にまで気を遣うことはなかった。そんなことは恐れ多いと思っていた。私たちが頼れば頼るほど、あの人は「孤独」になっていった。彼女は、誰に頼れば良かったのだろう。
離れていく主君の背中は、喜びに満ちている。
慶次郎の悪ふざけは強烈であった。常人であれば、怒り心頭になってもおかしくない。事実、自分はそうなった。しかし、華琳は最後には笑い出した。きっと、あの方はうれしかったのだ。一緒に遊んでくれる相手をようやく見つけて。そして、自分はもう一人ではないと知って。
思い返せば、あの男が屋敷を去ろうとしたときに華琳が見せたあの態度は常軌を逸していた。その時は、御遣いを引き留めるために必死なのだと思っていた。でも本当は、ようやく見つけた「友達」を引き留めるに必死だったのではなかったか。
だとしたら。そんなことを思うのは、無礼千万なことかもしれないけれど。あの方は、輝く金色の髪を持つあの英雄は、ただの寂しがりやの女の子であったのかもしれない。
稟は、主君の背中に静かに頭を下げた。
あなたは、明日からまた休むことのできない日々を送る。
けれども、せめて今日だけは。
<どうか、楽しい時間を過ごされますよう>
稟は、意地っ張りの妹を案じるような気持ちでそう思った。