第3節 親友
華琳が慶次郎のもとを訪ねた翌日のこと。
「うりゃー!」
「はっ!」
金属のぶつかり合う音が響く。下邳城内の練兵場で一組の男女が刃を交わしていた。時刻は昼。他の兵士たちは既に昼休みを取っている。
男性の名は北郷一刀。下邳の実質的な主である。輝く白衣を身にまとい、日本刀に似た片刃の剣を振るっている。
女性の名は関羽、その真名を愛紗。その武威は徐州のみならず、遠く洛陽にまで響く。その黒い長髪をなびかせ、青龍偃月刀を振るっている。ちなみに、ここで愛紗が使っているのは、以前慶次郎に貸した練習用の刃の潰れた得物である。
小沛から戻ってからすぐ、一刀は昼休みの時間を使って稽古をつけてくれるように愛紗に申し出ていた。無論、愛紗はその申し出を快く引き受けた。
なお、彼が使っている剣は日本刀に似せて下邳の鍛冶に作らせたものである。誰にも教えていないが、その刀には密かに「千住院村正」という名前がつけられていた。慶次病の名残である。
無論、練習に用いるものであるから、その剣の刃もまた潰されている。もっとも、刃があろうがなかろうが、愛紗相手ではあまり変わらない。
何度かの打ち合いの後、一拍をおいて愛紗が青龍偃月刀を右から左に打ち下ろした。一刀はすんでのところでそれをバックステップしてかわす。愛紗が若干前のめりになった。その右肩に僅かな隙が生まれる。
「そこだ!」
「それは悪し」
「!」
それは作られた隙であった。一刀が愛紗の右肩に打ち込んだ瞬間、恐るべき速度で戻ってきた青龍偃月刀が下からその剣をはね飛ばす。一刀は尻餅をついた。乾いた音を立てて、剣が地面に落ちる。
「このように、隙を見せることで相手の剣筋を誘導することができます」
「うーん、チャンスだと思ったんだけどなあ」
「ちゃんす?」
「いや、初めて愛紗に打ち込むことができたかと思ったのに」
「甘く見られても困ります。でも、最初に比べればずっとお強くなられました」
優しくそう言うと、愛紗は地面に座る一刀に手を伸ばした。一刀はその手を掴んで立ち上がる。
「……」
「何か?」
「いや」
一刀は曖昧な笑顔を浮かべながらその手を離した。愛紗の笑顔に、つい見とれてしまっていた。小沛から戻ってこのかた、彼女が自分に見せる表情が変わったような気がする。当の本人は、きょとんとした表情をしていた。
「あの、ご主人様?」
「ご主人様ー!」
「お兄ちゃーん!」
「ぐはっ!」
桃香と鈴々のタックルを受けて一刀が吹き飛んだ。倒れた一刀の体の上に二人がのしかかっている。愛紗がため息をついた。
「こらこら。鈴々、稽古の途中だぞ。邪魔をするな」
「愛紗ばかり、お兄ちゃんを独占してずるいのだー!」
「そうだそうだ!愛紗ちゃん、ずるい!」
「はいはい」
愛紗は再度ため息をつくと、桃香と鈴々の首根っこを掴んで一刀から引きはがした。そして、再度一刀の手を引いて立ち上がらせる。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
「あいててて。まあ、何とか」
一刀は苦笑いをする。愛紗は、ほっとしたように笑う。そして一刀の後ろに回ると、その背中に付いた土埃を払った。それを見た鈴々の頬がぷくっとふくれる。
「むー!」
「何だ、鈴々」
「愛紗はずるいのだ!」
「ずるい?私がか?」
鈴々が言っている意味がわからず、愛紗は首を傾げた。そんな彼女に、鈴々はびしりと指を指す。
「そうなのだ!小沛から戻ってきてから、いつもご主人様と一緒にいるのだ!」
「仕方ないだろう。ご主人様は武技を磨きたいとのこと。私がお相手するしかあるまい」
「じゃ、鈴々がお兄ちゃんの相手をするのだ!」
「鈴々。一週間前、そう言ってご主人様を壁に叩きつけたのは誰だ?」
「……わ、わざとじゃないのだ」
言葉に詰まる鈴々に代わり、桃香がうきうきとした顔で申し出る。
「それじゃ、明日から私がお相手をするね!」
「姉上。先日はそう言ってご主人様を街まで引っ張って行かれましたな。ばれていないとお思いか」
「だ……だって」
「お気持ちは分かりますが、遠慮して下され。今は、ご主人様の貴重な鍛錬の時間。無駄にすることは許されません」
「何だか、愛紗ちゃんが大人になっちゃったみたい。……あっ!」
桃香は両手で自分の口を押さえた。その大きな目をさらに見開く。
「も、もしかして愛紗ちゃん、もうご主人様と……!」
「ご、誤解です姉上!」
「相変わらず、にぎやかですな」
「その声は……」
振り返ると、そこには星がいた。
◆◆◆
「恥ずかしいところを見せたな」
「いやいや。主従が仲が良いことを恥じる必要はないぞ」
「そう言ってくれると助かる」
愛紗は星と二人、練兵場に立っていた。一刀は、一緒に昼食を食べようと桃香と鈴々に引きずられていった。愛紗は星の相手をするためにこの場に残ったのである。
星としては、愛紗がそのように名乗り出てくれてありがたかった。場合によっては、これから聞くことは誤解を招く可能性があったからである。だが、既に真名を交わした仲である愛紗ならば、そうしたいらぬ心配をしなくても良さそうだった。
星は、早速慶次郎から頼まれたことを聞いた。すなわち、孫乾の状況である。その問いに、愛紗は申し訳なさそうに答えた。
「孫乾か。実は、今ここにはいないのだ」
「いない?」
「ああ。何でも、婚約者が急病になったとかで、三日程前に暇を求めてきてな」
「それで、婚約者の方とやらはどちらに」
「わからん。孫乾はある村の名を告げて去ったのだが、念のために確認するとその村は存在していなかった」
「存在しない?」
「かなり急いでいたからな。言い間違えたのかもしれん」
「うーむ。それで、いつ頃戻られる予定なのだ?」
「さて。こちらとしても、政に長けた彼が急にいなくなって困っている」
「そうか……」
これでは仕方ない。そのように慶次郎に伝えるしかあるまい。そう思いつつ、星は孫乾に対する疑念をさらに深めざるを得なかった。慶次郎の怪我、そして冬華の失踪。そのいずれにも、孫乾は何らかの関係がある。そのように星は考えている。そうでなければ、慶次郎がわざわざ孫乾の状況について確認を頼んでくる筈がない。
下邳の一行が小沛の屋敷を訪ねてきたとき、最初にあいさつを交わした以外、慶次郎は孫乾とろくに話をしていない。にも関わらず、彼について確認するように頼んできた。そして、その孫乾は冬華の失踪と時をほぼ同じくして暇を願い出た。何か、ある。
考え込む星に、愛紗がおずおずと話しかけた。
「と、ところで……」
「ん?」
「け、慶次殿はいかがお過ごしかな?」
「慶次殿?」
星は愛紗の顔をまじまじと見つめた。愛紗は照れくさそうに横を向くと、頬をかく。その顔はほんのりと赤く色づいていた。
「せ、先日はお世話になったからな。ど、どうされているものかと」
何とも、わかりやすい。そんな風に思いながら、星は慶次郎の現状を伝えるかどうか迷った。数日前に、彼は正体不明の敵と戦って満身創痍になっている。
しかし、伝えることは止めた。伝えたところで、どうなるというものでもない。それに、何となくしゃくに障った。
「うむ。『いつも通り』だ」
「いつも通り?」
「おっと、失礼。『いつも』の慶次殿を愛紗は知らなかったか」
「……」
愛紗が下を向いて黙り込んだ。少々、意地悪が過ぎたか。星がそう思ったとき、愛紗の両手が星の両肩をがしりと掴んだ。その指がぎりぎりと星の肩に食い込む。万力のような力である。
これはまずい。怒らせてしまった。慌てて謝ろうとした星の目に、愛紗の顔が映った。その顔は落ち込んでいるどころか、上気している。平静を装っているつもりのようであったが、その努力が無駄に終わっていることは誰の目にも明らかであった。
「で、で、では!せっかくの機会だ。い、いつもの慶次殿とやらを、教えてもらおうではないか、な!?」
「はあ?」
星は改めてまじまじと愛紗の顔を見た。その顔は先程よりもさらに赤い。そして、その瞳はきらきらと輝いていた。まるで、恋する乙女のように。
やぶをつついて蛇を出してしまった。やれやれ。星はため息をついた。
◆◆◆
「すまんな、愛紗。こればかりは教えられん」
星は、慶次郎について教えて欲しいという愛紗の頼みを毅然とした態度で断った。彼と過ごした時間は星の宝物である。その記憶は、決して安売りできるものではない。例え、それが「読む」「飲む」「寝る」の三つの言葉で説明できてしまうものであるにしても。
「どうしてもか?」
「どうしてもだ」
「そうか」
愛紗は星の両肩から手を離す。そして横を向くと、右手を頭にやると頭をかいた。自嘲気味にため息をつく。
「私らしくなかったな。すまん」
「いや、気にするな」
と、愛紗は懐から一枚の竹簡を取り出した。それを星の目の前に掲げてみせる。
「なんだ、それは?」
「せっかく小沛から来てくれたのだ」
「なになに。下邳開店記念『季季楼』特製メンマ引換券。……そ、それは!」
「一緒に食べに行こうと思ったのだが」
「い、一日限定十食とな!」
「仕方ない、一人で食べに行くとするか」
くるりと愛紗が背中を向けた。
「ま、待たれよ」
「ん?どうした?」
愛紗が首だけ振り返る。背中越しに、その右手に持った竹簡をぷらぷらと振った。
星はその竹簡に向かって左手を伸ばしたまま、ぷるぷると震える。
「く!」
「私は腹が減っている。早く食事に行きたいのだが」
「……わ、わかった!教えよう!」
「ふむ」
愛紗はにこりと笑うと振り返った。そして、星の左肩を竹簡で軽く叩く。
「一緒に、食べに行かないか?」
「一本とられたな」
「私らしくないかな?」
二人は顔を見合わせると、笑った。
◆◆◆
「ふう」
竹皮に包まれたまんじゅうを執務室の机の上に置くと、一刀はため息をついた。彼は「午後までに片付けなければならない仕事を思い出した」と桃香と鈴々に告げ、二人を振り切って戻ってきたのである。まんじゅうはその帰路、昼食として街の露店で購入したものであった。
普段、一刀の仕事はもっぱらデスクワークである。武術の鍛錬にまではとても手がまわらない。多少、剣道の心得があるとはいえど、ここは『三国志』の世界。自分程度の腕では、話にもならない。そう思った一刀は、武術の鍛錬を半ば諦めていた。
しかし、先日慶次郎と会って火がついた。忙しいことは、理由にならない。小沛から戻って後、彼は昼休みの時間を利用して愛紗に指導を仰いでいた。今日もこれから、鍛錬に戻る予定である。
「ところで、この図案は何なんだ?」
「ああ。メイド服だよ」
「めいどふく?」
「ああ、天の国の給仕服だよって……こら!」
「何だよ、急に」
「それは俺のセリフだ!」
一刀はいつのまにか背後に立っていた友人――孫乾に声をあげた。
「まったく、黙って入ってくるなって言ってるだろ?」
「だから、ちゃんとノックしたって」
「ホントかよ……」
この友人は、神出鬼没であった。たいていの場合、いつの間にか一刀の側に立っているのである。いつになっても慣れなかった。ふと、一刀は孫乾が暇を申し出た理由を思い出した。涼しい表情で図案を眺める友人にそのことを聞く。
「そういえば、お前の婚約者。具合はどうだったんだ?」
「ああ。たいしたことなかったよ。俺の早とちりだった。……そんなことより、これはなんだ?」
孫乾はメイド服の図案の書かれた紙を右手に持つと、ひらひらと揺すった。紙は、この世界では貴重品である。しかし竹簡では服のデザインを描くのに適していないため、あえて使っていた。
「街の衣料関係の組合に頼まれてさ。下邳の特産になるような服をデザインしてた」
「それが、この黒い金魚みたいな服か?」
「……金魚って。まあ、実際に見たことがあるわけじゃないから、想像なんだけど」
一刀は、メイド服を自分がこれまでに見た漫画やアニメのイメージでデザインしていた。当然、実在のメイド服よりもかなり派手なデザインになっている。
「女性にとって一番身近な働くための衣服って、給仕服だろ?そう思ってデザインしたんだ」
「ふーん。まあ、確かにそうかもな。デザインはともかく、狙いはいいんじゃないか」
「お前、バカにしてんの?ほめてんの?」
「両方だ」
「……」
一刀はジト目で、孫乾の顔を見た。この少々ひねくれた若者は、この下邳で――いや、この世界で唯一の友人であるといって良かった。
直接その考えを伝えたわけではないが、一刀は孫乾を自分と同じく天の国、すなわち現代日本から飛ばされてきたのではないかと予想していた。というのも、一刀がさりげなく会話に混ぜている現代語を苦も無く理解しているようであるからである。
その素性を明かせないまでも、これまで彼が経験してきた苦労から、自分に親切にしてくれているのではないか。そのように考えていた。そして彼がいることで、どれだけ救われているかわからない。本音を話せる同性の友人は、本当に貴重な存在であった。
その友人は、紙を机の上に戻すと、ふいに一刀の顔を見た。いつの間にか、その表情は真剣なものに変わっている。
「なあ、北郷。もしも、だけど」
「?」
「俺があの……前田慶次郎を、殺した、としたらどうする?」
◆◆◆
執務室を沈黙が支配した。一刀は孫乾の意図が読めない。思わず、眉をひそめた。
「慶次さんを、お前が、殺したとしたら?」
「ああ」
一刀は孫乾の顔をまじまじと見た。友人の顔から表情が消えている。納得のいかない気持ちのまま、一刀は答えた。
「そりゃ、怒るだろう」
「……」
「殴るかもしれないな」
「……」
「それから、俺が慶次さんを殺したと公表するよ」
「な!」
思わず、孫乾は両手で一刀の肩を掴んだ。
「な、何を言ってんだよ!その場合は、俺が責任を取る!お前は俺を罰すりゃいいんだ。首を斬ればいいんだよ!」
「そんなわけにいくかよ」
一刀は、不思議なものを見るような表情で孫乾を見る。
「お前が慶次さんを殺したとしたら、それは俺のためだろ。そんなこと、わかってるよ。きっと、俺が納得せざるを得ない理由があるんだ」
「……」
「慶次さんは俺の憧れさ。でも」
「でも?」
「俺は孫乾、お前の主だぜ。そして」
そう言うと一刀を横を向き、右手で鼻の頭を掻いた。
「――親友、じゃないかよ」
孫乾はゆっくりと一刀の両肩から手を離した。一刀の顔は真っ赤である。彼は横を向いたまま、怒鳴るように孫乾に告げた。
「まったく、恥ずかしいこと言わせんなよ!それにな!慶次さんがお前みたいなもやし野郎にやられるわけがないっつーの!」
「……はは」
「孫乾?」
「そうだよな、いや、まったくだ」
孫乾はくるりと振り返ると、執務室の出口に向かった。そして扉の前で止まると、一刀に背を向けたままつぶやいた。
「なあ、北郷」
「ん?なんだ」
「俺、お前の友達になれて良かったよ」
「何だよ、今さら」
「はは、悪い悪い。明日から、仕事に戻る」
「おう。頼むぜ!」
「……おう」
そう言うと、孫乾は静かに部屋を出て行った。