第1節 問い
慶次郎の一言に、華琳の時が停止した。反射的に、その言葉を否定しかける。
「何を言ってるのかしら」
その言葉が口から漏れかけた。しかし、すんでのところで口をつぐむ。自分が曹操であることをここで否定してしまったら、後に自らが本人であることを認めることができなくなる。初見で自らを偽っておいて、後で自分が本人であることを認める。そんな無様なことはできない。そして、そんな相手にこの男がしたがうこともないだろう。
では、自分が曹操であることを素直に認めればいいのか。それだけは、絶対にしたくなかった。一年間をかけて準備をしてきた。そのために多大な費用をかけ、軍師二人を派遣し、細心の注意を払って万全の体制を整えた。一人の御遣いは捕まえ損ねたものの、もう一人の御遣いらしきこの男を予定通りに「檻」の中に追い込んだ。すべてが自分の手の上の筈だった。
なのに、この男はこちらの思惑を軽々と飛び越えたばかりか、こともあろうに自分の正体を探り当てた。その理由も分からぬまま、この男に頭を下げたくない。彼女の巨大な自尊心が、それを許さなかった。
昼間会ったときにこと男が浮かべた表情に、嘘があったとは思わない。あの時、この男は確かに自分が曹操であることを「知らなかった」。しかし、今や確信を持ってその言葉を――。
「やはり、か」
慶次郎が軽く頷いた。華琳は唇を噛む。時に、無言は何よりも雄弁な答えとなる。自分の沈黙は、この男の言葉を結果として肯定してしまった。だが、口に出して自分が曹操であると「否定」はできぬ。「肯定」もできぬ。言うなれば、この男の発言を許した時点で既に詰んでいた。
この男は、恐らくは自分が沈黙せざるを得ないことをわかった上で、最高のタイミングでその言葉を口に出した。「面白い」どころではない。「油断ならない」男だ。ついで、その男が口にした言葉に、華琳の時は再び停止した。
「ところで、戯志才殿……いや、『郭嘉』殿。鼻血の調子はいかがかな」
「!」
稟の表情は変わらない。いや、変えられなかった。どのように対応すべきか、稟もまた華琳同様に逡巡していた。そして華琳が自らの判断を留保している以上、彼女もまた否定も肯定もできない。できるのは、ただ沈黙を保つことだけであった。そしてその努力も、数秒しか時を稼げない。体が持ち主の意思を裏切った。一筋の赤い筋が、その鼻から流れだす。
「ご自愛なされよ」
慶次郎はそう言うと、眉を軽くひそめた。華琳は、慶次郎に返すために街で買ったばかりの手ぬぐいを懐から取り出すと、無言で稟に差し出す。その手ぬぐいを見て、稟はようやく自分の状態に気づいた。やはり無言のまま、手ぬぐいを鼻に押し当てた。それを見て、慶次郎は軽く頷く。
もはや、この男は「油断のならない」男では収まらない。「恐ろしい」男だ。もう、口を開かせたくない。どうにかして、流れを変えなくては。しかし、その華琳の思いは男が発した次の言葉であっさりと無駄になった。
「さて、程昱殿。……『荀彧』殿は、今どこに」
「!」
風はここに来たときと同じく、ほんわかとした笑顔を浮かべている。いや、その笑顔のまま固まっていた。まさか、半年前に華琳の元に馳せ参じた桂花のことまで知っているとは。任官活動を装って諸国の情報を集めている風や稟とは異なり、彼女は名目上は曹家の帳簿係ということになってる。彼女が実際には軍師であることを知っているのは自分と稟、そして華琳しかいない筈なのだ。
その姿形とは裏腹に、ここにいる誰よりも冷静沈着な彼女である。しかしいくら考えても、華琳が曹操であると、戯志才が郭嘉であると、そして荀彧が華琳の幕下にいると、この男が知っている理由がわからない。小沛にこの男が現れてから、臥牛山に物の怪退治に向かった時を除いて目を離したときは一度もなかった。なかった筈なのだ。
「ふむ。ここにはいないか」
すべてわかった。そんな表情で慶次郎は頷いた。そして改めて華琳と対峙する。
「すでに三軍師がそろい踏みか。……となれば来年初めには旗揚げかの。これからが楽しみじゃ」
華琳は戦慄した。自分たちは一言も発することができていない。にもかかわらず、この男はたった七言で、自分の正体から三人の軍師の存在どころか、旗揚げの予定まで明らかにしてしまった。
「さて、と」
男が長刀を持って立ち上がる。思わず、華琳は一歩後ずさった。先程まで「猫」に例えていた男はそこにいない。そこにいたのは紛れもなく「虎」であった。
◆◆◆
その虎が華琳に向けて一歩を踏み出す。華琳をかばうように、稟が必死の面持ちでその前に立った。その脇を風が固める。しかし、そんな彼女らには目もくれず、慶次郎は長刀を持ったままその側を通り過ぎた。その後ろ姿に、華琳はようやく声をかける。
「どこに、行くの」
「先に申したとおり。屋敷を辞去させていただく」
慶次郎はその歩みを止めない。止めなくては。華琳は思った。何もかもわからぬまま、この男に去られるわけにはいかない。こんな気持ちのままではいられない。もはや、自尊心はぼろぼろだ。自分が自分でいられなくなる。そんな予感に急かされて、必死で慶次郎を引き留める。
「もう、もう、日が暮れるわ。夜の旅は危険よ」
「心配ご無用。わしは夜目が利く」
慶次郎の背中が部屋から消えた。慌てて追いかける。男の背中は既に玄関にあった。松風がその巨体をゆっくりとかがめる。華琳は叫んだ。
「暗いだけじゃない!賊に襲われるかもしれない!」
「それは重畳。最低でも二十人……いや、三十人は欲しいところじゃな」
男の背中が軽く震えた。笑っている。こんな男、どうすれば止められる。華琳は涙目になると、軍師に向かって振り向いた。
稟が口を小さく開ける。だが、何も言えずに口を閉じた。主君の期待に応えたい。だが、何も考えつかない。風の顔から笑顔が消えている。その目が大きく見開かれている。彼女もまた、必死であった。だがどうしようもない。華琳が止められない者を、誰が止められるというのだ。
男は長刀を腰に差すと腰をかがめ、鞍に手を掛けた。もう、恥も外聞もない。思わず、華琳は男の背中に叫んだ。
「か、返しなさい!」
「む?」
男の動きが止まる。華琳はその背中に、再度叫ぶ。
「そう、私は曹操。そして、この屋敷の持ち主。あなたは、私に三月の宿の恩がある。だったら、その恩を返しなさいよ!」
最後は金切り声になった。自分でも、みっともないと思う。だが、これが精一杯であった。華琳は両手を握りしめ、体をぶるぶると震わせながら男をにらみつけた。
慶次郎が立ち上がる。そして振り返ると、華琳に近づいた。華琳は鼻をすすりながら、この憎たらしい男をきっと見上げる。男は懐から真新しい手ぬぐいを出すと華琳に手渡した。
「鼻を、かんだ方がいいな」
「!」
華琳は、ようやく自分の狂態に気づいた。手ぬぐいを震える手で受け取ると、それを鼻に当てた。大きな音を立てて、何度も鼻をかむ。そして手ぬぐいを逆に畳むと、時間をかけて顔を拭った。そしてそれを懐にしまうと、ゆっくりと顔を上げる。
「!」
そこには、目と鼻を真っ赤にしながらも、強い意志を瞳に宿す美しい少女がいた。その少女は、先ほどの狂態が嘘のように、だがいつもよりも幼く見えるその瞳で、慶次郎に問うた。
「あなたは、私に三月の宿の恩がある」
「いかにも」
「その恩、今回の種明かしで我慢してあげる。よろしくて」
「……承った」
慶次郎はそう言うと、土間の左にある通路に向かって歩き出した。不安になってその背中に手を伸ばそうとした華琳に、慶次郎は背を向けたまま言葉を発した。
「茶を準備する。先の部屋で待っておれ」
その背中が台所に消えると同時に、華琳はその場にしゃがみ込んだ。
◆◆◆
慶次郎が茶の入った湯飲みをお盆にのせて部屋に戻ると、三人は昼間に会ったときのように敷物の上に座っていた。華琳を中央に、その左に稟、その右に風という具合である。慶次郎は三人の前に湯飲みを置くと、華琳と向かい合う位置に自らの湯飲みを置き、その後ろに腰を下ろした。
華琳は無言で湯飲みをその口に運んだ。相変わらず、美味しい。昼間に出た抹茶とは違い、煎茶ではある。だが、また違った味わいがあった。胃袋に暖かさが広がっていく。ようやく気持ちが落ち着いた。声を発する。
「それじゃ、聞かせてもらうわよ」
「ご随意に」
そう言うと、慶次郎も湯飲みをその口に運ぶ。その湯飲みは、華琳たちに出された湯飲みよりも若干大ぶりである。
「最初に、この屋敷の持ち主が私であるとなぜわかったのか。教えてもらおうかしら」
慶次郎は湯飲みを置くと、部屋全体を見渡した。華琳もそれにつられて部屋を見渡す。
「この屋敷は、素晴らしい」
「は?」
「既存の発想にとらわれずに設計されておる。そして、その発想は屋敷全体に艶を与えておる。さぞかし、審美眼のある人物が設計したのだろうな」
いきなり問うた内容から離れたことを話し出した男に戸惑いながらも、華琳は少しうれしく思った。この屋敷を設計したのは、華琳の祖父である。
「私が、設計したわけじゃないわよ」
「わかっておる。それほど新しいものではないからな」
そう言うと、慶次郎は稟の顔に視線を移した。
「さて、戯志才殿。いや、郭嘉殿。おぬしは最初に会ったとき、この屋敷を倉庫代わりに使っていると言っておったな。普段は、街中の宿を中心に活動していると」
「は……はい」
急に話をふられた稟が、いぶかしげに答える。
「したがって、おぬしの客はこれまでその宿を訪ねてくることが普通だったはずじゃ」
その通りである。だが、それがどうしたというのだ。釈然としない気持ちのまま稟は黙り込む。その表情を確認すると、慶次郎は視線を華琳に戻した。
「して、曹操殿。だからこそ、おぬしはこの屋敷が初めてではない」
「どういうこと?」
「この屋敷はな。通常は東南の方向にあるべき馬小屋が南西にある」
「!」
「厠も同じく南西にある。いずれも裏鬼門じゃ。風水を無視している。つまり、既存の屋敷のつくりとは違うのじゃ。にも関わらず、おぬしは迷わず馬小屋に進み、厠へ向かった。これは、この屋敷を知らねばわからぬことよ」
初めて会ったとき、既に。軽率だった。華琳は唇を噛む。
「そして後から訪ねてきた郭嘉殿と程昱殿は、おぬしがあたかも主君であるかのように接しておった。となれば、この屋敷は誰から借りていたのか。否、誰の持ち主なのか。そう考えたとき、おぬしがこの屋敷の持ち主なのではないか、と」
そう言うと、慶次郎は再び湯飲みを手にする。
「まあ、要は思いつきじゃ」
そう言うと、慶次郎はにこりと笑った。だが、華琳はとても笑えない。確かに、穴のある思いつきかもしれない。だが、その思いつきをあの場面で言うところに、この男の非凡さがあった。
それが本当であったなら、思わず動転してしまう絶好の機会。旅装であったのも、華琳たちを動揺させて、自らの思いつきを確かめるためであったのかもしれない。
華琳は、大きく息を吐いた。
◆◆◆
「それじゃ、次の質問ね。なぜ、私だと――『曹操』だとわかったのかしら。少なくとも、昼間に会ったときは気づいていなかったと思うけど」
「ああ。気づいてはおらなんだ」
慶次郎は苦笑する。思いもよらなかった。『三国志』を代表するあの「英雄」が、まさかこのように金髪で小柄な人形のように美しい女性だとは。
「けれど、今は気づいている。どうして?」
「うむ。それは――」
慶次郎が答えようとしたとき、稟がいきなり華琳の方向を向いた。そして、その額を床にこすりつけた。
「申しわけございません!」
「稟?」
「前田殿が、なぜ華琳様の素性に気づいたのか。皆目、検討がつきません。しかし、恐らくは私の落ち度。私の話す内容から、類推されたとしか思えません」
己の意思を相手に悟らせぬことに関しては、相方の風に勝る者はそうはいない。そして、華琳がそのような誤りを犯すとは思えない。消去法で考えたとき、自分がどこかで悟らせたと考えるのがもっとも妥当であった。
「いやいや。郭嘉殿ではない」
「は?」
では、華琳が曹操だと誰が教えたというのか。いや、そも曹操だと誰が知っていたというのか。小沛の街の長老?出入りの酒屋?それとも星?。三人がその頭をめまぐるしく回転させる中、慶次郎は意外な人物に話しかけた。
「程昱殿」
「は、はい~?」
「おぬし、元は『程立』という名だったのではないかな」
「!」
「それが、使えるべき主を見つけ、改名したと」
「……」
風は口を開けない。自分を除けばこの話を知っているのは、華琳、そして稟の二人だけの筈だった。同じ軍師仲間といえど、新参の桂花ですら知らない話。
「そして主が既にいる、となればそれは曹操殿のほかあるまい」
「ちょ、ちょっと待って!」
華琳は、慌てて慶次郎に声をかけた。
「そもそも、なぜ風が主に選んだのが私だと知ってるの?」
「さて」
もちろん、それはかつて兼続の屋敷で読んだ史書から得た知識である。だが、それをここで明らかにする理由はなかった。慶次郎は華琳の問いには答えず、稟に視線を移す。
「曹操殿には三人の軍師がいると聞いていた。郭嘉殿、程昱殿、そして荀彧殿。郭嘉殿、おぬしの名がわかったのは、単にかまをかけたに過ぎぬ。程昱殿と並び立つ軍師。恐らくは、郭嘉殿か荀彧殿のどちらかであろうと」
「では、桂花――荀彧の存在も?」
「いかにも。それもまた、かまをかけてみただけのこと。既に仕えているとは知らなんだ」
「……」
恐るべきは「天の御遣い」。華琳は戦慄を禁じ得なかった。この男、自分のことも、稟のことも、風のことも、そして桂花のことでさえ知識として知っていた。実際に会ったこともないのに、だ。
下邳の御遣いと同様に、この男も「天の知識」を持っていた。だが、わからない。なぜ、これまでその知識を隠していたのか。そして、使わなかったのか。
これまで話を聞く限り、そして接する限り、この男は恐らくは下邳の御遣いなど比べものにならない傑物である。今となっては、稟も風もそう言うだろう。この男がその気になれば、一体どれほどの高みにまで昇れることか。
と、いきなり慶次郎が右手で自らの口を押さえた。その背中が震えている。
「ど、どうしたの?」
目の前の男の突然の変調に、思わず華琳は声をかけた。
「い、いや……」
慶次郎は苦しそうに答えると、口を押さえたまま下を向いた。
「前田殿?」
「ぷっ」
「えっ?」
次の瞬間、部屋を震わすような笑い声が轟いた。