第2節 趙雲
空が、広い。
それが第一印象であった。気がつけば、地面の上に大の字になっていた。
起き上がり、あぐらをかく。右手が何かを握っている。愛用のふくべであった。他には何もない。慶次郎はとりあえず、ふくべの栓を抜くと一口飲んだ。
「うまい」
にんまり笑うと、目の前に広がる景色に目を移した。目に前には、荒涼とした大地が地平線まで続いている。
ここはどこだろうか。あの世かとも思ったが、違うようだ。なぜなら、誰もいないからだ。ここがあの世なら、刀槍を持った連中に囲まれているはず。または、女どもが抱きついてくるはずなのである。
慶次郎はもう一口、ふくべを口に運んだ。そして穏やかな口調で言った。
「止めておけ」
◆◆◆
慶次郎の言葉に、その背後で動きを止めた三人組がいた。それぞれが槍を持ち、黄色い鉢巻きを頭に巻いている。
ここではとりあえず、その身体的特徴からこの三人に名前をつけておこう。背の高いノッポ、太っているデブ、そして小柄なチビ。
彼らは小沛の街で聞いた「噂」をもとに、街から三里(約一二km)ほど離れたこの地をうろついていたのである。
そこに、空から白い光が流星のように「落ちてきた」。そして光が消えると、大柄な男が大の字になっていた。男は、しばらくするとこちらに背を向けて起き上がった。
こいつが噂の「天の御遣い」か。どんな奴かはわからんが、天から来たのだ。何かしら、金目のものを持っているはず。
背後から近寄ったノッポは、そっと槍を構えた。そして背中からぶすりといこうとしたその刹那、その男は言葉を発したのであった。
絶妙のタイミングである。一瞬、動きが止まった。その男は続けて言った。
「見ての通り、丸腰じゃ。何もないぞ」
そして、くるりと身体を向けると破顔した。
その笑顔を見て、ノッポは思わず一歩後ずさる。
「けったいな格好をしとるのう。元気なのはいいが、老人を敬まわぬか」
「へ……?」
「老人」だと?この男、妙なことを言う。眉をひそめるノッポに向かって、男は再度同じ言葉を繰り返した。
「止めておけ」
男の笑顔がノッポに迫る。一瞬、猛獣の白い牙を見たような気がした。
怖い。何だか。怖い。
いつの間にか、自分の方が獲物になっているような気がした。
このままでは、殺される。相手は無手であったが、そんな確信があった。
慌てて槍を構え直す。
殺される前に、殺さねば。そう思ったとき、右の頬に冷たい感触がした。
遅れて、鋭い痛みが追ってきた。視点を右に向ける。いつのまにか、右の頬に槍の穂が当たっていた。
「!」
誰が当てているのかわからない。それは背後から突き出されていた。右の頬から流れた血が槍の穂を伝う。それは穂先に届くと小さな玉をつくり、下に落ちた。その赤い玉はノッポの右足に当たって弾け、彼の身を震わせた。
「もう一度言うぞ。止めておけ」
「おかしなことを。この者は、あなたの命を狙っていたのですぞ」
ノッポの背後から、若い女の声がする。前を向いて動けないままのノッポの代わりに、デブとチビは慌てて振り返った。そこには、槍を右脇に抱えた妙齢の女がいた。白い装束を着て、涼しげな表情を浮かべている。
「狙われた者が良いといっているのだ。槍を戻さんか」
「しかし」
「しかし、ではない。戻せ」
男は笑顔のままである。その顔を見て、女は渋々と槍を戻した。
ノッポは槍を手にしたまま、隣に立っているデブ、チビに視線を送った。何がどうなっている。見れば、デブ、チビも同じようにこちらを見ている。そんな三人に、男がにこにこと笑いながら声を掛けた。
「おい、おぬし等」
「へ、へい!」
もうだめだ。三人組は槍を捨てて平伏する。そんな彼らの頭上から、その怖い男の声がした。
「酒でも飲まんか?」
「はあ!?」
思わず、ノッポは顔を上げる。そこには、ふくべを突きだした笑顔の男がいた。
◆◆◆
「なるほどな、おぬしらは黄巾賊というのか」
「へ、へい。そう呼ばれております」
「なんで黄色の布なのじゃ?」
「え、ええと何だっけ、そうそう……」
慶次郎はふくべを三人組に回すと、改めて自分も一口飲み、質問し始めた。
最初は戸惑いを隠さない三人組であった。しかし、矢継ぎ早に話を聞いてくる慶次郎に害意がないと判断したのだろう。三人組は、顔を見合わせながら問いに答え始めた。いちいち驚いてみせる慶次郎の表情に、三人組は照れたような表情をみせる。気がつけば、慶次郎と三人組は車座になって話に花を咲かせていた。
そんな慶次郎の後ろに、槍を持った女性が立つ。
「天の御遣い殿」
「で、なんで信者になったのじゃ」
「信者になりたかったというより、食うためですかねえ」
「食うため?」
「へえ。うちの村は、お上の連中に根こそぎ食い物を持っていかれてですね」
「ふむ」
「もう死ぬしかないってときに、黄巾賊に入れば少なくとも食い物には困らないと聞きまして」
「ほうほうほう」
「でも、結局はこんな有様で……」
「天の御遣い殿!」
「何じゃ、うるさいのう」
慶次郎は振り返る。そこには、顔を真っ赤にした女性が立っていた。
「そもそも、天の御遣いとは何じゃ?」
「あなたのことですよ!」
「わしのこと?」
慶次郎は怪訝な顔をする。
女性は槍を置き、片膝をついた。
「申し遅れました。私は常山郡真定県の出身、名を趙雲、字を子龍と申します。天の御遣い殿が現れるとの予言を受け、お探ししておりました」
「趙……雲?」
慶次郎は、まじまじとその女性の顔を見た。
◆◆◆
慶次郎が三人組と酒を飲み始めたのは、無論、酒が飲みたかったのが第一の理由である。
どこまでも広がる青い空。
どこまでも広がる平原。
なんともうきうきしてしまったのである。
それと同時に、今自分がどこにいるのかを知りたいという気持ちもあった。そして話を聞いている内に、どうやらここが中国らしいことがわかった。今が後漢といわれる時代であることも。
慶次郎は、直江山城の屋敷で『史記』や『後漢書』、『三国志』などの正史を読んでいる。黄巾賊という名を聞いて、ピンと来た。
慶次郎は、いくさ人である。つまり、徹底した現実主義者である。そして目の前の現実から、どうやら後漢末に自分がいるらしいと結論を出した。とりあえず、それが現実でよい。そこに、驚きはない。
だが、目の前の女性は何だ。
趙雲といえば、『三国志』の英雄。蜀の五虎将軍として知られる「偉丈夫」ではないか。それと、この妙齢の女性はつながらない。
「それがおぬしの名か」
「いかにも」
「それは失礼した。わしは前田慶次郎という」
「前田……どの」
変わった名前ですね、とつぶやく趙雲に慶次郎はにっこり笑う。
「そう、前田慶次郎。天の御遣いなどではない」
「いや、あなたは天の御遣いだ」
「しつこいのう」
苦笑する慶次郎に、ノッポが言葉を継いだ。
「旦那。実は『白き天の御遣い、小沛の東に白き光と共に現れる』という予言がありまして」
「予言?」
「へえ。とにかく予言が当たる管輅という占い師がいるんですが、その占い師が予言したんでさ」
「む、だからお前等もここにいたのか」
「ご明察で」
慶次郎は頷くと、趙雲に向き合った。
「しかしだね、こんな老人に天の御遣いをさせるなど、ちょっと人使いが荒くないかね」
「老人?」
趙雲が目を丸くする。
「老人、とおっしゃられたか」
「いかにも」
「私には、どう見ても二〇代にしか見えませぬ」
慶次郎は怪訝な顔をして、趙雲の顔を見る。嘘をついている顔ではない。振り返って三人組の顔をみる。彼らはうんうんとうなずいた。
そういえば、手鏡はどこにいったのだ。そんなことを考えながら、慶次郎は右手で髪の毛を引き抜く。
そこには、黒光りする硬そうな髪があった。