第5節 左慈
慶次郎が愛紗と語らったその夜。冬華は一人、屋敷の庭にあるあずまやに座っていた。その建物を囲んで、結界が張ってある。結界の中にいる限り、外からその姿、そして気配は感じることはできない。
月明かりの下、慶次郎と愛紗、そして星が一緒に酒を飲んでいるのが見える。時折、笑いが起きた。むきになった愛紗を星がからかい、それを慶次郎が笑う。そんな風景が繰り返されていた。
<本当なら、私もあの場所にいる筈だったのに>
彼女は唇を噛んだ。その時、冬華の背後に人影が現れた。振り返らずに、彼女は言う。
「遅いじゃない」
「すまない。北郷の奴が、なかなか離してくれなくてな」
そう言うと孫乾――「左慈」は苦笑いをした。
その笑顔が気に食わなくて、冬華は黙り込んだ。自分がこんな気分で待っていたというのに、この男ときたら。そんな冬華を見て、左慈も口を閉じた。屋敷の縁側から、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。対照的な沈黙が、あずまやの二人を包んでいた。やがて、冬華が口を開いた。
「それで、何の用かしら?」
「つれないな。『仲間』だろう?」
「さっさと用件を言って。私、あなたのように暇じゃないの」
左慈は冬華の表情を探る。その表情はどこまでも冷え切っているように見えた。感情をどこかに置き忘れた、氷の女。それこそが、左慈にとっての冬華である。だからこそ、下邳の一行の到着時に彼女が示した態度が気になった。
臥牛山の鏡池から下邳の一行よりも一足先に小沛の街に着いていた左慈は、門前で小沛の「天の御遣い」をめぐって趙雲と言い合いをする冬華を見た。そして、その男に対して輝くような笑顔を見せる冬華を見た。その一連の過程で彼女の示した表情は、とても演技であるようには思えなかったのだ。
左慈は縁側に目をやると、つぶやいた。
「天の御遣いとは、うまくやっているようだな」
「何を言ってるのかしら。今回、私は一言たりとも『彼』と話した記憶はないけれど」
「お前こそ何を言っている。あんなにうれしそうに話すお前、俺は初めて見たぞ」
「え?」
「ん?」
二人は顔を見合わせる。話がかみ合わない。左慈は首を傾げながら、冬華に告げた。
「まあ、いい。その天の御遣い、悪いが消させてもらうぞ」
◆◆◆
改めて、沈黙があずやまやの中を支配した。冬華は、戸惑った。天の御遣いを、北郷一刀を消す?左慈もまた、自分と同じように管理者として壊れてしまったのだろうか。冬華は問うた。
「どういうこと?」
「奴は、例えるならば病原菌だ。悪しき影響がこれ以上広がる前に、消毒しなくてはならない」
「何言ってるのかしら。繰り返しのお役目に、頭が壊れたの?」
「壊れているとすれば、それはお前だ。自分の役割を忘れたのか」
「……必要最低限の役割は、果たしてきたつもりよ」
「ならば、俺の言うことも分かるな。俺も自分の役割を果たす」
どうにも話がかみ合わない。やはり、この男は壊れてしまったのか。無理もない。左慈はこれまで頑張りすぎた。よく持ったというべきかしら。そんなことを思いながら、冬華はとりあえず話しかけた。
「左慈。あなたがその役割、北郷の抹殺を狙う『悪役』を演じるのは、まだまだ先の『予定』でしょ。北郷はまだ、中華の統一どころか徐州しか得ていないじゃない」
「……管輅」
「何よ」
左慈は冬華の顔を見た。まさか、知らないのか。あの男が「何者」であるのか。
「天の御遣いとは誰だ」
「馬鹿にしてるの?」
「答えろ」
「……北郷一刀。未来の日本から呼ばれた一七歳の男。この世界の救い主を演じる男」
「やはり、な」
「左慈。何が言いたいの」
左慈は冬華を見た。氷ですら暖かい。そう思えるほどに、冬華の表情は冷えていた。彼は当初、それが彼女ならではの冷静さによるものであると思っていた。しかし、今はわかる。逆だった。彼女は、怒っていた。いや、激高していた。その感情はあまりに大きくて、彼女から表情を奪い去っていた。それはいつ、吹雪になってもおかしくない。左慈は慎重に言葉を選んで、冬華に告げた。
「今回、天の御遣いはもう一人いる」
「!」
「といっても『本当にそうであるかどうかはわからない』。実際、俺もお前もそのことを知らなかった。貂蝉や于吉なら、何か知ってるのかも知れないが」
忌々しげに、左慈は吐き捨てる。そして、「そのこと」を告げた。
「その天の御遣いらしき男は、北郷と同様に小沛の南に現れた。名を、前田慶次郎という」
◆◆◆
冬華は呆然とした。一瞬、頭が真っ白になる。
何。何を言っているの、この男……。
その表情を見て、左慈は頷いた。
「やはり、知らなかったようだな。管輅」
「……」
「あの男は、理由はわからないが自らが別の世界から来たことは伏せている」
「……」
「年齢不詳、経歴不詳。何者であるのか、さっぱりわからない」
「……」
「だが、北郷はあの男を知っている。それどころか、憧れの存在であるとまで言い切っていた」
そこまで言って、左慈は冬華の表情を確認した。相変わらず、まったくその表情は変わらない。だが、自分を見失っているようでもない。左慈は安心した。やはり、彼女は管理者だった。これならば、自分の主張に対して異議を唱えることはないだろう。
「そこでだ、管輅。オレたちのやることはわかるだろう?」
「……」
「オレたちは管理者だ。北郷一刀が中華を統一するように、この『外史』を管理せねばならない」
そして、この「特別」な外史において、彼の友たることが自分の望み。悪役を演じることもなく、遠くから彼を眺めるのではなく、その人生に寄り添って生きるのだ。左慈の口調に熱が入る。
「だが、あの男――前田慶次郎は、北郷に影響を与えすぎる。恐らく、北郷が中華を統一するにあたり、最大の障害となるだろう」
「……」
「だからこそ、その可能性を抹消しなくてはならない。この外史において病原菌のごときあの男を――」
「黙りなさい」
「最後まで聞けよ。できるだけ早く、あの男を排除しなくてはならないんだ。だから管輅、お前もいい気分はしないだろうが、管理者として協力を――」
「黙りなさい、と私は言った」
冬華の手元で、白い光が走った。
◆◆◆
慌てて首をすくめる左慈の目の前を、小刀の刀身が流れた。思いも寄らぬ冬華の行為に、左慈は叫ぶ。
「何をしやがる!」
「あなた。さっきからうるさいわ」
「管輅!」
「あの人に手を出したら、ただではおかない」
冬華の右手には、小刀が握られていた。片刃の、反りが入った小刀である。その黒柄には、龍の模様が刻まれていた。冬華は、躊躇せずにそれをもう一度振る。その表情は変わらず冷えたままである。左慈は後ろに小さく飛んだ。
<こいつは……本当に管輅なのか?>
左慈は冷や汗をかいた。冬華は、管理者の中でも「予言」という特殊な役割を果たしている。そのため、左慈や于吉、そして貂蝉とは異なり、武力自体は一般人と変わらない。にもかかわらず、左慈は危うくその刃を首に受けるところであった。それは、彼女の並々ならぬ覚悟の程を示していた。本気、なのだ。
彼はふと、管理者にまつわるあるルールを思い出した。管理者は、この世界ではほぼ不死身である。ただし「管理者は管理者が殺せる」。それは、役割を放棄した管理者を粛正するためのルールであった。そのことに気づいて、左慈はぞっとした。目の前の冬華がまとうもの。それはまごうことなき「殺気」であった。左慈は深呼吸すると、冬華に告げる。
「落ち着け、管輅。お前らしくもない」
「お前らしくない?あなたにそんなことは言われたくないわね。不愉快だわ」
「す、すまん」
自分が殺されかけたにもかかわらず、左慈は謝ってしまう。何だ、この重圧は。
「いいか。もう一度言うぞ。オレたち管理者は、あの前田という病原菌のごとき男を――」
「あの人にそんな言葉を使うのは止めて。本当に不愉快だわ」
「す、すまん」
また、謝ってしまう。ええい、オレは何をしているのだ。顔をぶるぶると振るうと、左慈は気合いを入れた。
「いいか!理由はわからんが、あの男の北郷への影響力は半端ない! 仮に、あの男が北郷以外の勢力に所属した時のことを考えてみろ!極端な話だが、北郷がその勢力と戦いを選ばない可能性すらある。その場合、北郷が『中華を統一しない』可能性すらあるんだ!」
「それが、どうかして?」
「な!?……それにだ。あの男の北郷の『力』を削ぐ力も半端ない。あれを見ろ!」
左慈は酒を飲んで語らう三人組――慶次郎と星、そして愛紗を指さした。
「本来なら、北郷の仲間になるはずの趙雲があの男の下についている。そして、あの関羽ですら心を許している。昼間、奴と会った黄忠、そして厳顔とて、恐らくはそうだろう」
「だから、それがどうかして?」
「まだわからないのか!あの男がこの外史にいる限り、北郷が中華の統一を成し遂げる可能性は限りなく減少するんだよ!」
「別にいいじゃない、それで」
冬華は平然と答えた。左慈は息を呑む。何を言っている、この女。信じがたいことに、管理者でありながら北郷のことはもはや眼中にないらしい。そして、この世界の行く末にも関心がないようだ。
管理者たる彼女が、たった一人の男にそこまで執着するとは予想だにしなかった。そんな執着を見せるのは、管理者として未熟な自分だけだと思っていた。
少しだけ、彼女に親近感がわいた。だが、北郷の未来のためには、やはりあの男をこのままにはしておくわけにはいかない。排除することはできなくとも、少なくともあの男が北郷に関わることだけは何としても避けなくては。
「管輅。このままの状態が続けば、この外史はいつもとは違った終わり方をするだろう」
「……」
「そして、『天』の奴らはこう思う。それは、病原菌――いや、あの男のせいだとな。そしてこうも思うだろう。次回の外史では、こんなことは絶対に起きないようにしよう、と」
「何が言いたいの」
食い付いた。左慈は内心ほくそ笑みながら、何食わぬ顔で冬華に告げた。
「恐らくは、お前があの男と次の外史で出会う可能性も消えるだろうということだ」
◆◆◆
「……っ」
冬華が唇を噛む。その表情に満足しつつ、左慈は話を続けた。
「しかしだ。あの男がいても、北郷がその役割を――中華の統一を成し遂げれば、天の奴らは目をつぶってくれるかもしれんな」
「そんなこと」
「可能性はある。繰り返される外史の中で、これからもあの男に会えることを想像してみろよ」
「……」
冬華は無言である。やがて小刀を鞘に仕舞うと、その懐にしまい込んだ。その姿を見て、左慈は胸をなで下ろす。
「それで。あなたはどうしたいの?」
「そうこなくちゃな」
「言っておくけど、彼を排除するという話ならば、私は絶対に協力しないわよ」
「わかってるって」
左慈は額の汗を拭いながら答えた。話が通じる可能性は五分五分だと思っていた。彼女が狂気に陥っている可能性もあったのだ。だが、そういうわけでもなさそうだ――まあ、恋には狂っているようだが。そしてだからこそ、説得ができる。
「管輅。まず、お前はあの男から離れて俺たちと一緒に来い」
「!」
「それで、管理者たるお前とあの男の関係は切れる」
「左慈!」
「これは取引なんだよ、管輅」
「……」
自分が話の主導権を握っている。そう確信しながら、左慈は話を続けた。
「そして、あの男と北郷をできるかぎり接触させないようにことを進める。そうすることで、北郷に対するあの男の影響力を抑制できる。また、北郷配下の武将どもがあの男になびくのも防ぐことができる」
「……」
「理由はわからないが、あの男は北郷のように天の御遣いとして振る舞うつもりはないらしい。今のような状態のまま、のんびり過ごす腹なのかもしれないな。だとしたら、あの男がこの世界に与える影響は限りなく少なくなるだろう」
「……」
「だとすれば、オレたち管理者がとやかく手を出す理由はない。放っておこうじゃないか。きっと、天だって許してくれるさ。そして、次の外史でお前はあの男とまた会える。たった一週間の逢瀬でも、それは貴重な時間だろ?」
左慈は両手を軽く挙げて微笑むと、冬華の顔を見た。
冬華も左慈の顔を見た。自分の目論見通りに話が進んでうれしいのだろう。こぼれる笑みを隠せていない。その顔を見ながら、冬華は冷たく思った。
この男、天を甘く見過ぎている。
◆◆◆
自分の思考が恨めしい。運命に酔えない自分が悲しかった。慶次郎が「天の御遣い」の可能性がある。左慈からその言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。そして次の瞬間、頭が冷えた。そして決意した。何とかして、慶次郎を守らなくては。
左慈は、慶次郎のことを病原菌であると言っていた。すなわち、慶次郎は本来この外史に存在してはならないものである、と。いわば、慶次郎は何らかの「アクシデント」によってこの世界に呼ばれた存在である。そのように彼は考えているようであった。
しかし、冬華の頭の冷静な部分が、それは恐らくありえないと告げていた。そのようなミスを天がするだろうか。するわけがない。十中八九、慶次郎は何らかの「意図」によって天に選ばれ、この世界にもう一人の天の御遣いとして呼ばれたと考えるのが妥当であろう。
だとすれば、彼が次の外史でも呼ばれる可能性がないわけではない。しかし、この外史においてのみ「特別」に呼ばれたのだとしたら。
恐らくは、後者であろう。そのように冬華は結論づけた。何しろ、これまでの外史は比類のない安定ぶりを見せてきた。そして、その安定を崩す理由は現時点では見当たらない。
だとしたら、自分がすべきことは愛する男をせめてこの世界では「殺させない」ことだ。左慈が慶次郎を殺そうとする可能性を、できる限り排除しなくてはならない。世界の管理者たる左慈にかなう人間など、「この世には存在しない」のだから。
私にとって、数万回に一度かもしれない奇跡。その奇跡の世界で、彼には生き抜いてほしい。私にとって唯一の「思い出」となるかもしれない、あの人には。
だからこそ、冬華は左慈に向かってあえて過激な態度をとった。それこそ、狂人に見えるほどに。そうすれば、彼は自分を説得するための交換条件として、慶次郎の身の安全を持ち出してくるだろう。そして事実、そうなった。
冬華は、左慈の顔を見た。この男に、説得されたふりをしなくてはならない。いずれにせよ、このような状況となった以上、自分が慶次郎から離れれば彼が死ぬ可能性は激減する。彼が生きていてくれれば、それだけでいい。そう思った。それだけで、いい。それだけで、いいのだ。
「わかったわ。その条件を呑みましょう」
「商談成立だな」
「その代わり、約束してくれるかしら。慶次には今後一切手を出さないと。絶対に」
「ああ。約束しよう」
左慈がそう頷くのを見て、冬華は目をつぶった。そして、左慈に告げる。
「それでは、明日の夜半。また、ここで」
「ああ。それじゃあな」
左慈の気配が消えたことを確認すると、冬華は目を開けた。屋敷の縁側から、楽しそうな愛紗、星、そして慶次郎の笑い声が聞こえてくる。
冬華はそんな三人の姿を、静かに眺めていた。
◆◆◆
その翌日、冬華が星と話す時間を持った日の丑の刻(午前二時)頃。左慈は屋敷のあずまやで冬華を待っていた。昨晩と同様、煌々とした月の光が差し込んでいる。ただ、風が若干強い。流れる雲が、時折その光を隠した。
また、その光が雲で隠された。その時、左慈の視界に白い人影が目に入った。それは屋敷から出てくると、ゆっくりと左慈に向かって歩いてくる。冬華である。左慈はあずまやを出ると、冬華に向かって歩いて行った。屋敷とあずまやのちょうど中央で、二人は落ち合う。左慈は冬華の顔を見て頷くと、屋敷に背を向けた。
「さて。行くとするか」
「——どこへだね?」
「「!」」
左慈と冬華は振り向いた。しかし、そこには誰もいない。空耳か――いや、そんな筈はない。確かに聞こえた。「あの男」の声が。
「丑三つ時に駆け落ちかね。……風情がないのう」
<上か!>
左慈は屋敷の屋根に目を向ける。空が暗い。一巡の風が吹く。雲が流れた。月の光が屋敷を照らしていく。
冬華は、両手で口を押さえながらつぶやいた。
「慶次……!」
屋根の上に、朱槍を肩にかついだ偉丈夫が座っていた。