第4節 関羽
慶次郎が「天の御遣い」らしき若者に挨拶をした後、その若者は口を開けたまま固まっていた。少々心配になった慶次郎が声を掛けようとしたその時、一人の武将が馬を下りて駆けつけてきた。黒い長髪を後ろで結わえた女性である。
その女性は若者の馬の手綱を手に取ると、慶次郎にぺこりと頭を下げた。そして、若者を馬ごと街の門前に向けて引っ張っていった。
途中、若者がこちらを振り返り、何か言おうとした。しかし、手綱を引っ張る女性はそれを許さない。さらに手綱を引っ張ると、強引に門をくぐろうとした。若者は何とも言えない顔をして前を向くと、門前にいた星に何やら話しかける。星が頷くのが見えた。
街の中に入っていく天の御遣い一行。それを追いかける街の住人たち。その騒々しい雰囲気の中で、一人の老人が慶次郎たちにゆっくりと近づいてきた。慶次郎に鏡池の物の怪の件を依頼した街の長老である。
「久しぶりですな」
「おう。長老殿か。待たせたな」
「いえいえ。ところで、首尾はいかがでしたか」
「うむ。刮目して聞くがよい」
慶次郎は語り始めた。
臥牛山に登り鏡池に到着すると、噂に聞いたとおりの「物の怪」がいた。黒くて大きく、素早い。流石のわしも、苦戦した。そのままでは危なかった。だが!幸運にも、たまたま鏡池の水を汲みに来ていた夫婦の助力を得ることができた。ここにいる周倉と裴元紹である。三人で物の怪と戦い、何とか追い詰めた。最後に裴元紹の矢が物の怪の目に刺さると、物の怪は怪鳥のような声を出して鏡池から去っていった。その物の怪が去った後、そこにはこの黒馬、物の怪にさらわれてきたと思しきこの女性、そして物の怪が守っていたらしい宝箱、そして武具があったというわけじゃ。
長老は、慶次郎の長口舌を聞きながら、その背後にいる巨大な黒馬を見上げた。見事な馬である。そして思う。「巨大な何か」で「恐ろしく速い」との噂があった物の怪。十中八九——。
しかし、大切なのは鏡池に「物の怪がいなくなった」という事実である。この馬が「物の怪かどうか」ということではない。長老は慶次郎に満足げに頷いてみせ、感謝の意を伝えた。そして、その左脇に立つ女性に目を向けた。
「ところで、前田殿。そのお方のお名前は」
「『水仙』と申します。お爺さま」
至誠天に通ず。臥牛山を発つ前に、冬華は慶次郎に管理者としての自分の素性を明かしていた。水仙とは、管輅という名前を名乗ることで生じる問題を回避するために、その時に決めた偽名である。
「良い名じゃ。ところで、どこからさらわれてきたのかの」
「……それが、記憶が定かではないのです。覚えているのは名前のみ」
「と、いうわけじゃ。しばらくは、わしが面倒を見る」
長老はしばらく二人を眺めていたが、好々爺然と微笑んだ。そして、「何かあったら、遠慮なく頼って下され」と言うと、その場を去っていった。
◆◆◆
「先程はありがとうございました」
ここは慶次郎が居候をしている屋敷の前である。一度屋敷に戻った慶次郎たちは、昼食をとりに街に出た。そして戻ってくると、その門前に、部下を一人連れた長髪の若い女性がいた。門前で天の御遣いの馬の手綱を取り、引っ張っていった女性である。
今、ここにはいるのは慶次郎と星の二人だけである。冬華は、街には出たくないと屋敷に残っていた。戯志才と程昱は、食事の後に所用があると言って消えた。周倉と裴元紹もまた、買い物があるといって街に出て行った。星に気を使ってくれたのだろう。
松風と野風は、街の馬場に一時的に預けてある。この屋敷にも、馬小屋がないわけではない。しかし、屋敷の門は松風が通るにはいささか小さすぎた。戯志才がすぐさま門を拡張するように手配してくれたが、工事が終わるまでのしばしの間、松風とは離れて生活することになりそうだった。
「小沛の街の住人として、当然の対応をしたまで。お気になされるな」
「いえ。本当に助かりました。心より御礼申し上げます」
その女性はぺこりと頭を下げた。真面目な性格のようである。そして、自らの名前を告げた。
「申し遅れました。私、徐州牧である劉備様にお仕えする関羽、字を雲長と申します」
「ほお、おぬしが……。その武名、聞き及んでおりますぞ」
「恐縮です。私など、まだまだ」
「ご謙遜なさるな。わしは、前田慶次郎と申す者。今後、よしなに」
慶次郎も頭を下げる。そして、関羽の側を通って屋敷の中に入ろうとした。しかし、関羽――愛紗はそんな慶次郎をじっと見つめている。
「いかがなされた?」
「はい。前田殿は、ご主人様――いえ、北郷一刀殿と同じく「天の御遣い」であられるとか」
慶次郎は隣に立つ星の顔を見た。星は首を振る。
「単なる噂よ。予言とやらで天の御遣いが現れるとの場所を、ちょうど旅しておりましてな」
「ですが、戯志才殿と程昱殿は前田殿は確かに天の御遣いであられると、断言されておりました」
もう一度、星の顔を見る。星は頷いた。彼女らが、わしを天の御遣いと。
ふむ。頑張るのう。
「仮にわしが天の御遣いであったとして、関羽殿はどうなさる」
「あとしばらくして、北郷殿が前田殿を訪ねてくるということはご存じでしょうか」
「うむ。先程、ここにいる趙雲から聞いた」
「恐らく、前田殿が天の御遣いであられるかどうかは、天の御遣いを自認されている北郷殿が何らかの判断をして下さいましょう」
「ふむ」
「ですが、その前に」
愛紗は、強い意志を込めて慶次郎の目を見た。
「一手、お手合わせを」
「手合わせ?」
「前田殿は武人であるとお見受けいたしました」
「いかにも」
「武人は言葉によらず、矛で語り合うことができるもの。違いますか?」
慶次郎は目を丸くした。この関羽、見目は美しいがやはりもののふか。『三国志』の世、やはりこうでなくてはの。
慶次郎は、にっこりと微笑んだ。
◆◆◆
紫苑が警備兵を迎賓館の周りに配置して戻ってくると、桔梗が迎賓館の入口前の椅子に座っていた。一人、酒を飲んでいる。
「あら、中には入らないの」
「わしは、ああいうのは苦手でな」
迎賓館の中では、一刀が接待を受けていた。小沛の街の長官に長老、そして裕福な商人たち。彼らは列をなして、天の御遣いのご機嫌伺いに殺到していた。
「それに、孫乾の奴がいれば心配いるまい」
そう言うと、桔梗はその隣にある卓の上に手を伸ばす。そこには、小さな酒瓶があった。それを右手で持つと、左手の酒杯になみなみと酒を注ぐ。
紫苑は迎賓館の中をのぞき込んだ。必死で天の御遣いとしての役割を果たそうとしている一刀の左隣に、同年齢ぐらいの栗色の髪をした若者が座っていた。
孫乾。彼こそが、北郷一刀の勢力を短い期間に急速に拡大させた影の立役者である。下邳の若き富豪であり、また徐州の名家の一人でもある彼は、一刀たちに多大な援助をしてきた。
もともとは、旅商の途中で賊に襲われた彼を、一刀に会う前の愛紗が助けたのが発端である。そのことに感謝した孫乾は、愛紗が助けを必要としたときには、必ずや恩返しをすると約束していた。
そして、天の御遣いこと北郷一刀を連れてきた愛紗たちを、孫乾は心より歓待した。食客として滞在していた諸葛亮こと朱里、鳳統こと雛里を一刀たちに紹介したのも彼である。当時の徐州牧、陶謙に一刀を紹介したのも彼であった。もっとも、その直後に黄巾賊が下邳を来襲し、陶謙は倒れてしまうのだが。
その後も、孫乾は一刀たちに陰ひなた無く惜しみない援助を続けた。その援助なくして、これほど迅速に一刀たちが勢力を伸ばすことはできなかったであろう。
そんな孫乾に対して、一刀は自分付きの文官として出仕してくれないかと頼み込んだ。孫乾はその頼みを快く引き受けた。以後、彼は下邳の内政の中心人物として、その辣腕を振るってきたのである。
◆◆◆
紫苑は桔梗に問うた。
「そういえば、孫乾はいつ戻ってきたの?」
「迎賓館に到着すると、門前で待っておった」
「ずいぶんと早かったのね」
「うむ。お目当ての人物には会えなかったらしいぞ」
桔梗は小さく笑う。
孫乾は、小沛の街に来る道程の半ばで下邳の一行を一旦離れていた。途中にある村に許嫁がおり、会いに行きたいと申し出たのだ。もちろん、一刀はそれを快く許した。
「ははは。しょげておったわ」
「それにしても、彼ほどの名家の方に、村に住むような許嫁がいたなんてね」
「旅商の途中で、一目惚れしたのだと。まあ、そんな男の方がわしは好きだがの」
「まあ」
桔梗の軽口に微笑みながら、紫苑はもう一度室内をのぞき込んだ。一刀は額に汗をにじませて微笑み、その左で孫乾がなにやら頷きながら話している。
<ん?>
紫苑は違和感を感じた。何かしら。ああ――。
「桔梗。愛紗ちゃんはどうしたのかしら」
このような場では、一刀を中央において左に孫乾、右に愛紗というのがいつもの光景であった。左に能弁、右に武威。二人はまさに両翼として、一刀を支えていたのである。その愛紗がいない。珍しいことであった。
「ああ、愛紗なら」
くい、と酒杯を空けて桔梗は答える。
「ここに到着するやいなや、孫乾に後を任せて飛び出していきおったわ」
「まあ。一体どこに」
「決まっているであろう。小沛の天の御遣いのところよ」
その顔は少々、悔しげである。
「何でも、『露払いは任せていただく』だそうだ」
「あらあら。それで桔梗はすねちゃったのかしら」
「ぬかせ」
桔梗は鼻で笑うと、再度酒杯に酒を注いだ。