第1節 慶次
米沢近郊の堂森にある小さな屋敷の朝。白髪の老人が、朝餉の席に着いた。長身大柄、鶴のように痩せた老人である。その名を、前田慶次郎利益という。
慶次郎はいつものように手を合わせると箸をとった。そしてまた、いつものようにまず漬け物に手を伸ばす。と、箸につままれた漬け物がぽとりと落ちた。
「む?」
もう一度、箸でつまもうとする。しかし、震える箸は、なかなか思う通りに動こうとはしなかった。震え続ける箸をしばし眺めた慶次は、箸を静かに置くと小さくうなずいた。
手を叩く。
「へえ」
下男の与平が顔を出した。三〇歳半ばの小男である。
「すまぬが、膳を下げてくれ」
「へえ?……な、なにかお気に障ることでも」
「いや、どうも食欲がなくてな」
「は、はあ」
慶次郎はそのまま席を立つと、奥の書院へと歩いて行った。納得のいかない顔をして、与平は膳を下げる。
無理もない。老人でありながら、老人のようではない。それが慶次郎という男である。毎朝、ご飯のお代わりを欠かさぬ男であった。それが、一口も食べずに膳を下げてくれと言う。与平は首を傾げた。
しばらくして、書院から慶次郎が戻ってきた。
「与平。ちょっと使いを頼まれてくれるか」
「へ、へい。どこまで」
「うむ。直江山城のところまで」
そういうと、慶次郎は封をした手紙を与平に渡す。
「そ、それではすぐに」
「まあ、急がぬともよい。ゆっくりと行け」
「はあ?」
「歩いて行け、良いな」
そう言うと、慶次郎はくるりと背を向けて書院に戻っていった。
与平はそんな主の背中を呆けた顔で見ていた。そして慶次郎が書院の中に消えると、慌てて頭を下げて屋敷を出ていった。
米沢の中心地にある直江山城守兼続の屋敷まで、この堂森の屋敷からは歩いて半刻(一時間)ほどである。
◆◆◆
書院の中に、慶次郎は座っていた。白装束である。座ったまま、書院の中を見渡した。
目の前の壁には、朱槍がかかっている。
鉄筋の入った、特製の長槍である。
もう、それをふるうだけの膂力はない。
右後ろの壁には、大きな鎧櫃が二つ。
黒く焼きの入った南蛮鎧が入っている。
もう、それをまとうだけの体力はない。
左後ろの床の間には、三尺二寸五分厚重ねの長刀が飾ってある。
優美さとはかけ離れた、戦でしか使えない剛刀である。
もう、それを腰に差すことはないだろう。
左の脇には、大きな骨壺がある。
中には、愛馬松風の骨が入っている。
彼女が逝って、もう五年が経つ。
目の前には、酒の入った大きなふくべ。
そして膳に乗ったおちょこが二つ。
直江山城が来れば、末期の酒を飲むことになるだろう。
慶次郎はいくさ人である。すなわち、死人である。いつ、何時でも死ぬ準備はできていた。それがたまたま、今日であったというだけである。
齢、七十三。生きるだけ、生きた。後悔はない。この時を、待っていたような気もする。
あの世で、自分を手ぐすね引いて待っている奴らも多いだろう。
そして、女たち。
つい、口がにやけてしまう。あごをつるりを撫でた。
「む?」
ひっかかりがある。剃り残しがあるようだ。無精髭で女たちに会うわけにはいかぬ。慶次郎はそばの小箪笥から、小刀と古い手鏡を取り出した。
黒鞘の小刀の柄には、龍の透かし彫りが刻まれていた。直江山城から贈られた品である。手鏡は京にいた頃、道ばたの古物商から買ったものであった。
左手で手鏡を、右手で小刀を持つ。手鏡には、白髪の老人が映っている。何か、心にひっかかるものがあった。
何であろう。
自分の顔を見て、思い出されるもの。
はて、この白髪頭に……。
「うむ」
慶次郎は苦笑した。何のことはない。慶次郎は養父、前田利久の顔を思い出したのであった。血はつながっていなくとも、やはり親子。顔は似るものかね。そんなことを思いつつ、心のひっかかりの理由を探す。
はて、親父殿は死ぬときに何とおっしゃられたのであったか——。
思い出した。
親父殿は無念の人であった。最後まで、叔父の利家殿に荒子の城を取られたことを悔やんでいた。それは、おのれのためではなかった。彼が愛する息子、慶次郎がその大器を納める場所を、自らの無力さによってなくしたことへの悔やみであった。
利久は酒を飲むと、決まって慶次郎にこう言った。
『お前が城持ちの武将であったなら、大名となることも夢ではなかったのに』
慶次郎は、そんな利久の話をいつも苦笑しながら聞いていた。自由が好きな男である。城持ちなど、面倒くさいことは御免被る。正直、叔父がその役割を代わってくれたことに感謝すらしていたのだ。
そして利久は、最後にこう言ったのだ。
『お前が大名となった姿、見てみたかったな』
その言葉を、自らの死に際に思い出すとは。親父殿の心残りを、投げっぱなしにしていたことが心に残っていたか。
いやはや、これまでまったく失念していた。あの世で、どんな言い訳をすれば良いかね。苦笑する慶次郎の右手が、あらぬ方向に動いた。
一筋の血が、手鏡に落ちる。
「いかん、いかん」
小刀をおいて、手鏡の血を白装束の袖でぬぐう。と、手鏡が白く光り出した。
「なんと?」
光はますます強くなる。もはや、目の前は真っ白だ。慶次郎は急に前屈みになった。
光の中、手鏡があるとおぼしき場所に身体が吸い込まれている。手をついて身体を押さえようとしたのも束の間、慶次郎は意識を失った。
◆◆◆
「慶次殿!」
直江山城守兼続は、書院のふすまを開けると部屋に飛び込んだ。
与平から渡された手紙には、末期の酒の相手を頼む旨が書かれていた。それを読んだ兼続は屋敷を飛び出し、馬に乗って全力で駆けてきたのである。
着いてみると、堂森の屋敷は静かだった。人の気配がしない。すぐさま兼続は異変を察し、慶次が待つと書いていた書院へと向かったのである。
しかし、そこには誰もいなかった。
いや、何も「なかった」。
まるで引越をした後のようである。
ただ、部屋の中央に膳に乗ったおちょこが二つあった。
確かに、慶次郎はここで待っていたのだ。
兼続はおちょこを一つを手にすると、縁側の外を見た。
青い空がどこまでも続いていた。