第1節 鏡池
小沛の街から西へ五里(二〇km)ほど離れたところに、「臥牛山」といわれる山があった。名前の通り、牛が伏せているようなかたちの山である。山壁は急で、断崖絶壁となっている。一つだけ、ふもとから頂上まで上れる道がある。
その頂上には、池があった。名を「鏡池」という。冷たく澄んだ湧き水で知られている。また、病気が治る霊水としても知られ、小沛の街からも時折その水を汲みに来る者がいた。しかし、最近ではとある理由により、水を汲みに来る者は、ぱったりと途絶えている。
その池のほとりに薄汚れた黒衣をまとい、風に吹かれてよろよろとたたらを踏む小柄な人影があった。管輅である。
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管輅は、疲れ切っていた。その「管理者」という役割に――その魂の牢獄に。これまで、何度「天の御遣い」の顕現を予言してきただろう。百回か、千回か、それとも万回か。もはや、数えてすらいない。
「北郷一刀が中華を統一する」この世界で、管輅や貂蝉は、于吉や左慈と敵対関係にある、ことになっている。だが、それは建前であった。実際には、仕事仲間といって良いだろう。彼らは、いわば天から与えられた管理者という配役をこなす俳優であった。
一刀たちもまた、繰り返されるこの外史で配役を担う俳優に過ぎない。だが、管輅たちと一つだけ違いがあった。一刀たちには先に過ごした外史の記憶がなかった。俳優としての自覚がなかったのである。だからこそ、彼らは繰り返される「たった一度」の人生を精一杯生き、戦い、そして散っていった。
彼らがうらやましかった。その人生をたった一度と信じて、全身全霊を燃やす彼らは輝いて見えた。私も、あんな風に生きてみたい。管輅は心から願った。戦乱の中で「生」を実感したい。好きな男に「恋」を叫びたい。慟哭の中で「愛」を抱きしめたい。
だが、それは叶わぬ夢だった。その夢はいつしか、管輅の心を削っていった。あり得ない夢は、絶望に似る。やがて、身なりにかまわなくなった。身ぎれいにするのも止めた。「徐州の水仙」とうたわれたその美貌は、いまや垢にまみれて老婆の如く乾いている。
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そんな管輅の最近のお気に入りは、鏡池で入水することである。衰弱した状態で入水すると、絶食して体力を失った身体はあっという間に抵抗を止める。すると、眠るように「死ぬ」ことができるのだ。実際には、それすら「仮の死」に過ぎない。管理者に、死ぬことは許されない。それでも、水の底で過ごすその時間は、次の外史までの束の間の安らぎであった。
そのために、管輅は「予言」をした。「百発百中」の予言である。その結果、ここ最近の外史においてその予言はまさに「天のお告げ」に等しいものとなっていた。実際、小沛の街で彼女は半ば神格化されている。
本来、管輅の役割は自称「占い師」である。したがって、その予言は「当たるも八卦、当たらぬも八卦」程度のものであることが求められた。しかし、そのように演技するつもりは既になかった。どうせ、結果は同じなのだ。ならば、さっさと予言という名の「予定」を発表する「仕事」をこなした方が良い。
今回もそうだった。いつも通りの予言――天の御遣いの顕現を伝える仕事を終えて、管輅は鏡池のほとりに立った。
お仕事お疲れさま、私。さあて、ゆっくり眠りましょう。
少しだけ気持ちを高揚させて、足を池の深部に進めていく。冷たい水が、速やかに体温を奪っていく。
ほらね、気持ちいい。
私は水の……底に……向かって……。
身体が「宙」に浮いていく。
最後に見た光景。それはいつもの暗い水底ではなく、黄金のように輝く水面だった。
◆◆◆
雪蓮らが小沛の街を去って一週間が経った。慶次郎は街を出る準備にとりかかっていた。そろそろ、この大陸を見て回りたい。手元に何もない状況では、今から少しずつ準備せねばままならない。そして、まず必要なのは――。
「馬、だな」
慶次郎は、いつもの敷物の上で考える。慶次郎は大きい。たいていの馬は、一日で乗り潰してしまう。松風と出会ってからは、至福の時が続いた。だが、それは奇跡に近いめぐりあわせ。そして現実問題として、馬は高価である。それは、この後漢末の世でも変わらなかった。
正直、現在の警備係兼お留守番の賃金程度では話にならない。忍び出身の慶次郎ならば、馬泥棒ぐらいはたやすい。しかし、流石にそれははばかれた。
からん。
入口の鐘が鳴った。いつもの酒屋であろう。馬を買う金はなくとも、週に一度の酒の注文は欠かさない慶次郎である。
「勝手に入られよ」
「おじゃまする」
「ん?」
現れたのは、白髭の老人であった。小さな身体の上に、いかにも人の良さそうな表情を浮かべた大きな頭を乗せている。そしてその頭は、つるりとはげて黄金色に光っていた。老人はにこりと笑うと、慶次郎に問うた。
「前田慶次郎殿ですかな」
「いかにも」
「天の御遣いとの噂があった」
「あったようですな。噂でしたが」
「「……」」
「ふふふ」
「ははは」
二人は微笑み合う。
なかなか食えない爺さんのようだ。慶次郎は茶を入れるために立ち上がった。
◆◆◆
「ここが臥牛山かね」
慶次郎は、岸壁を見上げてつぶやいた。目の前には、幅は広いが水量は少ない滝がさらさらと落ちている。山頂にある鏡池という名の池から流れ出す滝だと聞いた。その滝壺の前に、慶次郎は馬と共にいる。
慶次郎は今、松風ほどとは言えないまでも、馬体の大きな馬に乗っている。老人から引き受けた仕事の先行報酬であった。過去に、良く似た馬を知っている。「野風」と名づけた。
老人は小沛の街の長老と名乗った。曰く、ここから西にしばらく行くと、臥牛山という山がある。その頂上には、霊水を満たすといわれる池がある。小沛の街の人々にとって、なくてはならない場所だ。
だが、最近妙な噂が立っている。「物の怪」が出るというのだ。実際に、見た者もいる。もっとも、そのあまりの恐ろしさに、姿をはっきりと覚えている者は一人もいなかった。とにかく「巨大な何か」で、「恐ろしく速い」らしい。
今や、誰もそこに行かなくなった。しかし、霊水がなければ助からない病人もいる。対策を取るには、物の怪とは一体何なのかを誰かが確かめなくてはならない。そして、もしそれが存在するのならば退治しなくてはならない。
しかし、その目撃者の話を聞いて、誰もその役を担おうとはしなかった。霊水の池にいるという物の怪。それに祟られでもしたらどうするのか。
「なるほど。その点、小沛の街とは縁もゆかりもないわしならば、死んでも祟られても痛くもかゆくもない、と」
「そこまでは言っておりませぬ。が、そのような考えもありますな」
「食えぬ爺いだ」
「年寄りをいじめますな」
二人は笑い合った。実のところ、慶次郎はすっかりその気になっていた。屋敷にこもって一ヵ月と少し。身体が動きたくてうずうずしている。得体の知れぬ物の怪を見てこいというのもいい。
「では、報酬を決めよう」
「何をお望みですか」
「馬。わしが乗れるような大きな馬だ。そして地図。この国全体が載っているようなものを」
「かしこまりました」
「先行報酬だ。馬を先に渡してもらえぬか。その方が、早く片が付く」
「そうですな。それではさっそく」
次の日の朝、馬が届いた。久しぶりの愛馬に、慶次郎の顔もほころぶ。その日のうちに準備を済ませると、慶次郎は出立した。そして今、臥牛山の前に立っている。
「これは……登れぬな」
急勾配の崖が目の前にある。体重の重い慶次郎は、登攀は苦手であった。かつての従者たちのことを思う。彼らならば、この程度の崖の登攀は児戯に等しかっただろう。さて、どうするか。
「どうなすった、大将」
振り返る。そこには黒光りする大きな「牛」がいた。
◆◆◆
「大将。ここからじゃ無理だ。山を登るには、反対側にある山道を使わなきゃ」
牛が言う。慶次郎はその牛を見上げた。
慶次郎よりも、背が高い。
慶次郎よりも、幅が広い。
慶次郎よりも、重そうだ。
慶次郎よりも、ずっと黒い。
その牛のような大男は、周倉と名乗った。
「わしの名は、前田――」
「別に、大将でいいだろ、大将」
「まあ、よかろう」
どうやら、小沛の街へ買い出しに行った帰りのようだ。大きな荷物を背負っている。そういえば、四半刻(三〇分)程前に荷物を背負った大きな牛のようなものを追い抜いた覚えがあった。思い返せば、この男だったような気がする。久しぶりに馬に乗るのが楽しくて、気にも留めていなかった。
「山道か。ここから、どのくらい掛かる?」
「そうさな。馬ならここからぐるっと回って半刻(一時間)ぐらいかな。そこから登ってまた半刻か」
「うーむ」
今、臥牛山を牛に例えれば頭の方にいる。馬で登るには、牛のしっぽの方にある山道から入る必要がある。遠くからはっきり見える山なので、山だけを見て進んできたのがあだになったようだ。目の前に山がある以上、さっさと登りたい。慶次郎は目の前の滝を見て、ふと思った。
「ん?この滝の水は鏡池とやらから落ちてくるのだったな」
「さようで」
「だったら、別に上まで行かんでも、ここで霊水とやらを汲めば良いのではないか?」
周倉は首を振る。大きな首が振られると、ぶーんぶーんと音がするような気がする。
「大将。こういうものは『上』にあるからいいんですぜ。『下』に落ちてくるものはダメなんですわ」
「病は気から、というわけか」
「さようで」
ふんふん、と慶次郎はうなずく。
「で、おぬしはどこに住んでいるのじゃ?」
「……山の中腹に。ほら、あそこら辺です。そこで畑を耕してます」
「ずいぶんと高い場所にあるのう。なんで、そんなところに」
「あそこならば、うるさいお役人も来ませんからな。内緒ですぜ」
「なぜ、そこまでわしに話す」
周倉はにやりと笑った。
「お仲間だからですよ」
「お仲間?」
「大将は『侠』でしょう。わかる者にはわかりますよ。どこぞの、名のあるお方では?」
慶次郎は、苦笑した。今の慶次郎は、この国のいわゆる庶民の服を着ている。にもかかわらず、目に見える肌のいたるところには傷が刻まれていた。そのことが、周倉のそうした解釈につながったのかもしれない。街の人々の視線は、そのことも意味していたか。今さらのように思う。
慶次郎はその問いには答えず、とりあえず軽く頭を下げた。
「すまんな」
「へ?なんで大将が謝るんで」
「おぬしが山道の入口ではなく、『ここにいる』理由を教えてくれるのだろう?」
「へっ?」
「あそこまで登るには、滝の後ろに行けば良いのかね」
周倉は目を丸くした。
慶次郎はもう一度言った。
「すまんな」
「大将にはかなわねえよ」
周倉は苦笑いをすると、滝壺の側にある木をアゴで指す。慶次郎は、その木に素早く野風をつないだ。
それを見た周倉は、滝の裏側に向けてゆっくりと歩き出した。