異世界に転生したのに最強スキルじゃなくて書類耐性だけ高かった件
俺が死んだと知ったのは、白くて妙に明るい部屋で、丸メガネの女に書類を差し出された瞬間だった。
「ようこそ、死後受付センターへ」
天使でも女神でもなく、そこにいたのはどう見ても役所勤めの事務員だった。銀色の髪をきっちり後ろでまとめ、白いブラウスに濃紺のベスト、胸元には「ミゼリア」と書かれた名札までついている。背中に羽もなければ頭上に輪っかもない。神々しさよりも、年度末の残業に慣れた人の達観した空気のほうが強い。
「……えっと、死後受付センター?」
「はい」
「俺、死んだの?」
「はい」
「なんで?」
「階段から落ちました」
「地味すぎない?」
俺の抗議を、ミゼリアは眉一つ動かさず受け流した。
「相馬直人、二十三歳。営業職。退勤後、コンビニでプリンを購入。機嫌よく階段を下りながら『今日だけは俺の勝ちだ』などと考えていたため足元への注意が散漫になり、転落。打ちどころが悪く――」
「やめて。人生の最後をナレーションで追い詰めないで」
「事実確認です」
「もっとこう、転生っぽい派手な死因とかないの?」
「ありません。ですが、例外的救済措置として異世界派遣の資格が付与されています」
そう言って彼女が机の上に置いたのは、一枚の契約書だった。
異世界特例派遣契約書。
字面だけで嫌な予感しかしない。
「本来であれば記憶を消去して通常の輪廻に回しますが、現在、辺境異世界ラグナバルトでは慢性的な人材不足が発生しています。そこで、一定条件を満たした死者を補充要員として送る制度が――」
「異世界って転生先じゃなくて派遣先なの?」
「働かざる者、来世を選べず、です」
「言い方が世知辛い」
ミゼリアは淡々と説明を続けた。異世界に行って何らかの功績を上げれば、次の人生で健康、そこそこの財運、花粉症なし、といった実利的な加点が得られるらしい。逆に言えば、頑張らなければ何もない。夢もロマンもへったくれもなかったが、花粉症なしの未来は魅力的だった。
「なお、初期支給品を一つ選べます」
彼女が並べたのは、剣、魔導書、便利袋、翻訳耳飾り、身体強化靴の五つだった。どれも微妙に即戦力っぽく見えて、これといって最強感はない。
「聖剣とか、伝説の武具とか、そういうのは?」
「在庫切れです」
「在庫で管理してるんだ……」
悩んだ末、俺は翻訳耳飾りを選んだ。異世界に飛ばされて言葉が通じず詰むのは嫌だったし、剣はどう考えても使いこなせない。魔導書も難しそうだし、便利袋は名称がふわっとしすぎている。身体強化靴は少し惹かれたが、階段で死んだ人間に足回りを任せるのは危険な気がした。
「では、これにて手続きを完了します」
「待って。最後に一つだけ。ミゼリアさんって、えっと……神様的な?」
「違います。公務です」
「夢がねえなこの死後世界」
「夢を見た結果、階段から落ちたのでは?」
「正論で殴るのやめて!」
次の瞬間、床が消えた。
いや、本当に床が消えた。
俺は情けない悲鳴を上げながら真っ逆さまに落ち、光に包まれ、そのまま地面に顔から突っ込んだ。
死後の転移にしては着地が雑である。
「痛っ……え、痛い……?」
体を起こすと、そこは見渡す限りの草原だった。遠くに石造りの城壁が見え、街道には馬車が行き交っている。空は青く、風は涼しく、鼻を抜ける匂いは土と草とどこか甘い花の匂いだった。意識が妙に鮮明で、夢にしては細部が生々しい。つまりこれは、たぶん本当に異世界なのだろう。
しばらく呆然としていると、通りかかった荷馬車の御者のおっさんが怪訝そうにこちらを見た。
「おい兄ちゃん、そんなところで何してるんだ」
言葉がわかった。翻訳耳飾り、仕事が早い。
「すみません、ここ……どこですか」
「ベルン外縁道だよ。まさか記憶喪失か?」
「だいたいそんな感じで」
「またか」
またか、という返事に軽く衝撃を受けながら、俺は馬車に乗せてもらった。どうやらこの世界では、行き倒れ寸前の若者はそこそこ珍しくないらしい。異世界側の受け入れ体制が思ったより整っていて複雑な気分だった。
都市ベルンは、いかにもファンタジーという街だった。石畳の広場、木骨造りの家々、露店に並ぶ果物や肉の串焼き、腰に剣を差した冒険者風の連中、鐘塔、噴水、酒場。俺が雑誌やゲームで見たことのある「異世界っぽさ」が、手抜きなく詰め込まれている。
「新人なら冒険者組合だな」
御者のおっさんは親切にもそう教えてくれた。職も金も身分証もない俺に、他の選択肢はほとんどない。言われるまま大通りを進み、剣と羽根ペンが交差した看板のかかった大きな建物の前まで来た。
剣だけでなく羽根ペンが描かれているところに、この世界のめんどうくささが滲んでいた。きっと書類仕事が多いのだろう。嫌な予感がしたが、扉を開けた瞬間、その予感は思っていた方向とは別の形で的中した。
「だから私は無銭飲食をしたわけじゃないの! 未来の成功を担保にした先行投資よ!」
「それを無銭飲食と言います!」
受付カウンターの前で、赤茶色のローブを着た少女が受付嬢に食ってかかっていた。年は十七か十八くらい、青黒い髪を肩口で切りそろえ、右目にだけ妙なモノクルをつけている。こちらを振り向いた瞬間、その目がぎらりと光った気がした。
「……見える」
「はい?」
「あなた、今入ってきたあなた。尋常じゃないほど事務処理に適応した顔をしてる」
「どんな顔だよ」
「地味で疲れてて現実を知ってる顔」
「褒められてないよね?」
少女はずいっと距離を詰めてきた。
「私は天才魔導士ユラ。あなた、新人でしょ? よかった、パーティーを組みましょう」
「なんでそうなる」
「見たところ、あなたはまとも」
「初対面で貴重資源扱いしないで」
「この街ではまともな人材はとても貴重なの」
「その時点で街の将来が不安だな」
受付嬢がにっこり微笑んだ。嫌な微笑み方だった。
「ちなみにユラさんは宿代、食費、備品破損代あわせて銀貨八枚の未払いがあります」
「今それ言う!?」
「新しい連帯責任先が来たかと思いましたので」
「組まないから!」
俺が全力で後ずさると、組合の奥のほうで悲鳴が上がった。
「きゃああああっ! ネ、ネズミ! ネズミがいるぅぅぅ!」
振り向くと、全身鎧の女騎士が椅子の上に飛び乗って震えていた。背丈は高く、長い金髪を後ろで結い、腰にはいかにも高級そうな長剣を下げている。威厳だけなら王都の親衛隊でも通りそうな見た目だったが、足元にいるのは親指ほどの灰色のネズミ一匹である。
「いや、踏めば……」
「無理だ! あんな素早くてひげのあるものに近寄れるものか!」
「騎士の台詞じゃないだろ」
「私は護衛騎士レドナ! 大きな敵とは戦える! だが小さいものは怖い!」
「開き直るなよ」
さらにその騒ぎに反応したのか、奥の扉が勢いよく開いた。出てきたのは神官服らしきものをだらしなく着崩し、片手に酒瓶をぶら下げた男だった。年齢は二十代後半くらい。顔立ちは整っているのに、口を開いた瞬間すべて台無しである。
「おっ、新人が来たのか! 景気づけに飲もう! 心配するな、今日はたぶん俺のツケが通る!」
「通るわけないでしょう!」
受付嬢の怒声が飛んだ。
「神官トトルさん、未払いは銀貨十一枚です」
「細かいこと言うなよ、神は寛容だ」
「組合は神ではありません」
「世知辛ぇ~……」
天才魔導士、ネズミに負ける騎士、酒臭い神官。俺はこの三人を順番に見て、それから静かに出口へ向き直った。危険だ。本能が警報を鳴らしている。この世界で最初に関わる相手として、こいつらは明らかにハズレだ。
だが出口にたどり着く前に、受付嬢がするりと依頼書を差し出した。
「新人向けの簡単なお仕事があります。畑を荒らす羽根ウサギ三匹の駆除。報酬は銀貨十五枚」
「羽根ウサギ?」
「飛びます。弱いです。群れると面倒ですが三匹なら問題ありません」
「銀貨十五枚……」
現在の俺の全財産はゼロだ。住む場所もない。食事もない。社会人時代に培った危機管理能力が「安易な話に乗るな」と囁く一方、現実的な生存本能が「まず今日寝る場所を確保しろ」と喚いていた。
「安心して。私の魔法は一撃必殺よ」
「ちなみにどんな魔法?」
「大火球」
「へえ、便利そう」
「半径三十メートルくらい吹き飛ばせる」
「畑が先に死ぬ!」
レドナが胸を張る。
「私の剣は確かだ。たとえ相手が素早くても、普通サイズなら負けん」
「普通サイズなら、って条件の付け方やめて」
「ネズミは普通サイズじゃない。あれは恐怖そのものだ」
「定義がめちゃくちゃだな」
トトルが酒瓶をぶらぶらさせながら割り込んできた。
「回復なら任せろ。たまに狙いがぶれるけど、致命傷でなければなんとかなる」
「致命傷にならない保証が一番ほしいんだけど」
「大丈夫だって。死ぬときはだいたい一瞬だ」
「安心材料ゼロ!」
俺は頭を抱えた。この三人に付き合うのは、自分から事故現場に飛び込むようなものだ。だが銀貨十五枚は大きい。仮に三人が役立たなくても、羽根ウサギが本当に弱いなら、なんとかなるかもしれない。
「……今回だけだぞ」
「本当!?」
「一回だけ。稼いだら解散。借金は自分たちでなんとかしろ」
「やったわ! 臨時まとも枠確保!」
「その呼び方、地味に傷つくからやめてくれ」
こうして俺は、最初の依頼として、畑を荒らす羽根ウサギ三匹の駆除に向かうことになった。
ベルンの西門を出るころには、俺はすでに後悔し始めていた。ユラは鼻歌交じりに杖を振り回し、レドナは遠くの草むらが揺れるたびにびくっと肩を震わせ、トトルは朝から酒を飲んでいる。パーティーというより、引率役の先生が三人分の問題児を連れて校外学習に出たみたいな空気だった。
「羽根ウサギって、具体的にはどんな生き物なの」
「その名の通り、羽が生えたウサギよ」
「雑だな」
「可愛い見た目に騙されてはいけないわ。やつらは気が荒い。畑を食い荒らし、逃げ足が速く、追い詰められると集団で頭突きしてくる」
「それ、意外と危なくない?」
「三匹なら雑魚だ」
「雑魚って言ってる人間に限って大惨事を起こすんだよな」
依頼の畑は街から少し離れた場所にあった。柵にはあちこち穴が開き、大事に育てていたと思しき葉物野菜が無惨に食い荒らされている。畑の持ち主らしい太った農夫が、俺たちを見るなり泣きそうな顔になった。
「頼む! 今朝からもう二列やられたんだ! あの白い悪魔どもをどうにかしてくれ!」
「白い悪魔って言われ方ひどいな」
「侮らないで。羽根ウサギは食欲に関してはまじで悪魔よ」
「食欲に関して限定なのがじわじわくるな」
俺は柵の中に入り、跡を探した。土の上には小さな足跡。ところどころに白い毛。少し先の草むらががさがさ揺れている。
「いた」
俺が指差した先から、ぴょこん、と白い生き物が飛び出した。
可愛かった。
雪玉みたいに丸い体に、長い耳、背中には小さな鳥のような羽。目はつぶらで、口元はもにょもにょと動いている。確かに畑を荒らした犯人には違いないが、初見の印象としては「駆除」より「餌付け」のほうが似合っていた。
「……これを?」
「見た目に騙されるな!」
「でもちょっと可愛くない?」
「可愛さで罪は軽くならないわ」
ユラが杖を構えたので、俺は慌てて止めた。
「待て待て待て! 大火球は禁止だ! 畑が消し飛ぶ!」
「わかってるわよ。それくらいの分別はあるわ」
「本当だろうな」
「今回は小規模な火球でいく」
「それでも火を使うことは決定なのか……」
そのとき、草むらから二匹目、三匹目が飛び出した。三匹そろってこちらを見たあと、なぜか一斉にぴょんと跳ね、ふわりと宙に浮いた。
「飛んだ」
「だから羽根ウサギだって言ったでしょ!」
三匹は低空をすべるように移動し、レドナの顔面めがけて突っ込んだ。
「近い近い近い! 待て、来るな、うわああっ!」
レドナは情けない悲鳴を上げながら剣を振り回した。狙いは悪くない。むしろ普通なら十分鋭い一撃だった。しかし相手は小さくて速い。ウサギたちはひらりとかわし、そのまま彼女の鎧に頭突きをかましていく。金属音が連続して響く。
「地味にうるさい!」
「笑ってないで助けろ、直人! こいつら、足元を狙ってくる!」
「笑ってない、ちょっとだけ呆れてるだけだ!」
トトルが後ろからのんきに声をかけた。
「レドナ、右だ右。いや左か?」
「その適当な指示やめろ!」
俺は咄嗟にそこらの棒を拾い、突っ込んできた一匹を叩き落とそうとした。だが相手はふわっと急上昇し、俺の頭上を飛び越えていく。翻訳耳飾りをしていても、体までファンタジー仕様になったわけではない。普通に速い。普通に危ない。
「ユラ! 小さい魔法とかないのか!」
「あるわよ! あるけど威力調整がちょっと苦手!」
「一番ダメなタイプ!」
その間にも羽根ウサギは畑の葉をもりもり食べている。なんで戦ってる最中にも食事をやめないんだ。危機感がないのか、あるいは危機より食欲が強いのか。たぶん後者だろう。
「くっ……ならこれでどう!」
ユラの杖の先に小さな火球が生まれた。確かに大火球よりずっと小さい。安心しかけた俺の前で、その火球は発射直後に不自然に膨れ上がった。
「全然小さくない!」
「ちょっと手元が狂った!」
「その“ちょっと”で畑が終わる!」
火球は羽根ウサギではなく、その後ろの柵に直撃した。轟音とともに柵が吹き飛び、木片が空高く舞い上がる。農夫が悲鳴を上げた。
「俺の柵ぃぃぃ!」
「ご、ごめんなさい! でもウサギは驚いて……って増えた!?」
「増えた!?」
吹き飛んだ草むらの奥から、ぞろぞろと白い影が顔を出した。三匹だけだと思っていた羽根ウサギが、少なく見積もっても十匹以上いる。どうやら三匹というのは、あくまで「最近よく見かける個体数」であって、総数ではなかったらしい。依頼書の記載の甘さに心の底から文句を言いたくなった。
「話が違うだろ!」
「普段は三匹くらいだったんだよぉ!」
「その“普段”が今じゃないことを先に言ってくれ!」
白い群れは一斉に飛び上がり、こちらへ雪崩れ込んできた。かわいいだけの生き物なら許せたが、数が増えるとただの圧である。しかも頭突きが普通に痛い。
「うおっ、痛っ、こいつら本気で当たりに来てる!」
「だから危険だって言ったでしょ!」
「じゃあもっと危険度を前面に出して説明しろ!」
レドナがとうとう本気になり、剣を横薙ぎに振るった。風を切る一閃が羽根ウサギの群れをかすめ、二匹が悲鳴のような鳴き声を上げて地面に転がる。さすがに騎士だけあって、普通サイズ相手なら頼りになった。
「今だ! 群れを散らすぞ!」
「お、おお!」
俺が棒で追い払い、レドナが剣の腹で弾き、トトルがなぜか空に向かって神聖術を放って一匹だけ奇跡的に気絶させ、ユラがぎりぎり畑を燃やさない範囲で小さな火球をばら撒く。統率はまるでなかったが、やっていること自体は間違っていなかった。少しずつ、群れがばらけていく。
このまま押し切れるかもしれない。そう思った矢先、トトルが妙なことを言い出した。
「なあ、あいつら、酒に弱いかな」
「は?」
「ほら、酒場で酔っぱらったウサギの話、聞いたことあるんだよ」
「そんな民間伝承みたいな話を今試すな!」
しかし神官のくせに行動力だけはある男だった。トトルは懐から小さな酒瓶を取り出し、地面にぶちまけた。甘い匂いがぱっと広がる。
その瞬間、羽根ウサギたちの動きが止まった。
全員の視線が酒の染みた土に集中する。
「あ」
「え」
「まさか」
「本当かよ」
次の瞬間、群れは俺たちへの攻撃を完全にやめ、酒のこぼれた場所へ一直線に突っ込んだ。勢いよく顔を突っ込み、ぺろぺろと地面を舐め始める。
「効いてる……?」
「効いてるわね……」
「本当に酒に気を取られるのか」
「なんだこの生き物」
しかも驚くべきことに、数十秒もすると目に見えてふらつき始めた。一匹がその場でひっくり返り、別の二匹が互いに頭をこつんとぶつけたまま離れなくなる。さらに一匹は意味もなく空へ飛び上がり、くるくる回ってから畑の外に落ちた。
「酔ってる!」
「本当に酔ってる!」
「勝った! 神よ、酒を作ってくれてありがとう!」
「感謝の方向性がおかしい!」
だが形はどうあれ好機だった。俺たちは酔っぱらってへろへろになった羽根ウサギたちを、網と袋と棒を総動員して一気に捕獲した。レドナが足で押さえ、俺が袋をかぶせ、ユラが逃げ道に火の壁を作って追い込み、トトルが「ほら飲め飲め」と残っていた安酒を撒いてさらに酔わせる。めちゃくちゃだ。やっていることは相当めちゃくちゃなのに、なぜかうまくいってしまった。
十分後。
畑の隅には、酒でぐったりした羽根ウサギが山積みになっていた。
「……終わった」
「終わったわね」
「なんかすごく、冒険者として間違った勝ち方をした気がする」
「結果がすべてだ!」
「一番信用ならないやつが一番いいこと言うな」
農夫は涙目で俺たちに駆け寄ってきた。
「ありがとう! 本当に助かった! ただ、柵がなくなったのと、畑の一部が焦げたのと、用水桶がひっくり返ったのと――」
「そこらへんは交渉しよう」
「いや交渉でどうにかなる損害量じゃないわよ」
結局、組合に戻った俺たちは、依頼達成の報酬銀貨十五枚を受け取った。だが同時に、「依頼地設備の毀損に関する暫定補償」として銀貨九枚が差し引かれた。さらにユラの過去の未払い、トトルの酒代、レドナの椅子破損代、なぜか「臨時監督責任者」と見なされた俺の名義の書類まで作られ、気づけば手元に残ったのは銀貨二枚と銅貨数枚だけだった。
「おかしいだろ! 命がけで働いたのに昼飯代くらいしか残ってない!」
「大丈夫、銀貨二枚あれば安宿に一泊できる」
「前向きに言うな!」
「それに、私たちと組めば次でもっと稼げるわ」
「その“次”でさらに借金が増える未来しか見えない!」
受付嬢は書類を整えながら、実に爽やかな笑顔で言った。
「なお、本日の依頼を通じて、皆さんの連携可能性が一定以上あると判断されましたので、仮登録パーティーとして処理しておきました」
「しておきました、じゃないんだよ!」
「異議申し立ては可能です。ただし処理完了まで三十日」
「長い!」
「その間に依頼をこなせば自然に本登録へ移行します」
「勝手に人生のレール敷くな!」
ユラは満面の笑みで俺の肩をばんばん叩いた。
「よかったわね、直人! 私たち、仲間よ!」
「そんな青春っぽいノリで借金共同体を成立させるな!」
「あとで祝杯しましょう!」
「お前は黙ってろ、飲酒神官!」
レドナが少し申し訳なさそうに咳払いした。
「……その、今日の戦いでは助かった。小さい敵をあそこまで冷静に捌けるとは思わなかった」
「褒められてるようで複雑だな」
「お前がいなければ私はたぶん畑の中央で泣いていた」
「素直に弱点を認める騎士、逆に好感が持てるよ」
気づけば、さっきまで厄介者にしか見えなかった三人が、ほんの少しだけ「手のかかる知り合い」くらいの位置に変わっていた。もちろん、だからといって一緒にいたいわけではない。いたくない。心の底からいたくない。だがこういう連中ほど、放っておくと次の日にはもっと大きなトラブルを起こして死にかけていそうで、それを想像すると、なぜか気分が悪かった。
俺はため息をついた。
「……次だけだぞ」
「やった!」
「だが条件がある」
「なによ」
「まず借金の額をちゃんと全部開示しろ。あと依頼は事前に詳細確認する。範囲被害の出る魔法は街中で禁止。トトルは依頼中の飲酒禁止。レドナは小動物対策を考える。いいな?」
「厳しい」
「社会はもっと厳しかったんだよ」
「お前、たまにすごく重いことをさらっと言うな」
そのとき、組合の掲示板の前がざわつき始めた。新しい依頼書が張り出されたらしい。人の波の隙間から、俺はその見出しだけを見てしまった。
西の旧水路にて、巨大軟体魔獣出現。討伐報酬、金貨三枚。
ぞっとした。
巨大。軟体。魔獣。嫌な単語しか並んでいない。しかも直後、レドナが顔を真っ青にした。
「軟体……? ぬめるのか?」
「たぶんぬめるだろ」
「む、無理だ」
「ネズミに続いて新しい弱点を増やすなよ!」
「でも金貨三枚よ?」
「お前は金の前で目が輝きすぎるんだよ」
「酒代が返せる!」
「お前はまず反省を覚えろ!」
三人が好き勝手に騒ぎ出す横で、俺はそっと天井を見上げた。ミゼリアの無表情な顔が脳裏に浮かぶ。あの女、絶対にこうなるとわかっていて俺をここに送っただろう。
健康、そこそこの財運、花粉症なし。その来世のために、俺はこれから何回こういう災難に巻き込まれればいいのか。
だが、ふと気づけば口元が少しだけゆるんでいた。理不尽で、騒がしくて、収支はまったく割に合わない。それでも、会社と家の往復だけだった前の人生より、いくらか色が濃い。少なくとも、退屈している暇だけはなさそうだった。
「……先に言っとくけど、巨大軟体は絶対に俺が前衛じゃないからな」
「じゃあ誰がやるのよ」
「騎士がやれ!」
「ぬめるんだろう!?」
「神官、浄化とかないのか!」
「酔ってなければたぶんある!」
「じゃあ飲むな!」
怒鳴り声と笑い声が入り混じる組合の喧噪の中で、俺は半ば諦め、半ば観念しながら、どうしようもない仲間たちの背中を見た。
異世界に来て最初に得たものが剣でも魔法でもなく、借金持ち三人との腐れ縁だというのは、どうにも締まらない話だ。けれどたぶん、こういう締まらなさこそが、これからの俺の人生――いや、第二の人生というやつなのだろう。
勇者にはなれそうにない。英雄もたぶん無理だ。だがせめて、請求書に殺されない程度には、うまくやっていきたい。
そう思った矢先、受付嬢の声が飛んできた。
「直人さん、さっそく仮登録パーティー用の共同債務確認書に署名をお願いします」
「やっぱりこの世界、最初に戦うべき相手は書類じゃねえか!」
「直人さん、さっそく仮登録パーティー用の共同債務確認書に署名をお願いします」
「やっぱりこの世界、最初に戦うべき相手は書類じゃねえか!」
俺の叫びは、冒険者組合のにぎやかなざわめきの中に、むなしく溶けていった。
受付嬢が差し出してきた書類は三枚あった。一枚目が仮登録パーティーの申請書、二枚目が共同債務確認書、三枚目が「依頼遂行中に発生した軽微な建造物・耕作物への損害に関する連帯補償同意書」である。軽微という言葉の定義について一時間ほど問い詰めたかったが、俺には泊まる場所と今夜の食費が先に必要だった。
「ほら、ここに名前を書けばいいだけよ」
「“いいだけ”の紙に限って人生を詰ませるんだよ」
「字、きれいね」
「営業はサインする機会が多いんだよ……」
俺が渋々署名を終えると、受付嬢は満足そうに頷き、組合印を押した。
「これで皆さんは正式に、仮登録パーティー《帳尻合わせ》となりました」
「なんで名前まで勝手に決まってるんだ」
「本日の行動実績から判断しました」
「誰がうまいこと言えと」
ユラが腹を抱えて笑い、トトルは「いいじゃねえか、縁起がいい」と言って酒をあおろうとして俺に止められ、レドナは「帳尻、というのはよくわからんが、勢いはある」と真顔で頷いていた。勢いで済ませていい話ではない。
そのとき、組合の掲示板の前で一段と大きなざわめきが起きた。新しい依頼書が貼り出されたのだろう。人の波の隙間から見えた文字を読んだ瞬間、俺は嫌な予感で胃が縮んだ。
西の旧水路にて、巨大軟体魔獣出現。討伐報酬、金貨三枚。
金貨三枚。銀貨三十枚相当だ。この世界に来たばかりの俺でも、それが相当大きな報酬だとわかった。つまり、それだけ危険なのだ。
「金貨三枚よ!」
案の定、ユラが目を輝かせた。
「巨大って書いてあるぞ」
「大きいならむしろ当てやすいわ」
「軟体、というのが気になる」
レドナが青ざめた顔で言った。
「ぬめっている可能性が高い」
「おい待て、ネズミと虫だけじゃなかったのか」
「……ぬめるものも少し苦手だ」
「弱点の増え方が止まらないなこの騎士!」
「酒でなんとかならねえかな」
トトルが呟く。
「なんでお前はすべてを酒で解決しようとするんだ」
「今のところ羽根ウサギには通用しただろ」
「成功体験が極端なんだよ」
周囲の冒険者たちは依頼書を見てひそひそ話していたが、前に出ようとする者はいない。金貨三枚は魅力的だが、旧水路は狭く暗く、複数人で囲むのに向かない地形らしい。しかも相手は軟体。剣が通るとも限らない。厄介な条件が重なりすぎている。
俺は掲示板を見上げたまま、浅く息を吐いた。
「受ける気か?」
レドナが横目で聞いてきた。
「正直言うと、受けたくない」
「珍しく意見が一致したな」
「でも金貨三枚あれば」
俺は指を折った。
「お前らの未払いの大半が片付く。俺もまともな宿に数日は泊まれる。備品も買える。つまり、今後を考えるなら一発ほしい額ではある」
「さすが臨時まとも枠、計算が早いわ」
「その呼び方をやめろ!」
ユラは依頼書を見て腕を組んだ。
「私の火力があれば、巨大な相手でもどうにかなると思う」
「旧水路って地下だろ。爆発で天井崩れたらどうする」
「それは……勢いで避ける」
「勢いで避けられないものが崩落なんだよ」
トトルが口の端を上げた。
「じゃあ作戦を立てりゃいい。珍しく、まともな作戦をな」
「お前の口からその台詞が出るの、ちょっと感動した」
「酒は人を成長させる」
「説得力が地面に落ちてるぞ」
俺は少し考えてから、受付嬢に向き直った。
「この依頼、詳細資料はあるか」
「あります」
「地図、目撃情報、被害内容、過去の発生時刻、全部見せてくれ」
「珍しいですね。新人でそこまで確認する方は」
「新人だから確認するんだよ。死ぬ確率が少しでも下がるなら、書類はむしろ味方だ」
受付嬢は少しだけ驚いた顔をして、それから奥へ引っ込んだ。戻ってきた彼女が持ってきたのは、適当なメモではなく、きちんと綴じられた薄い調査資料だった。
俺は立ったまま、それをめくる。
旧水路は十年前まで使われていた地下の排水路で、都市拡張に伴って閉鎖されたらしい。最近になって周辺で家畜が行方不明になり、夜になると西区で異臭と水漏れが起きるようになった。二日前に見回りの下級兵が遭遇し、槍が半ばまで溶かされて逃げ帰った。目撃証言では、相手は「半透明で巨大、触手のようなものがあり、ぬめる」。嫌な情報ばかりだ。
だが、一つだけ引っかかる記述があった。
「……酒場街の裏手?」
「どうした?」
レドナが覗き込む。
「旧水路の上の区画、酒場街に近い。しかも最近、異臭が強くなったのは新しい酒樽工房ができたあとだ」
「つまり?」
ユラが首をかしげる。
「断言はできないけど、その魔獣、酒絡みの排水に引き寄せられてるかもしれない」
「また酒かよ」
レドナが露骨に嫌そうな顔をした。
「酔っぱらいの神の加護を感じるな」
トトルが得意げに胸を張る。
「感じたくなかったよそんな加護!」
だが仮説としては悪くなかった。羽根ウサギの件で得たものは、こいつらがろくでもなくても、ろくでもないなりに使い道があるという事実だ。トトルの酒。ユラの火力。レドナの剣。問題は、それを事故なく運用できるかどうかに尽きる。
「依頼、受けます」
俺は受付嬢に言った。
「受理します。ただし、危険度は高です。途中撤退も認められますが、先行金はありません」
「わかってる」
「それと」
受付嬢が真顔になった。
「旧水路内部の破損については、原則として依頼時点で老朽化が進んでいるため責任を問いません。ただし、故意または明白な過剰火力の使用が認められた場合は別です」
「聞いたかユラ」
「そんな目で見ないで。私だって反省はするのよ」
「“する”じゃなくて“活かす”までやれ」
準備に半日かかった。
古地図を写し取り、水路の入口を確認し、近くの酒場で最近の異変を聞き込み、ついでに安物の蒸留酒を樽ごと二つ確保する。レドナには油をはじく布と分厚い手袋を用意させ、ユラには「通路封鎖用の小火球だけ」という条件で魔力配分を何度も確認させた。トトルには本気で一番難しい役目を与えた。
「依頼中、飲酒禁止」
「それ、俺だけ難易度おかしくない?」
「お前が一番ぶれるからだよ」
「神官への信頼が薄い」
「積み重ねだ」
日が傾くころ、俺たちは西区の裏路地に立っていた。古びた格子扉の向こう、地下へ続く石段から、冷たく湿った空気が流れてくる。鼻をつくのは水の腐臭だけではない。酸っぱいような、甘いような、発酵した何かの匂いが混ざっていた。
「本当に酒くさいわね」
ユラが鼻をつまむ。
「嫌な予感しかしない」
レドナが剣の柄を握る。
「俺はちょっと元気出てきた」
トトルが前のめりになる。
「お前は元気出なくていい」
石段を下りるたび、外の明かりが遠ざかっていく。水路は人が二人並べるくらいの幅で、天井は高くない。両側にぬめった石壁、中央に黒っぽい水が細く流れている。ところどころ、昔の木樽や壊れた荷車の残骸が流れ込んでいた。
俺たちはランタンを灯し、慎重に進んだ。
足音がやけに響く。滴る水の音が、やたら近くに聞こえる。こういう閉所は、想像以上にそれだけで神経を削る。しかも、少し進むごとにトトルが「ここ、酒場の地下かな」とか「この匂い、麦系だな」とか余計なことを言うので、緊張感が薄れるような高まるような複雑な気分になった。
二つ目の分岐を曲がった先で、それはいた。
巨大だった。
正確には、最初は巨大な水たまりに見えた。だがランタンの光が揺れた瞬間、それがゆっくりと持ち上がった。半透明の灰色。樽ほどの太さの触手が何本も伸び、中心には濁った核のようなものがぼんやり浮いている。壁や天井に貼りついた粘液が糸を引き、床に落ちたねずみの骨らしきものが溶けていた。
「……うわ」
思わず声が漏れた。
レドナの顔色が一気に悪くなる。
「ぬめるどころの話ではないなこれ!?」
「魔獣名、わかったわ」
ユラが資料をめくる。
「ええと、濁酒喰いの泥濁」
「名前からして酒大好きじゃねえか!」
触手が一本、ずるりとこちらへ伸びた。石床を這う音が生々しい。
「配置!」
俺は叫んだ。
「レドナ前、でも踏み込みすぎるな! ユラは後方で出口側を見ろ、逃げ道は確保! トトル、浄化の準備! 酒はまだ撒くな!」
「了解!」
「わかった!」
「はいよ!」
レドナが歯を食いしばって前へ出る。嫌悪感で肩がこわばっているのがわかったが、それでも剣は下がらない。そこはやはり騎士なのだろう。触手が振り下ろされ、彼女は一歩横に流れて斬り上げた。
手応えはあった。だが、切れたはずの触手は床に落ちたあと、じゅうっと音を立てて縮み、また本体へ這い戻っていく。
「再生する!」
「最悪だな!」
ユラが火球を構えた。
「焼けば――」
「待て! 核を見ろ!」
俺はランタンを高く上げた。
本体の中央、濁った塊の中心に、色の違う部分がある。泥色の中にひとつだけ、赤黒い何かが脈打っていた。恐らくあれが弱点だ。だが普通に近づけば触手に捕まるし、通路が狭くて周りを回り込めない。
「トトル、酒だ! 右奥に撒け!」
「もったいねえ!」
「お前が言うな、急げ!」
トトルはしぶしぶ樽の栓を抜き、右奥の壁際へ酒をぶちまけた。途端に、魔獣の触手がぴたりと止まる。
次の瞬間、ずるり、と本体がそちらへ寄った。
「やっぱり反応した!」
「酒に釣られてる!」
「なんて情けない魔獣だ!」
「今だ、レドナ! 核を狙え!」
「ぬうううっ!」
レドナが床を蹴る。ぬめりを避けるため、用意していた油弾きの布を足に巻いたのが効いたらしい。一瞬だけ恐怖を押し殺し、彼女は魔獣の懐へ飛び込んだ。長剣がまっすぐ核へ伸びる。
しかし寸前で、別の触手が横から叩きつけてきた。
「くっ!」
剣筋が逸れ、核の外側をかすめるだけに終わる。魔獣が低く震え、通路全体が粘液で波打った。
「まずい、来るぞ!」
俺が叫んだ直後、濁酒喰いの泥濁は本体そのものを前へ押し出してきた。
壁一杯に広がる巨大な泥の塊が、狭い水路を塞ぎながら迫ってくる。逃げ道を失えば、そのまま押し潰されて溶かされる。俺たちは一斉に後退した。
「ユラ!」
「わかってる!」
彼女の火球が左壁に着弾し、崩落ではなく、熱で石片と泥を焼いて即席の障害物を作る。通路の半分ほどが埋まり、魔獣の進行が一瞬止まる。
「すごいじゃないか!」
「当然でしょ、私は天才よ!」
「それを畑でやれ!」
だがその間にも、後ろから酸っぱい匂いが濃くなる。小さな泥塊が分裂し、俺たちの足元へ回り込んできたのだ。こいつ、本体だけ見ていていい相手じゃない。
「トトル、浄化! 小さいほうを!」
「よし来た!」
トトルが珍しく真面目な顔で両手を広げた。青白い光が広がり、足元の泥塊がぶすぶすと煙を上げる。完全に消し飛ばしはしないが、明らかに動きが鈍った。
「効いてる!」
「酒にまみれた不浄には強いんだよ、俺」
「初めて神官っぽいこと言ったな!」
だが本体は止まらない。レドナが再び踏み込もうとしたとき、触手の一本が彼女の剣に絡みついた。ぬめりで柄が滑る。
「うっ……!」
「手を放すな!」
「わかっている!」
俺は咄嗟に近くの酒樽を持ち上げた。重い。腕が悲鳴を上げる。でもほかにない。
「ユラ! 核の近く、見えるか!」
「なんとか!」
「言った場所に火を置け! 爆発じゃなく、熱だけ!」
「注文が細かい!」
「社会人の修正依頼はもっと細かい!」
「今その恨みで戦ってるの!?」
ユラが杖を突き出す。細い炎の矢が、核のすぐ上の天井に突き刺さった。石が赤く熱せられ、滴る泥がじゅっと蒸発する。その一瞬、核の周囲の膜が薄くなった。
「今だああっ!」
俺は酒樽を振りかぶり、本体の横へ叩きつけた。樽が割れ、強い酒臭が一気に広がる。濁酒喰いの泥濁は、まるで本能に逆らえないように体をねじった。触手がレドナの剣を手放し、濁った核がむき出しになる。
「もらった!」
レドナの長剣が、今度こそまっすぐ核を貫いた。
硬いものを砕く音がした。
次の瞬間、濁酒喰いの泥濁は、身を震わせながら通路中に泥を撒き散らし、断末魔のような濁った泡音を立てた。俺たちは顔を覆って飛びのく。粘液の雨が降り、ランタンの光が鈍く揺れた。やがて、巨体はみるみる萎み、ただの黒い泥となって床へ崩れ落ちる。
静寂が戻った。
最初に口を開いたのは、トトルだった。
「……勝った?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困る!」
俺が泥を棒でつつくが、もう動かない。レドナがゆっくり剣を引き抜くと、先端に赤黒い結晶片が刺さっていた。ユラがそれを見て頷く。
「核の破壊で間違いないわ」
「本当に終わったんだな……」
どっと疲れが押し寄せた。足が笑っている。手のひらは酒樽を振り回したせいでじんじん痛い。レドナは壁に手をついて呼吸を整え、ユラはローブの裾で額の汗を拭い、トトルはこっそり残りの酒瓶を取り出そうとして俺に睨まれて引っ込めた。
「でも、これで金貨三枚か」
ユラが目を輝かせる。
「割には合ったかも」
「いや、結構ぎりぎり死にかけたぞ」
「毎日これくらいなら楽勝ね」
「毎日にするな!」
そのときだった。
通路の奥から、ぼこり、と嫌な音がした。
全員が固まる。
泥の山が、もう一度わずかにふくらんだのだ。
「……嘘でしょ」
ユラが引きつった声を漏らす。
崩れ落ちた泥の中から、親指ほどの小さな球体がいくつも転がり出てくる。それぞれがぷるぷると震えながら、少しずつ形を整え始める。核を一つ壊しても、残滓が分裂して増えるタイプらしい。最悪である。
「増えるのかよ!」
「気持ち悪い! もう帰りたい!」
レドナが半泣きになる。
「落ち着け! 小さいなら浄化でいける!」
俺はトトルを見る。
だがトトルは、珍しく難しい顔をしていた。
「……数が多い。まとめてやるなら、もっと大きい術式が要る」
「できるのか?」
「できる。けど、時間をくれ。あと俺、今、ちょっとだけ頭が冴えすぎてて怖い」
「それたぶん禁酒の副作用だろ!」
「なら時間を稼ぐしかない」
俺はランタンを高く掲げた。
「ユラ、通路を焼いて壁を作れ。レドナ、絶対に抜かれるな。俺は酒を撒いて誘導する」
「また酒!?」
「こいつら酒好きなんだろ!」
「この街の問題、だいたい酒じゃない!?」
「否定できねえ!」
そこからの数分は、完全に泥との消耗戦だった。
小型の泥濁は、一体一体なら怖くない。だが数が多く、しかもぬめる。靴にまとわりつき、壁を伝い、天井からぽたりと落ちてくる。ユラが狭い通路に細い火線を引き、俺が酒を撒いてそちらへ誘導し、レドナが歯を食いしばりながら剣の腹で叩き落とす。斬るというより、押し込む戦いだった。
「まだかトトル!」
「待て、今、神と回線をつないでる!」
「もっと普段からつないどけ!」
泥の一塊が俺の腕に飛びついた。焼けるような痛み。思わず息が詰まる。
「直人!」
ユラが火線でそれを弾く。
「熱っ!」
「どっちがいいのよ!」
「どっちも嫌だけど今は助かった!」
レドナの手袋が粘液でべたべたになり、それでも彼女は一歩も引かなかった。さっきまでぬめるものを見て青ざめていた女が、今は一番前で通路を塞いでいる。そういうところが、たぶん騎士なのだ。
「来るぞ! 下がれ!」
トトルの声が響いた。
振り返ると、彼は両手を広げ、いつになく真剣な顔で祈っていた。酒臭い神官ではなく、ちゃんと神官の顔だった。足元から円形の淡い光が広がり、壁に、天井に、床に、複雑な紋様を描いていく。
「清まれ、濁りよ。満ちよ、水よ。酔いは夢に沈め」
次の瞬間、白い奔流が旧水路を満たした。
水そのものが光になったみたいだった。
押し寄せた清浄の波が泥濁の群れを呑み込み、じゅわっと音を立てて溶かしていく。ぬめりが一斉に蒸発し、腐臭が薄れ、濁っていた流れが一瞬だけ澄んだ。俺たちは壁際にしがみつきながら、その眩しさに目を細める。
やがて光が引いたとき、水路に残っていたのは、ただの黒い泥と、へたり込む神官だけだった。
「……終わった」
トトルが呟く。
「今度こそ」
今度は誰も疑わなかった。
俺たちはしばらく、そのままその場に座り込んでいた。息が整うまで、誰もろくに喋れなかった。ようやく立ち上がったとき、ユラがぽつりと言った。
「ねえ、ちょっとだけ見直した」
「誰を?」
「全員」
「全員かよ」
「特にトトル」
レドナが真顔で頷く。
「今日のお前は神官らしかった」
「“らしかった”ってなんだよ。俺は普段から神官だ」
「普段は酒場の守護霊だろ」
「ひどい言いよう!」
俺は泥まみれの服を見下ろしてから、笑ってしまった。
なんだかんだで、この三人はやるときはやる。問題は、その“やるとき”までの道のりが長くて騒がしくて費用対効果が最悪なだけだ。
地上へ戻ると、夜気がやけにおいしく感じた。酒場街の灯りが遠くで揺れ、人通りはまだ多い。旧水路の入口から這い出てきた俺たちを見て、見張りの兵士がぎょっと目を見開いた。
「お、おい! 生きてるのか!?」
「なんとか」
「討伐は!?」
「終わった。たぶんもう湧かない」
「たぶん言うな、たぶん!」
翌朝、組合はちょっとした騒ぎになった。
濁酒喰いの泥濁の核片と、兵士の確認報告、旧水路の浄化状態。この三つがそろって、依頼達成は正式に認められた。掲示板の前には人だかりができ、昨日まで「新人にしては妙に運が悪そうな奴」としか見られていなかった俺たちは、なぜか「でかい依頼を片付けた新顔」として注目され始めていた。
ただし、そこで終わらないのがこの世界の面倒くさいところである。
「では、報酬金貨三枚を――」
受付嬢がそう言いかけたところで、別の職員が駆け寄ってきた。
「西区水路管理局から照会です! 旧水路内の通行規制解除に伴い、点検および補修費の一部負担を――」
「待て」
俺は即座に手を上げた。
「依頼資料の注意書きには、老朽化部分の破損は原則免責とある。故意または明白な過剰火力使用に限るって書いてあった。俺、控え取ってる」
組合の空気が一瞬だけ止まる。
受付嬢がゆっくり瞬きをした。
「……控えを?」
「写した」
「新人なのに?」
「新人だからだよ」
営業時代、口頭説明だけで契約内容をひっくり返されかけたことが何度あったと思ってる。痛い目を見た人間は、こういうところで妙に強い。
俺は昨日写した注意事項の控えを広げ、さらに兵士の報告書の「大規模崩落なし」の一文を示した。そのうえで、旧水路の閉鎖前からあった亀裂と、魔獣の酸による損傷の可能性を指摘する。ついでに「討伐が遅れれば酒場街地上への漏出被害で、むしろ管理局側の損失が拡大していた」と淡々と押し込んだ。
受付嬢はしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついた。
「……交渉慣れしてますね」
「会社員をなめるな」
結果、補修費の負担はゼロになった。代わりに、旧水路の危険箇所報告と簡易地図作成への協力名目で、銅貨数十枚の追加報酬までついた。ユラが口を開けて俺を見、トトルが感動したように肩を叩き、レドナが心底真面目な顔で言った。
「直人、お前は剣より書類のほうが強いな」
「俺も今そう思ってるよ」
報酬金貨三枚が、ついに俺たちの前に置かれた。
重い。小さいのに、妙に現実感のある重さだった。
俺たちは組合の隅の丸机を借り、人生で初めて異世界の金貨を囲んで会議をした。会議というか、主に俺が三人に説教をしながら使い道を決めた。
「まず未払いを返す」
「ええ~」
ユラが露骨に不満そうな声を出す。
「ええ~、じゃない。借金を抱えたまま散財するのは最悪だ」
「少しくらい祝杯代を」
「ダメ」
「神官の祈りへの対価として」
「ダメ」
「新しい杖の飾りを」
「ダメ」
「防水仕様の手袋を」
「それはいる」
結局、ユラの未払い、トトルの酒代の一部、レドナの装備修繕費、そして俺の宿代と最低限の旅支度を払い、それでも金貨一枚と銀貨数枚が残った。昨日まで銅貨を数えていた身からすると、十分すぎる進歩だ。
組合を出るころには、空は茜色に染まっていた。
西区の端の安酒場が、今日は珍しくまともな料理を出しているらしいという話を聞いて、俺たちはそこでささやかな食事をとることにした。ささやか、といっても、俺にとっては異世界で初めてのまともな夕食だ。肉の煮込み、硬いけどうまいパン、焼いた芋、薄いけど温かいスープ。
席についたあと、トトルが神妙な顔で言った。
「俺、今日のところは控える」
「何を」
「酒」
「明日は槍でも降るのか?」
「そんなに信用ねえのかよ」
でも本当に、トトルはその日は最後まで水しか飲まなかった。ユラはユラで、料理が来るたびに「えっ、これ、払っていいの?」と貧乏くさい感動を見せ、レドナは最初こそ鎧のまま硬かったが、煮込みを一口食べたあと少しだけ表情をゆるめた。
「……うまいな」
「だろ」
「俺たちの稼ぎで食べる飯だ」
「稼ぎの中に俺の書類交渉分も含めろよ」
「もちろんよ、臨時まとも枠」
「まだ言うのか」
笑い声がこぼれる。
そのとき、不意に俺は、自分がちゃんと笑っていることに気づいた。
前の世界で笑わなかったわけじゃない。でも、あっちの笑いはだいたい愛想か疲れ隠しだった。上司の冗談、取引先への相槌、飲み会での空気合わせ。今の笑いは、もっと単純で、もっとくだらなくて、だからこそ少しだけ軽かった。
「なあ」
トトルが言う。
「確認なんだけどよ」
「何だ」
「お前、これからも一緒にやる気あるか?」
「また随分急だな」
レドナとユラも、何も言わずにこちらを見た。
たぶん、この数日で俺は、思っていた以上にこの三人に必要とされていたのだろう。戦力としてというより、止め役として。書類の読み役として。損害を最小限にする、被害担当艦として。
正直に言えば、迷った。
こいつらと組めば、確実に苦労は増える。借金もトラブルも無駄な叫び声も増える。まともな人生からはさらに遠ざかるだろう。
でも、ひとりでやっていける自信があるかと問われれば、それも怪しい。異世界で生きる方法も、金の回し方も、戦い方も、まだ何一つ知らない。だったら、少なくとも一度背中を預けて生き残った相手と進むほうが、まだましだ。
俺はスープを飲み干してから、肩をすくめた。
「……条件付きだ」
「条件?」
ユラが身を乗り出す。
「依頼前に必ず内容確認。依頼中の飲酒は禁止。爆発は街中と地下で原則禁止。借金は新しく増やさない。問題が起きたらまず報告。勝手に判断して突っ込まない。以上」
「多い!」
「当然だ」
「でも」
レドナがゆっくり言った。
「それでお前がいてくれるなら、守る」
トトルも頷いた。
「酒以外はな」
「全部守れ!」
ユラは少し考えてから、ふっと笑った。
「いいわ。約束する。……たぶん」
「最後が信用ならねえな!」
俺たちはその夜、初めてちゃんと乾杯をした。トトルだけ水で、俺も薄い麦茶みたいな飲み物で、ユラは果実酒少量、レドナは温めたミルクだった。統一感はない。でも妙に、俺たちらしかった。
「じゃあ、えーと」
俺が杯を持ち上げる。
「借金が減ったことと、まだ死んでないことに」
「花がないわね」
ユラが笑う。
「十分だ」
レドナが言う。
「生きてりゃ飲める」
トトルが言った。
「それはお前だけだろ」
杯が触れあう、小さな音がした。
それからの日々は、相変わらず騒がしかった。
朝起きたらトトルが祈祷料の代わりに古びたチーズをもらってきていて、ユラがそれを高級食材だと信じて大騒ぎし、レドナが市場で迷子になった子どもに泣かれて二時間ほど足止めを食らい、俺は俺で組合帳簿の誤記を見つけて受付嬢に「向いてますね」と薄く笑われた。
冒険者として華やかな活躍をしたかといえば、たぶんそうでもない。勇者や英雄のような話にはならなかった。巨大なドラゴンを倒したわけでも、王に仕えたわけでもない。俺たちが相手にしたのは、畑を荒らす羽根ウサギだったり、酒で釣れる泥の魔獣だったり、夜道で暴れる酔っぱらいの傭兵だったり、町外れで荷車をひっくり返しただけの角山羊だったりする。
でも、そのひとつひとつで、誰かの困りごとはちゃんと減った。畑は守られ、水路は澄み、子どもは親のもとへ帰り、酒場のおやじは泣きながらも無事なテーブルを数えることができた。大きな物語ではないかもしれないが、生活というのは、たいていそういう小さなことでできている。
俺はたぶん、前の世界ではそのことを少し忘れていた。
ある日、組合からの帰り道、夕暮れの広場でふと足を止めた。噴水の縁に腰かけ、荷物の中をごそごそと探ると、見覚えのない薄い白封筒が出てきた。いつ入っていたのかもわからない。封には差出人もなく、ただきれいな文字で俺の名前だけが書かれている。
嫌な予感がした。
開けると、短い紙が一枚だけ入っていた。
順調に功績が加算されています。なお、現世での生存継続が前提条件です。書類の保管を怠らないように。
──死後受付センター ミゼリア
「やっぱり見てやがる……」
俺は空を見上げた。もちろん、白い部屋も銀髪の事務員も、どこにもいない。いたら文句の一つでも言ってやろうと思ったのに、こういうときに限って姿を見せないあたり、本当に性格が悪い。
「どうしたの?」
ユラが後ろから覗き込もうとする。
「いや、仕事の連絡みたいなものだ」
「直人にも上司がいるの?」
「死んだあとまでいるとは思わなかったよ」
レドナが首を傾げ、トトルは「大変だなあ」と他人事のように頷いた。
俺は手紙をたたみ、懐へしまった。
健康、そこそこの財運、花粉症なし。最初はそのためだけに、この世界で生きることを選んだ。今も、その条件が魅力的であることに変わりはない。でも、それだけじゃなくなったのも事実だった。
たとえ来世のためでも、今ここにいるのは、俺だ。
このうるさい魔導士も、情けない神官も、妙に律儀な騎士も、全部ひっくるめて、今の俺の人生になっている。
「なあ直人」
トトルが言った。
「明日の依頼なんだけど」
「嫌な前振りだな」
「報酬は銀貨十枚。内容は、北門近くの倉庫に出る小型魔獣の駆除」
「普通だな」
「ただし、見た目はちょっとだけ虫っぽいらしい」
「却下だ!」
レドナが即答した。
「じゃあ南の井戸掃除は?」
「水底に何かぬめるものがいそうね」
ユラが顔をしかめる。
「酒場の護衛」
「それは半分お前のためだろ」
俺がトトルを睨む。
「……じゃあ、組合の帳簿整理の手伝い」
とユラが最後に言った。
俺は思わず足を止めた。
「報酬は?」
「銀貨五枚」
「受ける」
「即答!?」
「得意分野だ」
三人が一斉に笑った。
夕焼けの中で、その笑い声が妙に高く響く。俺はわざとらしくため息をつきながら、でも結局、少しだけ笑ってしまった。
勇者にはなれそうにない。英雄もたぶん無理だ。剣の腕は並以下、魔法は使えず、神の加護もよくわからない。だがその代わりに、俺には書類が読めて、損害を減らして、どうしようもない連中をなんとか現実に引き戻す力があるらしい。
それは派手じゃない。語り継がれるような才能でもない。
けれど、案外悪くない。
異世界に来て最初に手にしたのが、聖剣でも魔導書でもなく、共同債務確認書だったとしても。最初の仲間が、借金持ちで問題児ぞろいだったとしても。毎度毎度、請求書に怯えながら依頼を受ける羽目になったとしても。
それでもたぶん、俺はここで生きていける。
生きて、稼いで、返して、笑って、また少し面倒ごとに巻き込まれる。
そうやって気づけば、前よりずっとちゃんと、自分の足で進めている気がした。
「ほら行くわよ、臨時まとも枠」
「だからその呼び方は――」
否定の言葉は、最後まで言えなかった。
先を歩く三人の背中が、夕陽の中で妙に楽しそうだったからだ。
俺は肩をすくめ、荷物を持ち直し、そのあとを追った。
請求書は相変わらず怖い。借金はできれば二度とごめんだ。だが少なくとも、今の俺はもう、階段ひとつで終わるような人生を生きてはいない。
転んでも、たぶん今度は、誰かが笑いながら引っ張り起こしてくれる。
だったらまあ、これも悪くない第二の人生だ。




