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昨日だけのことではなく

翌朝から、学院の中の空気が少し変わって見えた。


変わったというより、たぶん昨日までは見えていなかっただけなのだと思う。

廊下を行き交う使用人の足がやけに忙しないこととか、立ち話をしている生徒たちの声が、近くを誰かが通ると一段だけ低くなることとか。そういう細かいものが、急に目につくようになった。


見なければよかった、と少し思う。

でも一度見えてしまったものは、たぶん元には戻らない。


「……別に、気にしてるわけじゃない」


自分に言い聞かせるように呟くと、隣を歩いていたシオンが間を置かずに返した。


「そういう言い方をなさる時は、だいたい気にしています」

「腹立つな」

「ええ、存じています」


存じています、で済ませるな。

本当にこの人は、言い返しやすいのか言い返しにくいのか、いまだによくわからない。


昨日のことが頭に残っているのは事実だった。

リリアの「そのように言われたのは、初めてです」という声も、少し笑った時のやわらかい顔も、思い出すと妙に落ち着かない。


別に、何か特別なことがあったわけじゃない。

落ちた書類を拾って、少し話しただけだ。


そう、自分で思っているわりに、引っかかりが妙に長い。


「今日は拾わないでください」


前を向いたまま、シオンが言う。


「昨日はたまたまだろ」

「あなたの場合、たまたまが継続するんです」

「嫌な言い方するな」

「事実ですので」

「便利だな、その台詞」

「重宝しております」


まったく悪びれない。

こういう会話にも慣れてきたのが、地味に嫌だった。


そのまま回廊を曲がったところで、シオンが立ち止まる。


「私はこの先で少し用があります」

「ひとりにするのかよ」

「少しの間だけです」

「その“少し”も信用ならないんだけど」

「では、信用なさらなくて結構です。ここで待っていてください」

「感じ悪いな」

「よく言われます」


言い残して、シオンはさっさと廊下の向こうへ消えた。


残されたノアは、深くため息をついて壁にもたれる。

待っていろと言われても、ぼんやり立っているしかない。学院の中で一人で歩き回るな、というのは一応守るつもりではいた。


そのつもり、だった。


回廊の向こうから、抑えた話し声が聞こえてくるまでは。


最初は気にしないでおこうと思った。

どうせまた、自分とは関係ない学院内の話だ。聞こえてきただけの会話にいちいち反応していたらきりがない。


でも、その中に混じったひとつの言葉に、足が止まった。


「ローゼンベルク様」


聞かなかったことにすればいい。

そう思ったのに、体の方が勝手にそちらへ向く。


角を挟んだ先、少し開けた回廊の脇で、若い侍女が二人、籠を抱えたまま立ち話をしていた。

大声ではない。けれど、困ったことを困ったまま抱えている人特有の、押し殺した硬さが声にある。


「急にお側を離れろと言われても……」

「まだ決まったわけではないのでしょう」

「でも、あちらではもう、そのつもりで動いていると」

「そんな……」


ノアは壁際で足を止めたまま、息をひそめる。


聞く気はなかった。

本当に、最初は。


でも、婚約だとか、配置換えだとか、そういう単語が聞こえてくるたびに、昨日の中庭での会話が勝手につながっていく。


「今のうちに整える、ですって」

「お嬢様のお気持ちは、どうなるのでしょう」

「お気持ちより先に、屋敷の形を変えるつもりなのよ。そんなの……」


声が小さくなる。

でも、それで十分だった。


ほんとに動いてるのか、あれ。


昨日のやり取りは、まだ言葉の段階だと思っていた。

セドリックが気味の悪い正しさを振りかざして、リリアが静かに抵抗している、その場だけの話だと、どこかで思っていたのかもしれない。


違った。


もう実際に、人を動かし始めている。

誰が残って、誰が離されるか、そういう話にちゃんとなっている。


「困る人、ちゃんといるじゃないか」


ほとんど息だけで呟いたつもりだった。

でも、すぐ目の前で誰かの籠が小さく揺れた。


しまった、と思った時にはもう遅い。


侍女の一人がこちらを振り向く。

ぱちりと目が合って、数秒お互いに止まる。


気まずい。かなり。


「あの」


とっさに出たのは、意味の薄い一言だった。

何だその入り方。自分でも思う。


若い侍女は明らかに戸惑った顔で、抱えていた籠を持ち直した。


「ノア様……」

「いや、その、別に立ち聞きするつもりでは」

「え、ええ……」


完全に立ち聞きである。

言い訳として最低だ。


もう一人の侍女が慌てて会釈する。その拍子に、籠の端から小さな包みが滑り落ちた。

床に落ちる前に、ノアは反射的に手を伸ばす。


「危な」

「あ……申し訳ございません」


受け止めた包みは、布にくるまれた何かだった。

重くはない。中身はたぶん小物か、手紙か、そういうものだろう。


返そうと手を差し出すと、侍女はひどく気まずそうに受け取った。


「すみません」

「いや、別に」

「本当に、その」

「だから大丈夫ですって」


言いながら、自分でもこのやり取りに既視感があった。

落ちたものを拾って、気まずくなって、でも見なかったことにもできなくて。たぶん自分は、同じようなことを繰り返している。


「……何か、困ってるんですか」


言ってから、また余計なことを、と思った。

シオンがいたら確実に眉をしかめるやつだ。


侍女たちは顔を見合わせる。

答えていいのか迷っている顔だった。そりゃそうだ。いきなり出てきた借りものの名の男に、家の内情みたいなものを話せるわけがない。


ノアはすぐに手を振った。


「いや、すみません。今のなしで」

「いえ……」


年長の侍女の方が、言葉を選ぶみたいにゆっくり口を開く。


「困っていないわけでは、ございません」

「でも、わたくしたちがどうこう申し上げることでは……」

「そう、ですよね」


当たり前だ。

しかも相手はたぶん、ローゼンベルク家の人間だ。なおさら軽々しく話せるわけがない。


けれど、その曖昧な返事だけで十分だった。


困っている。

昨日の“何も困ることはありません”の向こうに、本当に困る人がいる。


ノアが何か言おうとした、その時だった。


「……何をしているのですか」


静かな声に、三人そろって振り向く。


そこに立っていたのは、リリアだった。


昨日と同じく、派手な人だかりの中ではない。

今日は侍女を一人だけ連れていて、廊下の向こうからまっすぐこちらを見ている。やわらかな見た目は変わらないのに、こうして少し距離を置いて立たれると、声の静けさの方が先に印象に残った。


侍女たちが慌てて頭を下げる。


「お嬢様」

「申し訳ございません」

「何かあったのですか」

「い、いえ……」


若い侍女が言葉に詰まる。

ノアは心の中で、いやその空気でいきなりこちらを見るなよ、と少しだけ思う。余計に気まずくなるだろ。


リリアの視線が、侍女たちからノアへ移る。

昨日一度ちゃんと話しただけなのに、その目線に少しだけ見覚えがあるのが妙に落ち着かない。


「また、見てしまったのですね」


責めるでもなく、呆れるでもない。

ただ確認するみたいな言い方だった。


「見たくて見たわけじゃないです」

「ええ。そうだろうと思います」


あっさり返されて、逆に困る。

もう少し何かあるかと思っていた。


リリアは侍女たちに向き直り、やわらかい声で言う。


「下がっていてください」

「ですが、お嬢様」

「大丈夫です」


大丈夫、という言い方が、リリアにしては少しだけ強かった。

侍女たちはまだ迷う顔をしていたが、結局一礼してその場を離れた。去り際にこちらへ気を遣うような視線を向けてくるあたり、たぶんノアはもう、わりと面倒な位置にいる。


残されたのは、リリアとノアと、少し離れて控えるもう一人の侍女だけだった。


「昨日に続いて、あまり見られたくないところばかりをお見せしていますね」


リリアはそう言って、小さく笑った。

笑った、といっても、楽しそうというより、困った時にこぼれる薄い笑みだった。


ノアは首を振る。


「いや。見たくないっていうか……」

「はい」

「見なかったことにしろって言われても、たぶん無理なんだと思います」

「シオンに?」

「ええ」

「そうでしょうね」


その返しが、ちょっとおかしかった。

シオンのことをそういうふうに言う人なんだ、と思うと、昨日より少しだけ遠くない感じがする。


リリアは少しだけ視線を落とす。


「昨日だけのことでは、なかったのですね」

「え」

「その場でそうおっしゃっただけではなく……本当に、そのように思っておいでだったのだと」


その言い方が静かすぎて、何と返していいかわからなくなる。

ノアは頭をかくみたいな気持ちになりながら、でも実際にはそんなことできないので、代わりに曖昧に肩を動かした。


「いや……何も困ることはない、は違うと思いました」

「ちゃんと困る人、いるでしょう」


昨日と同じ言葉だ。

でも今日は、昨日よりちゃんと届いてしまった気がした。


リリアはすぐには口を開かなかった。

少しだけ目を見開いて、それから息をつくように視線を和らげる。


「……そう、見えてしまうのですね」

「見えました」

「噂とも、だいぶ違いましたし」


言ってから、少し言いすぎた気がした。

だがリリアは嫌な顔をしない。代わりに、どこか諦めていたものを思い出したみたいな顔をする。


「そのように言われたのは、初めてです」


まただ。

その言葉を言われるたびに、うまく返せない。


「それは、何というか」

「はい」

「よくないですね」

「……ふふ」


今度は、昨日より少しだけはっきり笑った。


それだけで、空気が変わる。

ほんの小さくなのに、さっきまで張っていたものが少しほどけるのがわかる。ああ、この人はこういうふうにも笑うんだ、と、なぜだかそれだけで胸のあたりが少し忙しくなった。


リリアは首をかしげる。


「あなたは、本当に」

「変わってる、は昨日聞きました」

「ええ。昨日より、もう少しだけ」


何だその言い方。

昨日よりもう少し、って何だ。曖昧なくせにやけに残る。


ノアはどう返すのが正解かわからなくて、結局いちばん正直なことを言った。


「その言い方、ずるいですね」

「そうでしょうか」

「たぶん」

「でしたら、申し訳ありません」


申し訳ありません、なんて言いながら、少しも困っていない顔をしている。

やっぱり、この人は思っていたよりずっと静かに強い。


その時、後ろから聞き慣れた声が落ちてきた。


「……やはり拾いましたね」


ノアは振り向かずに言う。


「言い方が毎回ひどいんだよ」

「今回はだいぶ控えめです」

「それで?」

「ええ」


振り返ると、シオンがいつもの顔で立っていた。

いつもの顔なのに、ほんの少しだけ呆れが増している気がする。


リリアは表情を整え、シオンに向かって一礼した。


「シオン」

「ローゼンベルク様」

「こちらの方にご迷惑を」

「迷惑というほどでは」


そう言いかけて、ノアは少しだけ止まる。

迷惑ではない、と言い切るのも違う。迷惑ではないが、面倒ではある。いや、そういう問題じゃない。


リリアがこちらを見る。


「ノア様」

「はい」

「昨日のことも、今日のことも……ありがとうございました」


真正面から礼を言われると、やっぱり困る。

ノアは少し視線を逸らし、それから小さく頷いた。


「いや、別に」

「その返し、お好きですね」

「うるさいな、シオン」


リリアはまた少しだけ笑った。

その笑い方が、昨日より自然だったことに、ノアは自分でも変なくらい気づいてしまう。


「では」


リリアは侍女を連れて歩き出しかけ、それから一度だけ足を止めた。


「昨日だけのことではなかったと、わかってよかったです」


静かな声だった。

でも、それだけで十分だった。


リリアが去っていく。

今日もまた淡い髪が光を拾って、人の流れの向こうへ紛れていく。なのに昨日と違って、ちゃんと声の温度と表情の動きが残っているから、見えなくなっても消えた感じがしなかった。


シオンが隣に立つ。


「昨日はたまたま、ではなかったようですね」

「揚げ足を取るなよ」

「取っていません。確認です」

「性格悪いな」

「ええ、よく言われます」


そこは認めるんだよな、ともう何度目かわからないことを思う。


しばらく黙ってから、ノアは小さく言った。


「これ、もう噂とかじゃないんだな」

「最初からそのつもりで動いていますよ、あちらは」

「困る人がいる」

「ええ」


シオンは珍しく、そこで曖昧にせず頷いた。


「だからこそ、ローゼンベルク様は止まっているのでしょう」

「知ってたのか」

「見ればわかります」

「便利だな、その言い方」

「重宝しております」


ほんとうに便利そうで腹が立つ。


でも、腹が立つのと同時に、ノアの中ではもう少し別の感情も大きくなっていた。

昨日の中庭で見た人と、さっき笑った人が、もう同じ“噂の令嬢”ではなくなっている。


外野のままでいるつもりだった。

そのつもりなのに、たぶんもう、昨日よりは少しだけ難しい。


「……ちゃんと面倒だな」

「ええ。ご愁傷様です」

「そこは否定しろよ」

「事実ですので」


ノアは深くため息をつく。

そのため息の中に、呆れと、面倒くささと、たぶん少しだけ、もう見なかったことにできない感じが混ざっているのを、自分でも認めたくなかった。

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