少し、変わった方ですね
翌日から、妙に中庭の方角が気になるようになった。
自分でも嫌だった。
昨日見ただけだ。しかも、関わるなと釘を刺されている相手である。
それなのに、回廊を歩いていて少しでも明るい方へ道が開けると、ついそちらに目が行く。
「……別に、気にしてるわけじゃない」
前を歩くシオンの背中に向かって小さく言うと、振り向きもしないまま返事が来た。
「そういう言い方をなさる時は、だいたい気にしています」
「腹立つな」
「ええ、存じています」
この人は本当に朝から感じが悪い。
いや、朝だからとかそういう問題ではなく、たぶん常時こうなのだろう。そこはもう認めるしかない。
学院の回廊は、昼前になると少しだけ人が増える。
けれど、騒がしくなるというより、静かなまま人の気配だけが増えていく感じだった。話し声も靴音も高くは響かない。みんな、建物に合わせてきちんと整えられているみたいで、余計に居心地が悪い。
「で、今日は何なんだよ」
シオンは少しだけ歩調を緩めた。
「少し用があります」
「それは聞いてる」
「では、少し用があります」
「会話を省略するな」
「省略したほうが揉めませんので」
「もう揉めてるだろ」
シオンはそれについては答えなかった。
かわりに、角をひとつ曲がる。
視界が開けた。
中庭だった。
正確には、中庭に面した少し奥まった回廊で、陽の当たる石床の向こうに、細い小径と、手入れの行き届いた植え込みと、ガラス張りの温室らしいものが見える。
ノアはそこで、なんとなく足をゆるめた。
空気が違う。
別に、人だかりがあるわけではない。
誰も立ち止まってはいないし、露骨に誰かを見ている人もいない。なのに、意識だけがそちらに寄っている感じがした。近くを通る生徒たちは、視線だけを一瞬そちらへ滑らせて、すぐ何もなかったような顔に戻る。
「……あれ、何」
小さく聞くと、シオンは前を向いたまま言った。
「見ればわかります」
「便利だな、その言い回し」
「気に入っていただけて何よりです」
「褒めてない」
視線の先には、二人の人影があった。
ひとりは侍女らしい年かさの女で、その半歩前に立つ少女がいる。
ノアは、そこで思わず足を止めた。
最初に浮かんだのは、思っていたのと違う、だった。
“わがまま令嬢”。
昨日から断片的に聞こえてくる噂のせいで、勝手にもっと気の強そうな、きつい顔立ちの女の子を想像していた。人を見下すのが上手そうな、華やかで、近寄りがたくて、でも見るからに高位貴族ですとわかるような。
実際にそこにいたのは、拍子抜けするほどやわらかな空気の少女だった。
中庭から差し込む光の中で、髪は明るすぎない蜂蜜色に見えた。きっちり結い上げられているのに、ところどころがやわらかく光を含んでいて、冷たい印象にならない。白い肌も、伏せがちな睫毛も、薄く色づいた頬も、丁寧に丁寧に扱われてきたもののようだった。
綺麗、というのはたぶんそうだ。
でもそれだけだと、少し違う気がする。可憐とか、上品とか、そういう言葉も順番に並べられそうなのに、どれも少しずつ足りない。
大事にされて育ったんだろうな、と思う。
髪も、肌も、立ち方も、全部がそんなふうに見えた。
けれど、ただ守られてきただけの人なら、あんな目はしない。
少女は自分に向けられた周囲の視線には気づいているはずなのに、そちらを見ようともしなかった。
代わりに見ていたのは、隣に控えた侍女の手元だ。抱えている書類が少し揺れたのを見て、ほんのわずかに身を寄せる。その仕草は目立たないくらい小さいのに、妙にはっきり目についた。
先に気にするの、そこなんだ。
ノアはわけもなく、少しだけ息を止めた。
見た目がどうとか、噂と違うとか、そういうのより先に、その一瞬で引っかかってしまった気がした。
その時、軽い風が吹いた。
侍女が抱えていた書類のいちばん上の一枚が、端からふわりと浮く。
年かさの侍女が慌てて押さえようとしたが、間に合わない。白い紙は風にさらわれて、回廊の外側へ斜めに流れた。
「あ」
短い声が重なる。
考えるより先に、ノアの足が動いていた。
昨日のあれこれがどうとか、関わるなと言われていたとか、全部あとだった。紙がそのまま植え込みに落ちそうで、単純に嫌だった。
回廊から一歩だけ外へ出て、手を伸ばす。
ぎりぎりのところで指先に紙の端が触れた。危なかった。もう少しで湿った土に落ちていた。
「……取れた」
振り返ると、侍女より先に少女と目が合った。
近くで見ると、思っていたよりさらに若く見える。
それなのに、目だけが驚くほど静かだった。たぶん普段から、感情を大きく外へ出さない人なのだろうと思う。
ノアは妙に変な緊張を覚えながら、紙を差し出した。
「これ、落ちました」
「……ありがとうございます」
少女は一瞬だけ戸惑ってから、両手でそれを受け取った。
その受け取り方が、なんだか妙に丁寧だった。令嬢だから、というより、相手が誰でもそうする人なのかもしれない。
「いや、別に」
言ってから、いや別にも何だよ、と思う。
もっと他にあるだろう。ご無事で何よりですとか、風が強いですねとか。
でも今さら言い直すのも変だった。
少女はほんの少しだけ、ノアを見つめた。
視線がすぐに逸れない。それだけで、逆にこっちが落ち着かない。
「フェルネス家の……方、でしたか」
昨日の一件で顔だけは知られているらしい。
ノアはそこで、ああもう逃げられないのか、みたいな気分になる。
「たぶん、今はそういうことになってます」
「たぶん、なのですか」
「いや、その……」
まずい。
こういう時、どこまで言っていいのかがまだ全然わからない。
うまく取り繕おうとして、変な沈黙が落ちる。
けれど少女――たぶん昨日の侯爵令嬢は、それを笑わなかった。むしろ、ほんの少しだけ口元がやわらいだ気がした。
「少し、変わった方なのですね」
「よく言われます」
「今のは、たぶん褒めてないですよ」
「え」
思わず返すと、今度こそ少女の表情が少しだけほどけた。
ほんの小さい変化だった。けれど、それだけで昨日の“人に囲まれた令嬢”よりずっと年相応に見える。
ノアは変な具合に緊張が抜けて、つい余計なことを言った。
「昨日のこと、ご覧になっていたのですね」
リリア――まだ名前は聞いていないけれど、もう彼女のことだとわかってしまう。
その人は少しだけ目を伏せた。
「ええ。……あまり見たい場面ではなかったのですが」
「それは、そうでしょうね」
また少し間が空く。
令嬢相手に、そんな返しでいいのか。たぶんよくない。
でも、妙に取り繕った言葉の方が違う気がして、それ以上うまく足せなかった。
少女は手元の書類をそろえながら、静かな声で言った。
「おかしな者に見えたでしょう」
「え?」
「婚約を前にして、身の回りのことにばかり口を挟む女ですから」
その言い方が、昨日の誰かの噂話よりよほど冷たく聞こえた。
自分で自分を、そういうふうに片づけているみたいで、少し嫌だった。
ノアは反射みたいに首を振る。
「いや。そうは思わなかったです」
少女が顔を上げる。
目が合う。今度はノアの方が逸らしかけて、でも何とか堪えた。
「……何も困ることはない、は違うと思いました」
言ってから、しまった、と思う。
いきなり何を言っているんだ、自分は。昨日のことを蒸し返す気も、踏み込む気も、ほんとはそこまでなかったはずなのに。
でも一度口から出た言葉は、今さら引っ込めようがない。
「ちゃんと困る人、いるでしょう」
侍女のことだ。
昨日、書類を抱えていたあの人の指先を思い出す。力の入り方だけで、ああいうのはわかる。
少女はすぐには答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を見開いて、それから視線を落とす。
風が、温室のガラスをかすかに鳴らした。
「……そう、見えましたか」
声が、昨日より少しやわらかかった。
責めてもいないし、試してもいない。ただ本当に、そんなふうに見えたのかと確かめるみたいな聞き方だった。
「見えました」
「噂とも、だいぶ違いましたし」
今度は、ノアのほうが少し言いすぎた気がした。
けれど少女は嫌な顔をしない。代わりに、困ったように、でもどこかほっとしたように目を伏せた。
「そのように言われたのは、初めてです」
たぶん、軽い言葉ではなかった。
ノアはなぜだか急に返す言葉に困る。
初めて。
それはつまり、今まで誰もちゃんとそこを見なかった、ということだろうか。
昨日の場面を思い返せば、そうなのかもしれないと思ってしまう。
「……それは、何というか」
「はい」
「よくないですね」
「ふふ」
笑った。
声に出して笑ったわけではない。けれど、たしかに今、笑った。
それだけのことで、胸のあたりが妙にざわつく。
きれいだとか可愛いとか、そういうのとはまた別の、もっと落ち着かない感じだった。
少女は少しだけ首を傾げる。
「あなたは、変わった方ですね」
「さっきも言われました」
「今度は褒めています」
「そうなんですか」
「ええ、少し」
少し、らしい。
その曖昧なところまで含めて、何だかずるい。
「あの」
侍女が遠慮がちに声を挟んだ。
二人ともそちらを見ると、年かさの侍女はわずかに困った顔で一礼する。
「そろそろ、お時間が」
「……ええ」
少女は頷き、それから改めてノアへ向き直った。
「書類をありがとうございました」
「いや、別に」
「それと」
ほんの少しだけ間を置いてから、静かな声で言う。
「昨日のことを、そのように見てくださって、ありがとうございます」
真正面から礼を言われると、逆に困る。
ノアは一瞬だけ口をつぐんで、それから何とか返した。
「……どういたしまして、で合ってるんですかね、こういうの」
「たぶん、合っています」
また少しだけ笑う。
その時、背後からため息まじりの声が落ちてきた。
「……やはり拾いましたね」
振り向かなくてもわかる。
シオンだ。
「言い方がひどいんだよな」
「事実ですので」
「便利だな、その台詞」
「重宝しております」
本当に重宝するな。
シオンはノアの隣まで来ると、リリアへきちんと一礼した。
その所作だけは、やけに綺麗で腹が立つ。
「ローゼンベルク様」
「シオン。……お手数を」
「いえ。こちらこそ、うちの者が失礼を」
「うちの者?」
ノアが思わず小さく言うと、シオンは聞こえていない顔をした。
絶対聞こえてるだろ。
リリアはそれを少しだけおかしそうに見て、それからノアへ目を向ける。
「ノア様」
「はい」
「また、お会いすることがあるかもしれませんね」
その言い方が、社交辞令みたいに聞こえて、でも少しだけ違っていた。
ただの挨拶なら、妙に胸に残ったりしない。
「……そうかもしれないです」
自分でもびっくりするくらい、まともな返事ができた。
シオンが横でわずかに目を細めたのがわかる。なんだその顔。
リリアは侍女とともに回廊の向こうへ歩き出す。
淡い髪が光を拾って、昨日と同じように人の流れの向こうへ紛れていく。
でも今日は、昨日みたいにただ遠ざかっていくだけじゃなかった。
ちゃんと声を聞いて、言葉を交わして、そのうえで離れていくからか、いなくなったあともしばらく、その場の空気がそのまま残っている気がした。
「近づくなと、申し上げたはずですが」
シオンの声に、ノアは肩をすくめる。
「落ちたものを拾っただけだろ」
「ええ。見事に」
「褒めてないよな、それ」
「まったく」
それでも、さっきほど強く咎める口調ではなかった。
呆れてはいるのだろうが、想定の範囲内でもあるみたいな言い方だ。
ノアは少し黙ってから、小さく言う。
「……噂と違った」
「でしょうね」
「知ってたのかよ」
「ええ」
だったら最初からそう言えばよかったのに、と思う。
でも、シオンはたぶんそういう親切をわざわざ選ばない。
「何か言えよ」
「何を」
「もう少しこう……あっただろ」
「何も困ることはありません、でしょうか」
「それは今一番嫌な引用なんだよな」
シオンが、ほんの少しだけ口元をやわらげた気がした。
笑ったのかどうかは、やっぱりはっきりしない。
ノアは、リリアが消えていった先をもう一度だけ見た。
落ちた書類。静かな声。初めてだと言った時の顔。
外野のままでいるつもりだった。
そう思っているのに、たぶんもう少しだけ、そのつもりではいられなくなっている。




