何も困ることはありません
翌朝、目が覚めても、部屋は知らないままだった。
当たり前といえば当たり前だ。
むしろ、寝て起きたら全部元通り、みたいな都合のいいことが起きる気がしていた自分のほうがどうかしている。
天井も壁も、きれいすぎるくらい整った客室。
机の上には昨夜置いたままの財布がある。触ってみると、そこだけが妙に現実で、少し安心して、少し腹が立った。
結局、帰れていない。
「最悪だな……」
小さく呟いたところで、扉が二度、控えめに叩かれた。
「起きておいででしたか」
この声はもう聞き慣れつつある。
扉の向こうにいるのが誰か、顔を見なくてもわかるようになってきたのが地味に嫌だった。
「起きてる」
「では失礼します」
入ってきたシオンは、昨夜と同じく隙のない顔をしていた。
本当にこの人、寝る前も起きた直後も同じ顔をしているんじゃないだろうか。そう思うくらい、朝らしいゆるみがまるでない。
「おはようございます、ノア様」
「その呼び方まだ慣れないんだけど」
「本日中には慣れていただきます」
「勝手に予定を決めるな」
シオンは返事の代わりに、ベッド脇の椅子へきちんと畳まれた衣類を置いた。
学院の制服らしいそれを見て、ノアは眉をひそめる。
「着替えろって?」
「ええ」
「いや、まあ着るけど」
「よろしい。では十分で」
「短くない?」
「あなたが余計なことをなさらなければ十分です」
感じが悪い。朝から一貫している。
けれど、昨夜のうちに聞いた最低限の話を思い出せば、たしかに自分は“ノア・フェルネス”としてここにいなければならないらしい。制服を着ないわけにもいかないのだろう。
諦めて袖を通してみると、サイズは驚くほど合っていた。
そのことにぞっとして、鏡に映る自分から一度目を逸らす。
「……何でこんなにぴったりなんだよ」
「整えた者が優秀だったのでしょう」
「他人事みたいに言うな」
「他人事ではありませんよ。多少は」
多少なんだ。
着替えを終えると、シオンはさっさと扉の方へ向かった。
待つ気はあるらしいが、急がせる気もかなりある。
「で、今日は何」
「学院の中を少しだけ歩きます」
「少しだけ、って信用していいのか」
「していただかなくて結構です。事実ですので」
「便利だな、その言い回し」
廊下へ出ると、昨夜とは違って、ちゃんと人の気配があった。
朝の学院は静かなのに、眠ってはいない。遠くで足音がして、誰かの話し声が壁に吸われて、使用人らしい人影が素早く角を曲がっていく。
夜に見た時より、ずっと“学校”っぽい。
ただし、自分の知っている学校より何倍も綺麗で、何倍も居心地が悪い。
「……で、その“あの方”って誰なんだよ」
歩きながら聞くと、シオンは前を向いたまま答えた。
「あなたが今知らなくていい相手です」
「昨日からそればっかりだな」
「ええ」
「聞くたびに気になるんだけど」
「でしょうね」
でしょうね、じゃない。
でもそこで言い返しても、たぶんまた同じ顔をされるだけだろうと思うと、少し面倒になった。
中庭に面した回廊へ出た途端、ノアは足をゆるめた。
さっきまでと空気が違う。
騒がしいわけではないのに、妙に人の意識だけがひとところへ集まっている感じがする。近くを通る生徒たちは露骨に立ち止まりはしない。けれど、視線だけはそちらへ流れていた。
「……あれ、何」
小さく聞くと、隣のシオンは前を向いたまま言った。
「見ればわかります」
全然説明になっていない。
なっていないのに、たしかに見ればわかるのかもしれないと思わせる声だった。
視線の先には、二人の人影があった。
ひとりは侍女らしい年かさの女で、その半歩前に立つ少女がいる。
最初に浮かんだのは、思っていたのと違う、だった。
“わがまま令嬢”。
昨日から断片的に聞こえてくる噂のせいで、勝手にもっと気の強そうな、きつい顔立ちの女の子を想像していた。人を見下すのが上手そうな、華やかで、近寄りがたくて、でもいかにも高位貴族ですとわかるような。
実際にそこにいたのは、拍子抜けするほどやわらかな空気の少女だった。
中庭から差し込む淡い光の中で、髪は明るすぎない蜂蜜色に見えた。きっちり結い上げられているのに、ところどころがやわらかく光を含んでいて、冷たい印象にならない。白い肌も、伏せがちな睫毛も、薄く色づいた頬も、丁寧に丁寧に扱われてきたもののようだった。
綺麗、というのはたぶんそうだ。
でもそれだけだと、少し違う気がする。可憐とか、上品とか、そういう言葉も順番に並べられそうなのに、どれも少しずつ足りない。
大事にされて育ったんだろうな、と思う。
髪も、肌も、立ち方も、全部がそんなふうに見えた。
けれど、ただ守られてきただけの人なら、あんな目はしない。
少女は自分に向けられた周囲の視線には気づいているはずなのに、そちらを見ようともしなかった。
代わりに見ていたのは、隣に控えた侍女の手元だ。抱えている書類が少し揺れたのを見て、ほんのわずかに身を寄せる。その仕草は目立たないくらい小さいのに、妙にはっきり目についた。
先に気にするの、そこなんだ。
ノアはわけもなく、少しだけ息を止めた。
見た目がどうとか、噂と違うとか、そういうのより先に、その一瞬で引っかかってしまった気がした。
その時、回廊の向こうから足音がひとつ近づいてきた。
さっきシオンが現れた時と同じで、ためらいのない歩き方だった。
ただ、あちらは冷たい直線だったのに対して、こっちはもっと滑らかで、見られることに慣れている人間の足音、という感じがした。
現れた青年を見て、なるほど、と思う。
たしかに並んで立てば絵になるのだろう。年はノアたちより少し上に見えた。明るい金髪をきちんと撫でつけ、学院の制服も乱れなく着こなしている。顔立ちも整っていて、立ち居振る舞いに隙がない。
ぱっと見の印象だけなら、理想的な人だった。
真面目で、育ちがよくて、優しく微笑むのも上手そうな。
だから余計に、最初の一言が気味悪かった。
「ローゼンベルク嬢。探しました」
責める声ではない。
むしろ穏やかで、気づかうような響きすらある。叱っているようにはまったく聞こえない。
少女――たぶん、ローゼンベルク嬢と呼ばれたその人は、ゆっくりと顔を上げた。
「セドリック様」
名前を呼ぶ声も静かだった。
嫌そうでもない。かといって、嬉しそうでもない。波を立てないために整えた声、という感じがした。
セドリックは一歩だけ近づくと、少女ではなく、その隣にいる侍女の持つ書類へ視線を落とした。
「ちょうどよかった。婚約後のことについて、こちらでも少し整理が進みましたので」
「整理」
少女が小さく繰り返す。
そのたった一言に、ノアはなぜだか少しだけ嫌な予感を覚えた。
セドリックは穏やかな笑みを崩さないまま続ける。
「ええ。あなたの身の回りのことです。古くからの方々に囲まれていては、かえって気疲れなさるでしょう。侍女や使用人の顔ぶれは、今のうちに整えておいたほうがよい」
「……っ」
小さく息を呑んだのは、リリアではなく、隣の侍女のほうだった。
けれどセドリックは、そちらを見もしない。
「必要な人員はこちらで選びます。何も心配はいりません」
「あなたのためですから」
言い方が、あまりにも滑らかだった。
親切そうで、正しそうで、反論するほうがわがままに見えそうなくらいに。
ノアは無意識に眉をひそめる。
この人、と思った。
この人、たぶん本気でいいことを言ってるつもりなんだ。
だから余計に嫌だった。
リリアはすぐには答えなかった。
伏せられた睫毛がわずかに揺れて、それから、隣に控える侍女の持つ書類へ視線が落ちる。
怒っているようにも、困っているようにも見えない。ただ、言葉を選んでいる沈黙だった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……その方々は、長く私に仕えてくれた人たちです」
声は静かだった。
けれど、小さいわけではない。聞こえるべき相手には、きちんと届く声だった。
セドリックは穏やかな表情を崩さない。
「ええ。よく承知しています」
「でしたら」
そこで一度だけ、リリアは言葉を切った。
視線はまだまっすぐには上がらない。代わりに、侍女が書類を抱える手元へもう一度だけ目をやる。
「急に役目を外されるのは、あまりに」
「外すわけではありません」
「でも、ここを離れるのでしょう」
セドリックは少しだけ首を傾げた。
諭すような、困った人を見るような仕草だった。
「ローゼンベルク嬢。これは将来のための準備です」
「あなたの立場にふさわしい形に整えるだけのこと」
「……その“整える”中に、その方たちのこれまでが入っていないように思えます」
ノアは思わず、息を止めた。
責める言い方ではなかった。
声を強くしたわけでもない。けれど、その一言だけは妙に真っ直ぐだった。
リリアはようやく顔を上げた。
可憐でやわらかな見た目のまま、でも目だけが少しも揺れていない。
「私のために変えてくださるのだとしても」
「私のために、長く仕えてくれた方たちが黙って場所を失うのは、望みません」
隣で、侍女がごく小さく息を呑む音がした。
セドリックはそこで初めて、ほんのわずかに笑みを薄くした。
怒ったわけではない。むしろ、聞き分けの悪い子を前にした時のような、穏やかな困り顔だった。
「あなたは優しすぎる」
「そうした情は美徳です。ですが、いつまでも今のままではいられない」
「それぞれに相応しい行き先は用意します。何も困ることはありません」
何も困ることはありません。
その言葉に、ノアは眉をひそめた。
困るだろ、と反射みたいに思う。今まさに、その“それぞれ”に入れられようとしている人たちがいるのに。
リリアはすぐには返さなかった。
ただ、ほんの少しだけ唇を結んで、それからまた、静かな声で言う。
「せめて、理由だけでも私からお伝えさせてください」
「その方たちが納得できる形でなければ、私は頷けません」
その一言は、わがままというより、祈りに近く聞こえた。
けれど祈りにしては、ちゃんと意志があった。
ノアはわけもなく、胸の奥に何かが引っかかるのを感じた。
この人、と思う。
自分の婚約が嫌だと騒いでいるんじゃない。
切られる側の人間を、ちゃんと見ているから止まっているんだ。
噂と違う、どころじゃない。
たぶん、最初から話が全然違う。
セドリックの声は最後まで穏やかだった。
「その方たちにも、それぞれ相応しい行き先があります」
「あなたが気に病むことではありません」
そう言い切る口調には、迷いがなかった。
優しい顔をしているくせに、その言葉の中には最初から、侍女たち本人の気持ちが入っていない。
ノアは無意識に、そばで書類を抱えている侍女を見た。
年かさの女はきちんと背筋を伸ばしたままだったが、指先にだけ、わずかに力が入っているのが見えた。
気に病むことじゃないわけあるか。
そう思った瞬間、自分でもびっくりするくらい、腹の底が冷たくなった。
怒っている、というより、嫌だ、が先に来る。
こういうふうに、人のことを“うまく収めるもの”みたいに言う声が、たぶん昔からあまり好きじゃない。
この人は、と思った。
この人はたぶん、本気で間違っていないつもりなんだ。
侍女たちを困らせたいわけじゃない。リリアを傷つけたいわけでもない。
ちゃんと整えて、ちゃんと運んで、ちゃんと立場にふさわしくしたいだけだと、ほんとうに思っている。
だから余計にだめだと思った。
人を、そういうふうに片づけるなよ。
気づけば、一歩だけ足が前へ出かけていた。
その瞬間、袖を軽く引かれる。
「……っ」
振り向くと、シオンだった。
いつの間にそんな近くにいたのかと思うくらい、静かな動きだった。
「だから申し上げたんです」
落とされた声は低い。
周囲には聞こえないのに、やけによく響く。
ノアは思わず眉を寄せる。
「でも、あれは」
「ええ」
シオンは視線を前へ戻したまま、ほとんど息だけで答えた。
「あなたが嫌う類いでしょうね」
その言い方が、妙に腹立たしかった。
こっちが何を嫌がるか、最初からわかっていたみたいな顔をするからだ。
「だったら」
「だったら、なおさら口を出すべきではありません」
ぴしゃりと言われて、喉の奥で言葉が止まる。
シオンはようやくこちらを見た。
冷たい目、ではない。冷静な目だ。だから余計に逃げ場がない。
「いまあなたが割って入れば、フェルネスの名であの場に口を挟むことになります」
「事情も立場もわからないまま、それをなさいますか」
「……でも」
「しかも、あなたは咄嗟に嘘もつけない」
その最後の一言が、嫌に静かだった。
ノアは口をつぐむ。
腹は立つ。納得したわけでもない。けれど、ここで何か言ったところで、たぶん自分はうまく立ち回れない。立ち回れないどころか、もっと面倒なことになる気がする。
その間にも、向こうでは会話が終わろうとしていた。
リリアは大きく反発しなかった。
ただ、最後まで侍女の方を気にして、静かに頭を下げる。その横顔が、ノアには少しだけ苦しそうに見えた。
セドリックは礼を崩さず、一歩引く。
どこからどう見ても、穏やかで、正しくて、感じのいい青年のままだった。
それが、ひどく嫌だった。
ノアは息を吐くみたいに、小さく言う。
「……噂と違うな」
「どちらがです」
「両方」
シオンはほんのわずかに目を細めた。
呆れたのか、予想通りだと思ったのか、そのへんは相変わらず読みづらい。
「ですから、近づくなと申し上げたんです」
リリアが侍女とともに回廊の向こうへ歩き出す。
淡い髪が光を拾って、すぐに人の流れの向こうへ紛れていった。
もう見えなくなっているのに、ノアの中にはさっきの一場面だけが妙に残る。
侍女の手元を見る目。
静かな声。
何も困ることはありません、というあの言い方。
外野のままでいるつもりだった。
少なくとも、昨日までの自分にはそんな面倒ごと、関係ないはずだった。
なのに、たぶんもう少し引っかかってしまっている。
「……あの人、誰」
今さらみたいに聞くと、シオンは少しだけ間を置いてから答えた。
「リリア・ローゼンベルク侯爵令嬢です」
やはり、というべきなのかもしれない。
でもノアには、その名前より先に、さっきの横顔の方が強く残っていた。




