三つだけ覚えてください
扉が閉まって、部屋の中に静けさが落ちた。
静かすぎる、と思う。
さっきまで知らない大人に頭を下げられて、知らない名前で呼ばれて、知らない家の人間みたいな顔をされていたのに、今はもう何事もなかったみたいに整った客室に通されている。
意味がわからない。
机の上に置いた財布が、やけに場違いだった。
白いクロスの上にぽつんと乗ったそれだけが、数十分前までコンビニへ行くつもりだった自分と繋がっている気がする。
その財布を見下ろしたまま、ノアは――いや、まだこの呼び方に慣れないな、と思いながら口を開いた。
「で」
シオンはすぐには答えなかった。
窓の鍵を確かめ、燭台の火を見て、それからようやくこちらを振り返る。
「何からお聞きになりますか」
「全部」
「それは無理です」
即答だった。
「だろうなとは思ったけど」
「では、優先順位をつけてください」
「なんでそんな冷静なんだよ」
「冷静でなければ困るのはあなたです」
そう言われると、たしかにそうかもしれない。
だからといって腹が立たないわけではないが、いちいちその通りなのがさらに腹立たしい。
ノアは椅子に腰を下ろして、ひとつ息をついた。
「……じゃあ、フェルネスって何」
シオンはほんの少しだけ目を細める。
さっきからこの人は、呆れているのか感心しているのか、微妙に判別しづらい顔ばかりする。
「家名です」
「それは聞けばわかる」
「では、その程度の答えでよろしいでしょう」
「よくない」
わずかに間があって、シオンはようやく机の向こうへ歩いてきた。
向かいに立つだけで座らないあたり、やっぱりちょっと感じが悪い。
「フェルネス家は、古くから王家に仕える家のひとつです」
「偉い家?」
「そこまでではありません」
「そこまでではないんだ」
「地味で、古くて、なくなると少し困る。そういう家です」
ノアは顔を上げた。
「雑に言うな」
「雑に言ったほうが、あなたには入りやすいかと」
「それで納得すると思ってるのが腹立つな」
「多少はしたでしょう?」
した。少しだけ。
悔しいので言わない。
シオンは淡々と続ける。
「表立って権勢を振るう家ではありません。婚約や誓約、相続など、家同士の取り決めに立ち会い、記録を預かる役目です」
「記録」
「ええ」
「じゃあわりと大事じゃないか」
「ええ。ですが華やかではありません」
なるほど、と言いかけて、ノアは口を止めた。
なるほども何も、自分にはその家と何の関係もない。
「で、なんで俺がその家の人間扱いなんだよ」
「なってはいません」
「なってるだろ、どう見ても」
「正確には、そう扱われています」
「もっと悪いだろ」
シオンは言い返さなかった。
その代わり、わずかに視線を落とす。言い方を選んでいる沈黙だった。
「フェルネス家には、長く表に出ていない傍系があります」
「ぼうけい」
「本家から少し離れた枝です。近しいが、目立たない。詳しく知る者も多くありません」
「そこに俺を押し込んだ」
「いまのところは」
「いまのところで済む話か?」
ノアが言うと、シオンはほんの少しだけ首を傾げた。
「済まないから、こうして困っているんです」
「開き直るなよ」
「開き直ってはいません。事実を申し上げています」
こいつ、本当にこういう話し方しかできないんだろうか。
いや、たぶんできるんだろうな。できるけど、たまたま今それを自分にやる気がないだけで。
ノアは机の上の財布を指先でつついた。
ひどくどうでもいい日常の象徴みたいなそれが、この部屋の中でだけ妙に現実感を持っている。
「……じゃあ次。ここ、何」
「王立学院です」
「学校、って言っていいのか」
「そう思っていただいて構いません」
「全然構っていい雰囲気じゃなかったけど」
シオンは少し考えてから言った。
「あなたが回廊の真ん中に立っていなければ、もう少し穏当でした」
「好きで立ってたわけじゃないんだけど」
「ええ、存じています」
口調は変わらないのに、たまにこうやって話が通じるのが妙にやりづらい。
「貴族と、それに連なる家の子弟が学ぶ場所です。学院の中では、家名と立場がそのまま扱いに繋がります」
「じゃあ俺がフェルネスを否定したら」
「余計に面倒になります」
「最悪だな」
「まったくです」
また即答だった。
ノアは椅子の背にもたれて、天井を見た。
王立学院。フェルネス家。傍系。
単語だけが増えていく。意味はあるのに、まだ自分の足場にはなっていない。
「……さっきの、言えなかったのは何なんだよ」
シオンは、今度はすぐには答えなかった。
少しだけ長い沈黙のあと、言葉を選ぶように口を開く。
「境を越えた者には、時折、言葉に妙な不自由が残ることがあります」
「時折って何だよ」
「個人差がある、という意味です」
「そんな曖昧な」
「断言はしません」
きっぱりしていた。
「少なくとも今のあなたは、好きに訂正できる状態ではない」
「……あれ、やっぱり変だったんだな」
「ええ。だいぶ」
「言い方」
「事実ですので」
本日何度目かわからないその台詞に、もはや腹が立つより先に疲れる。
「じゃあ、俺はしばらくずっとこんな感じなのか」
「まだわかりません」
「そこは濁すなよ」
「希望的観測を申し上げるほど親切ではないので」
「感じ悪いな」
「ご存じでしょう?」
たぶん、今ちょっとだけ機嫌がいい。
なんでだよ。
シオンはようやく机の端に手を置いて、こちらをまっすぐ見た。
「当面は三つだけ覚えてください」
「嫌な予感しかしない」
「勝手に歩き回らない」
「うん」
「何を聞かれても、すぐには答えない」
「それはさっきから聞いてる」
「フェルネスの名を、露骨に否定しない」
「最後が一番きついんだけど」
シオンは頷いた。
「ええ。ですが今は、それが最善です」
「最善っていうか、他に道がないだけだろ」
「そうとも言います」
部屋の空気は静かだった。
静かすぎて、シオンの声だけがよく残る。
ノアは財布を持ち上げて、また机に戻した。
これがあるだけで帰れるわけでもない。なのに、手元に置いておきたくなる。
「……戻れるのか、俺」
「今はまだ、わかりません」
「やっぱりそこは即答なんだな」
「嘘はおすすめしません」
「いや、してないけど」
してない、けど。
なんとなくその一言が自分で思った以上にすべっていく感じがして、ノアはそこで口を閉じた。
シオンはその変化に気づいたのかどうか、何も言わなかった。
代わりに扉のほうへ視線を向ける。
「少し水を持ってこさせましょう」
「別に」
「私が必要です」
「おまえが?」
「あなたが黙っているか確認するために」
感じが悪い。かなり。
けれど、数分後に入ってきた年若い使用人の少年を前に、ノアは文句を飲み込むしかなかった。
相手は盆を持って一礼し、緊張した顔でこちらを見る。どう見ても、自分を客か何かとして扱っている。
「お水をお持ちしました、ノア様」
「あ、えっと……」
言葉が宙ぶらりんになる。
本当のことを言うなら、自分はノア様でも何でもない。ついさっきまでコンビニへ行こうとしていた、ただの人間だ。
でも、それをここで言ったらどうなるのかがわからない。
シオンは黙っている。完全に見ている。
助けろよ、と思ったが、助ける気のない顔をしていた。
ノアは一瞬だけ迷ってから、いちばん角の立たなそうな言葉を拾う。
「……ありがとう」
少年はほっとしたように顔をやわらげた。
「どうぞ、ごゆっくりお休みください」
「……うん」
それで会話は終わった。
扉が閉まって、少年の足音が遠ざかる。
背後から、シオンの声がした。
「今のは悪くありません」
「それ、褒めてる?」
「ええ。珍しく」
「最後の一言いらないだろ」
「事実ですので」
「便利だなおまえ、その台詞」
シオンは肩をすくめるでもなく、いつもの顔のままだった。
でも、最初の回廊で見た時よりは、少しだけ人間味が見えてきた気がする。見えてきたからといって、仲良くしたいかは別だが。
ノアはコップを持ち上げて、一口だけ水を飲んだ。
冷たさが、ようやく少し頭を落ち着かせる。
「……で。明日どうなる」
「さしあたって、学院の中であなたの立場を崩さないことです」
「それはわかる」
「わかっていませんね」
「いちいち腹立つな」
シオンはそこで、ほんの少しだけ言葉を切った。
「ひとまず」
「うん」
「あの方にだけは、今は近づかないでください」
ノアは眉をひそめた。
「あの方?」
「ええ」
「誰」
「まだ知らなくて結構です」
「よくないだろ」
「今のあなたが知ると、余計なことを拾いそうです」
そこまで言われると、逆に気になる。
気になるが、たぶん今聞いてもちゃんとは答えない顔をしている。
「……感じ悪いな」
「よく言われます」
「自覚あるんだ」
「多少は」
それはそれで嫌だな、と思う。
部屋の外は静かだった。
王立学院。フェルネス家。借りものの名。言葉の妙な不自由。
そこへさらに、近づくなと言われる“誰か”まで増えた。
意味がわからないことばかりだ。
それでも、少なくとも今夜を越えた先に、また何か待っているらしいことだけはわかった。
ノアは机の上の財布にもう一度触れた。
「……ちゃんと説明しろよ」
「善処します」
「それ便利に使いすぎだろ」
今度はシオンがほんの少しだけ、はっきりと目を細めた。
笑ったのかもしれない。たぶん。きっと。できれば違っていてほしいが。
「お休みください、ノア様」
「その呼び方、まだ落ち着かないんだけど」
「明日までに慣れていただきます」
それだけ言って、シオンは扉の向こうへ消えた。
残された部屋の静けさの中で、ノアはしばらく動けなかった。
明日になれば何かわかるのか、余計にわからなくなるのか、それすら見当がつかない。
ただ、近づくなと言われた“誰か”のことだけが、妙に引っかかった。




