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借りものの名

寝る前になって、冷蔵庫に飲み物がないことに気づいた。


別に水でも困らない。

そう思ったのに、一度気になるとだめだった。どうせ近所のコンビニまで数分だし、と財布だけ持って部屋を出る。スマホは机の上、上着も羽織らないままだ。


夜の空気は少しだけ冷えていて、眠る前の町は静かだった。

見慣れたアパートの階段を下りて、駐車場の脇を抜けて、角の交差点へ向かう。いつもの道だ。自販機の白い灯りも、信号待ちの停止線も、向こうに見えるコンビニの明るさも、何ひとつおかしくない。


青に変わった信号を渡った、はずだった。


足を踏み出して、次の一歩を着くまでの間に、空気が変わった気がした。

湿った夜風が消えて、代わりにひやりと乾いたものが頬を撫でる。妙だと思って顔を上げた時には、もう目の前にあるはずのコンビニの灯りは消えていた。


代わりにあったのは、白い石造りの回廊だった。


高い窓。磨かれた床。やけに静かな空気。

学校、にしては綺麗すぎるし、博物館にしては人の気配がない。数秒前までアスファルトの上にいたはずなのに、どう見ても今は屋内だった。


「……いや、無理だろ」


思ったより大きく響いた自分の声に、慌てて口をつぐむ。

無理、ってなんだ。意味がわからないのはこっちだ。夢にしては床も空気も妙に本物らしいし、財布だけを握った手の感触までやけにはっきりしている。


コンビニどころか、道ごと消えてるんだけど。


とりあえず人を探すべきか。

いや、知らない場所で勝手に歩き回るのもまずいのか。そもそもここがどこなのかもわからない。そんなことを考えていた時だった。


静まり返った回廊の奥から、足音がした。


ひとつ。ためらいなく、まっすぐこちらへ向かってくる音だった。

慌ててあたりを見回す。隠れられそうな柱も扉もあるにはあるが、見知らぬ場所で逃げ回るのも違う気がする。何より、その足音は追ってきたというより、最初からこちらのいる場所がわかっているような歩き方だった。


やがて回廊の角から、一人の青年が姿を現した。


年は自分とそう変わらないように見える。

黒に近い青灰色の髪はきちんと整えられ、仕立てのいい制服のような服を着ていた。線の細い顔立ちで、ぱっと見は綺麗と呼ぶべきなのだろうが、先に来るのは冷たそう、だった。整っているのに近寄りやすくはない、不思議な感じがある。


青年は数歩手前で足を止めると、こちらを頭の先からつま先までひととおり見た。

値踏みというほど露骨ではない。ただ、状況確認を一息で済ませようとしているような視線だった。


それから、ほんの少しだけ眉を寄せる。


「……何をしているんです、あなたは」


知らない場所に放り出されたこっちの台詞だ。

そう思ったのに、相手の言い方があまりにも自然だったせいで、一瞬ほんとうに自分が怒られる側のような気がしてしまう。


「いや、何をって……それ、こっちが聞きたいんだけど」


青年はため息をつかなかった。

けれど、ついたのと同じくらいの温度で目を細めた。


「そうでしょうね」

「いや、認めるんだ」

「説明は後です。今は、余計なことを口にしないでください」


ぴしゃり、とまではいかない。

でもやけに本気の声音で言われて、思わず黙る。


なんなんだ、この人。


助けが来たのかもしれないのに、あまり安心できない。

というより、助けに来た人間の第一声がそれでいいのか。


「……余計なことって」

「何でもです」

「雑すぎるだろ」

「雑に聞こえるくらいでちょうどいいんですよ。今のあなたには」


そこで初めて、青年は少しだけ声を落とした。


「ご自身の言葉を、信用しすぎないでください」

「は?」

「境を越えた直後は、時折、妙な制約が残ります」

「さかい?」

「何を問われても、すぐには答えないことです。特に、名と身の上は」


さっきよりさらに意味がわからない。

けれど、意味がわからないなりに、言葉の端だけが妙に引っかかった。


名と身の上。

そんな大げさなこと、そうそう聞かれるかよ――と思ったところで、青年はわずかに視線を横へ流した。


「来ます」


何が、と聞くより早く、別の足音が遠くから近づいてきた。

今度は一人ではない。複数人ではあるが、先頭に立つ誰か一人の足取りだけがはっきりしている。


青年はもう一度こちらを見て、静かに言う。


「いいですか。今は何も断言なさらないでください」

「だから、それどういう――」

「あとで説明します。歩けますか」

「……歩けるけど」

「結構です」


有無を言わせない口調なのに、乱暴ではなかった。

むしろ、怒鳴らないぶんだけ逃げ道がない。


青年は半歩だけこちらに近づく。

外から見れば、たまたま距離を詰めただけだろう。けれど落とされた声は、きっちりこちらにだけ届いた。


「私の名は、シオン・ヴェルクです」

「……それ今言うのか」

「あなたが黙っているために必要です」


そう言った時だけ、ほんの少しだけ呆れたような響きが混じった。


廊下の奥から現れたのは、年配の男だった。

こちらも制服のようなものを着ているが、シオンとは仕立てが少し違う。教師か、あるいは寮監のような立場なのかもしれない。後ろにもう二人ほど控えていたが、前に出てきたのはその男だけだった。


男はまずシオンを見、それからこちらへ視線を移す。

その瞬間、表情のわずかな揺れが見えた。驚きと、戸惑いと、すぐには口にできない何かをまとめて押し込めたような顔だった。


「……その方が?」

「ええ」

「まさか、本当に」

「今は、それで通してください」


それ、って何だよ。

口を挟みたくなったところで、シオンが横目だけでこちらを見る。


今は喋るな。

さっきよりずっとはっきり、そう言われた気がした。


年配の男はまだ半信半疑のままだったが、やがてひとつ息をつく。


「失礼いたしました。では、お名前を伺っても」


ほら聞かれた。

いや、そりゃ聞くよな。名前くらい。


反射で口が開く。

それくらい、何も難しくないはずだった。


「な――」


その一音で、喉の奥が妙に引っかかった。

言い直そうとしても、舌がうまく回らない。なんだこれ。緊張とか、そういうのとは少し違う。自分の口なのに、自分の思った通りに動いてくれない感覚が気持ち悪い。


「なお……」


そこまで出して、続きが急に遠くなる。

いつも通り言えば済む。たったそれだけのはずなのに、言葉が喉の手前でぐずぐずと形を崩して、うまく前に出てこない。


「ノア様」


静かな声が、すぐ隣で割り込んだ。


「少しお疲れです。こちらへ来るまでにも無理をなさった」

「……ノア、様?」

「はい。フェルネスの者です」


違う。

そう言おうとした。


違う、俺はそんな名前じゃない。フェルネスなんて知らない。

けれど、その“違う”が喉の奥で急に重くなる。息を吸い込んだだけで、胸のあたりがきしむように狭くなった。


声が出ない。


シオンは何でもない顔で続ける。


「ノア・フェルネス様です。こちらの不手際で、少々お一人にしてしまいました」

「そうでしたか……失礼いたしました、ノア様」


年配の男は、それで納得したらしい。

戸惑いは残っていたものの、それ以上は追及せず、小さく一礼する。


置いていかれたのは、自分だけだった。


シオンが半歩だけこちらへ寄る。

傍目には、付き添いが主のそばに控えた、それだけの動きだろう。けれど落ちてきた声は、こちらにしか聞こえない低さだった。


「だから申し上げたんです」

「……っ」

「今は、何も断言なさらないでください」


怒っているようでも、脅しているようでもない。

ただ、ひどく静かだった。


「歩けますか、ノア様」

「俺は――」


その先が、また詰まる。


シオンは一瞬だけ目を細め、それから何事もなかったように口調を整えた。


「ええ。あとで結構です」

「……勝手すぎるだろ」

「ご安心を。そう思っていただける程度には、まだ余裕があります」


その言い方に腹が立つ。立つけれど、それ以上に、今ここでいちばん事情を知っているのがこの男なのもわかってしまう。


「……ほんとに、あとで説明しろよ」

「善処します」

「だから善処ってなんだよ」


今度はちゃんと声に出せた。

シオンは返事の代わりに、肩越しに一度だけこちらを見た。ちょっとだけ口元が動いた気がしたけど、笑ったのかどうかはわからなかった。わかりたくもない。


案内されたのは、学院の本棟から少し離れた静かな一角だった。

派手ではないが、客を通すために整えられた部屋らしい。夜の宿直室や応接間とも違う、誰かをひとまず隠しておくための場所、という印象があった。


廊下の途中で、控えていた使用人風の女が一礼する。

年配の教職員と同じく、こちらを見る目に戸惑いが混じっていたが、それでも礼は崩さなかった。


「お疲れでしょう。お部屋へご案内いたします」

「あ……」


何を言えばいい。


本当のことを言うなら、自分でも何が起きたかわからない。

ノアでもなければフェルネスなんて家も知らない。疲れたというより、意味がわからなくて頭が追いついていない。


けれど、それを全部ここで言っていいとも思えなかった。

シオンはあえて黙っている。助け舟を出す気はないらしい。


ほんの一瞬迷ってから、口の中でいちばん角のない言葉を探す。


「……ご迷惑を、おかけしました」


それだけ言うのが精一杯だった。


使用人の女は少しだけ目を丸くし、それから柔らかく頭を下げる。


「とんでもございません。どうぞ、お気になさらず」

「ありがとうございます」


続けて出たその一言は、さっきより少しだけ自然だった。

少なくとも、喉は詰まらなかった。


部屋へ通され、扉が閉まる。

ようやく人の視線が外れたところで、背後からシオンの声がした。


「……及第点です」

「それ、褒めてる?」

「今のは悪くありません」

「何の試験だよ」

「少なくとも、余計なことはおっしゃらなかった」


振り向くと、シオンは相変わらず整った顔でこちらを見ていた。

冷たい、と最初に思った印象は変わらない。けれど今は、それだけでもなかった。


「フェルネスって何」

「あとで説明します」

「そればっかりだな」

「ええ。今はそれで十分です」


十分なわけがない。

こっちはついさっきまで、寝る前の飲み物を買いに行こうとしていただけなのだ。財布だけ持って、スマホも置いて、上着すら着ていない。なのに今は、王立学院だのフェルネス家だの、いきなり人生にない単語ばかり増えている。


しかも増えた名前がノアだ。

なお、までは自分で言った気もするけど、その先はだいぶ勝手だった。


机の上に財布を置く。

そこだけ妙に現実っぽくて、逆に腹が立つ。


「じゃあ、俺はしばらく……ノア・フェルネス、ってことになるのか」


「そう呼ばれるでしょうね」


「勝手すぎるだろ」


「ごもっともです」


「認めるのかよ」


認めるんだ、と思う。

いや、思うけど、それで話が改善するわけでもない。最悪である。


「……わかった」


「何がです」


「わかってないけど、今すぐどうにかなる話じゃないのは」


シオンはほんの少しだけ目を細めた。

呆れているのか、ちょっと感心しているのか、相変わらず読みづらい。


「それで十分です」


シオンは扉の方へ向きながら、平然と告げた。


「今夜はノア・フェルネスでいてください。先のことは、朝になってから考えましょう」


「いや、言い方が軽いんだよな」

「重く申し上げたところで、現状は変わりません」

「正論みたいな顔するのやめろ」

「していません」


してるだろ、と思う。たぶん本人に自覚がないのが一番たちが悪い。


「……ほんとに、説明しろよ」


「善処します」


「だから善処ってなんだよ」


今度はちゃんと声に出せた。

シオンは返事の代わりに、肩越しに一度だけこちらを見た。ちょっとだけ口元が動いた気がしたけど、笑ったのかどうかはわからなかった。わかりたくもない。


扉が閉まる。


ひとりになった部屋で、ノアは――いや、まだこの呼び方に慣れないな、と思いながら、もう一度財布をつかんだ。

冷たい革の感触だけが、コンビニに行くはずだった自分をぎりぎり繋ぎ止めている気がする。


何もわからない。

わからないけど、とりあえず今夜は寝るしかないらしい。

寝て起きたら全部元通り、みたいな都合のいいことが起きてくれれば一番いいのだが、たぶん起きない。


そういう予感だけは、いやにあった。

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