不遇職の俺、ダンジョンで拾った指輪で人生逆転! 憧れのSランク美女パーティが「君以外、もう何もいらない」と言い出して溺愛が止まらない件
■Phase1
迷宮『深淵の喉笛』第十二層。淀んだ空気と魔獣の死臭が混じり合う回廊を、俺は喘ぎながら進んでいた。
「……遅いよ!カイト、あと五分遅れたら、あんたが着くのを待たずに次の階層へ降りるからね!」
冷徹な声が、硬い岩壁に反響する。パーティ『白銀の乙女』のリーダー、騎士エレナだ。腰まで届くプラチナブロンドを一本に結い、白銀の全身鎧を纏う彼女は、まさに「戦場の女神」そのものだった。凛とした青い瞳には迷いなど微塵もなく、その視線は常に前方にある「敵」のみを捉えている。
「は、はい……っ!」
俺は泥水に膝をつきそうになりながら、巨大なマジックバッグを背負い直す。このパーティは、王国中の冒険者が憧れるSランクの至宝だ。
魔術師のリサは、夜の海を思わせる深い蒼の髪を揺らし、知的な片眼鏡越しに魔導書を見つめている。彼女にとって俺は「計算の邪魔にならない場所に配置された備品」に過ぎない。
そして最後尾を歩く聖女ミリア。俺が密かに恋い焦がれる美しい女性。柔らかな亜麻色の髪とすべてを赦すような微笑みを湛えているが、その癒やしの手は戦う勇士のためにのみあり、荷物持ちの俺に祈りが捧げられることはない。
実は、彼女たちがこれまでに雇った荷物持ちは、誰もが一週間と持たなかった。
「あいつらは人間をロバだと思っている」
「美しすぎて、自分の惨めさに耐えられない」
そう言って皆、逃げ出した。
だが、俺だけは一年間、ギリギリ耐えて、彼女たちにしがみついてきた。実家の多額の借金を返すためという事情もあったが、それ以上に、俺は彼女たちが時折見せる「プロとしての厳しさ」に、どうしようもなく惹かれていたのだ。彼女たちが命懸けで戦う背中を守るために、自分にできる唯一のこと――荷物を運び、キャンプを整えること――を、俺は誇りに思っていた。
「……カイト。水、飲みなさい」
休憩中、エレナが無造作に水袋を投げてきた。
「ありがとうございます、エレナさん」
「礼はいらない。……あんたに倒れられたら、私たちの荷物が運べなくなる。今のところ、あんた以上に根性のあるロバは見つかってないから、壊れるのは困るのよ」
エレナは俺の顔を見ることなく、剣の手入れを再開する。
リサも「来なさい。余った魔力を廃棄する」と言って、俺の腫れた足に冷却魔法をかける。
ミリアは「道具の管理は基本です」と、俺の破れた服を浄化する。
それは、はじめ俺への優しさだと思ったが、どうもそうではないらしい。彼女たちの言葉はどこまでも実利的で、俺を「便利な道具」として扱っている。俺はそのわずかな手入れの中に、勝手な希望を見出していただけなのだ。
(いつか、認められたい。……いつか、対等な仲間だと笑い合いたい)
そんな時だった。崩落した小部屋の片付け中、俺は淡い桃色の石が埋め込まれた真鍮の指輪を見つけた。ふと拾い上げた瞬間、指先から脳へ、熱い電流が走った。
『――愛されたいか?』
脳内に、直接声が響いた。甘ったるい女の声。
『お前は耐えてきた。使い捨ての道具として扱われる痛みに。……もしこの指輪をはめれば、お前の献身は正当に評価され、彼女たちはお前を正当に評価するだろう』
俺は、指輪を握りしめた。俺が頑張っているのは、借金のためだけじゃない。冷たい言葉を浴びせられても、無視されても、俺は彼女たちが好きだった。
「少しだけでいい。彼女たちの視線の端に、俺という人間を置いてほしい」
そのささやかな願いが、指輪を指に滑り込ませた。
「……カイト。いつまで油を売っているの」
エレナが部屋に入ってきた。いつものように叱責が飛ぶはずだった。だが、俺の手元で指輪がかすかに桃色の光を放った瞬間、彼女の瞳に、ほんのわずかな「揺らぎ」が生じた。
「……あら。カイト、その指輪、拾ったの?」
声が、いつもよりほんの少しだけ柔らかい。
「あ、はい。……す、すみません、勝手に。ちゃんとギルドに報告します」
「いいわよ。頑張っているあなたへの、ダンジョンからの贈り物かもしれないしね」
エレナが、小さく微笑んだ。それは、一年間一度も見せたことのない、氷が溶けるような穏やかな笑みだった。
「……さあ、行きましょう。今日は少し、ペースを落としてあげるから」
彼女の手が、俺の肩をポンと叩いた。温かかった。俺は胸が高鳴るのを感じた。指輪の力が、彼女たちの頑なな心を少しだけ解きほぐしてくれたように見えた。
背後からやってきたリサも、俺の顔を見て「……あら、なんだか今日のあなたは、少しだけ賢そうに見えるわね」と冗談めかして笑った。
ミリアもおれの顔をじっと見て、「カイトさん、無理をしないでくださいね」と、初めて俺の名前を呼んでくれた。
(ああ……指輪のおかげか?俺は、ようやく認められ始めたんだ)
俺を包む空気は、春の日差しのように温かくなっていった。
■Phase2
指輪をはめてからというもの、俺の周囲の空気は劇的に変わった。それは、昨日までの寒々しい冬の迷宮が、一晩で百花繚乱の春に変わったかのような変化だった。
「カイトくん、お疲れ様。……少し、汗をかいてしまったわね。汚れてしまったら可哀想」
夕食後、キャンプの焚き火を囲んでいた時のことだ。聖女ミリアが、柔らかな布をぬるま湯に浸し、あろうことか俺の頬を拭き始めた。以前は俺に触れることさえ避けていた彼女の指先が、今は愛おしそうに、震えるほど丁寧に俺の肌をなぞる。
「み、ミリアさん!?自分でやりますから!」
「いいのよ。……それとも、私に触られるのは嫌?」
上目遣いに俺を見つめる彼女の瞳は、潤んでいて、熱っぽい。彼女が身を乗り出すたびに、清潔な石鹸の香りと、聖女らしい清楚な、それでいてどこか煽るような甘い体温の匂いが鼻腔をくすぐる。かつての彼女からは想像もできないほど、その距離は近い。彼女の豊かな胸元が俺の腕に柔らかく押し当てられるたび、頭がどうにかなりそうだった。
「ずるいわよ、ミリア。……カイトくん、こっちに来て?私の膝、空いてるわよ」
魔術師のリサが、俺の腕にしなだれかかってくる。彼女の蒼い髪からは、いつも研究室で漂っていた薬草の匂いではなく、まるで熟した果実のような、芳醇で芳しい香りが漂っていた。「リサ特製の冷涼飲料よ。魔法であなたの舌を最高に気持ちよくしてあげる」リサはそう言って、俺の耳元で甘い吐息を漏らしながら、冷たいグラスを俺の唇に当てた。彼女のしなやかな太ももが俺の腰を挟み込み、密着した部分から伝わる熱が、俺の劣等感を溶かしていく。
「カイト、ルートの相談だ。……近くへ来い」
騎士エレナが、地図を広げて俺を手招きした。彼女はいつも通り凛々しい顔を崩さないが、その頬はうっすらと赤みを帯びている。俺が隣に座ると、彼女は当然のように俺の肩に自分の頭を預けてきた。
「エレナさん、近いですよ……」
「……嫌か?私は、こうして君の匂いを嗅いでいると、剣を振るうのが馬鹿らしくなるほど落ち着くんだ」
鋼鉄の鎧に守られていたはずの彼女の肌は、触れてみると驚くほど柔らかかった。プラチナブロンドの髪が俺の首筋をくすぐり、彼女特有の、凛とした香気と汗の混じった、暴力的なまでに女を感じさせる香りが脳を麻痺させる。
(ああ……これだ。俺が求めていたのは、この時間だったんだ)
俺は今、王国で最も美しいとされる三人の女性に、文字通り骨抜きにされている。リサに膝枕をされ、ミリアに「あーん」で果物を食べさせてもらい、エレナに身を委ねられる。指輪の力は素晴らしい。彼女たちの心の中に、カイトへの愛を、すくすく育てているように思える。
「……ねえ、カイトくん。これからは、ずっとこうしていましょう?」
ミリアが俺の指先に、そっと自分の唇を寄せた。リサが俺の耳たぶを甘噛みし、エレナが俺の背中を愛おしそうになぞる。欲望を刺激する甘い香りと、三者三様の柔らかな感触が俺の五感を刺激する。俺を包む空気は、春の日差しのように温かく、そして底知れぬほど甘やかだった。
「カイトくん。……大好きよ」
三人の声が重なる。俺は、自分を「ロバ」と呼んだ彼女たちの冷たい声を、もはや思い出すことができなかった。借金の重みも、昨日までの孤独も、すべてはこの瞬間のためのスパイスだったのだと思えるほど、俺の心は満たされていた。
翌日の朝も、幸福は続いていた。エレナが俺の靴を丁寧に磨き上げ、リサが俺の荷物袋に「重さをゼロにする」という、本来なら国家機密レベルの高度な付与魔術を施してくれた。
「これで、カイトくんは手ぶらで歩けるわね。さあ、私の手を繋いで行きましょう?」
三人の美女に囲まれ、俺は迷宮の中を、まるで花畑を散歩するかのような足取りで進んでいく。彼女たちの熱い視線と、時折触れ合う肌の熱。かつて「ゴミ」のように扱われた荷物持ちは、今やこのパーティの王様であり、すべてを支配する寵児となったかのようだった。
■Phase3
第十五層、古代の貴族が愛したと言われる豪華な隠し浴室。湯気に満ちたその場所で、聖女ミリアが俺を手招きしていた。彼女は薄手のシルクのような寝衣を身に纏い、濡れた生地がその豊かな曲線にぴたりと張り付いている。かつての彼女にとって、男性との混浴など万死に値する行為のはずなのだが、今の彼女にあるのは俺への一途な献身だけだ。
「さあ、カイトくん、座って。今日は私があなたの背中を流してあげる。……一年間、ずっと重い荷物を背負ってきたあなたの背中、私が一番よく知っているもの」
「え、でも、ミリアさん……」
「いいのよ。あなたの役に立てることが、今の私にとっては何よりの祈りなんです。……ふふ、くすぐったい?赤くなっちゃって、可愛いわね」
ミリアの柔らかな手が、俺の肩に触れる。温かな湯と、彼女の肌から漂う甘い花の香りが混ざり合い、脳を蕩けさせる。背後にぴったりと密着した彼女の体温が伝わり、俺の心臓は破裂しそうなほど脈打った。
「……ずるいわよ、ミリア。カイトくんの髪を洗うのは、私の魔法の役目だわ」
リサが、これまた目のやり場に困るような姿で現れた。彼女が指を鳴らすと、芳しい香りの泡が俺の頭を包み込む。彼女の細い指が、愛おしそうに俺の地肌をマッサージする。
「ねえ、カイトくん。このまま、ずっとここで暮らしましょう?迷宮攻略なんてどうでもいい。あなたと、私。それだけで、世界は完結しているんだから……」
エレナもまた、いつもの堅牢な鎧を脱ぎ捨て、一人の女性として俺の隣に座った。彼女の白銀の肌が俺の腕に触れるたび、彼女は恍惚とした溜息を漏らす。
「カイト。……君が望むなら、私は剣を捨てる。君を守る盾にはなるが、もう誰かを傷つけるための力はいらない。君を愛でるためだけに、私の手を使いたいんだ」
三人の美女に囲まれ、湯船の中で肌を寄せ合う。まさに男の夢。俺は、この世のすべての快楽を手に入れたのだと確信した。
「……あ、記録盤を忘れてきちゃった。ギルドへの定時報告、まだだったわね」
ミリアが不意に思い出したように言った。以前のミリアならありえない失態だ。
「カイトくん、悪いけれど脱衣所に置いてある私のカバンから、記録盤を取ってきてくれない?」
「あ、ああ。分かったよ」
俺は少し名残惜しさを感じながらも、幸せな余韻に浸りながら脱衣所へ向かった。ミリアの鞄を覗くと、ギルドから支給されている魔導記録盤が光っていた。ふと、画面が点灯した。パスワード入力画面。以前、ミリアが入力しているのを偶然盗み見てしまったことがあった。彼女たちの誕生日を組み合わせた、単純な四桁の数字。
「……ちょっとだけ、俺のことがどう書かれてるか見てみようかな」
軽い、本当に軽い気持ちだった。ロックが解除され、共有メモのページが開かれた。そこには、タイトルが見えた。
『カイトのための秘密メモ:絶対に本人には見せないこと!』
そこには、一年前からの彼女たちの本音が、痛いほど瑞々しく綴られていた。
『○月×日:今日のカイト、魔獣の咆哮に震えながらも、私の予備の剣を絶対に離さなかった。思ったより勇気あるね。あんなに怖がっているのに、私たちのために必死でついている。……今までの荷物持ちとは違うみたいね。』
『○月△日:カイトの靴がまたボロボロ。……次の街で、最高級の防護靴を買ってやろうかな。「実験の余りよ」って言えば、卑屈なあいつでも受け取ってくれるかな?頑張ってるご褒美に、最高級の装備をプレゼントしたいんだけどね』
『○月□日:彼は自分が「荷物持ち」に過ぎないと思っているけれど、私たちにとっては、彼こそがこのパーティの『心』。早く借金を返し終えて、私たちの対等なパートナーになってほしい。その時は、ちゃんと私の想いを伝えよう。』
「……あ」
喉の奥から、乾いた音が漏れた。
指輪の力なんて、いらなかった。
彼女たちは、最初から俺を見てくれていた。
あの冷たい言葉も、すべては未熟な俺を死なせないための、彼女たちなりの不器用で、精一杯の「優しさ」だったのだ。
俺は、自分の左手を見た。そこにある桃色の石が、今はどす黒い怨念のような輝きを放っている。
「――カイトくん、遅いわよ」
背後から声がした。振り返ると、湯船から上がった三人が、薄い衣を纏っただけの姿で立っていた。だが、その光景に劣情はなかった。ただ、悍ましさだけがあった。
「ミリア、リサ、エレナ。これ……これ、見ちゃった。ごめん。俺、最低だ。君たちの気持ちを……」
俺が記録盤を差し出すと、ミリアがそれを奪い取るようにして覗き込んだ。その瞬間、彼女の微笑みがぴたりと凍りついた。
「……ああ、これ。目障りだったのよね」
ミリアが、記録盤を床に叩きつけた。粉々に砕け散る魔導具。
俺は固まった。
「えっ?何?」
「ねえ、カイトくん。正直、こんな古い記憶、どうでもいいの。今の私は、この記録盤に書いてある私よりも、ずっとずっとあなたを愛している。私だけが、あなたを一番幸せにできるのよ」
「……いいえ、ミリア。それは違うわ」
リサが、冷ややかな声で割り込んだ。その瞳には、かつての知性はなく、獲物を狙う肉食獣のようなぎらつきがあった。
「カイトくんを一番理解しているのは私よ。魔法で彼の体温も、鼓動も、すべて管理しているもの。聖女の生温かい愛なんて、彼には不要だわ」
「黙れ、リサ」
エレナが、剣を持たぬ手でリサの肩を突き飛ばした。
「カイトを守る盾は私だ。君たちのような軟弱な女に、彼の隣に立つ資格はない。カイト、こっちへ来い。……私の腕の中だけが、君の居場所だ」
「……何よ、その言い方。騎士のくせに、カイトくんを独占しようだなんて」
「私こそ、カイトくんのために神を捨てたのよ?誰にも譲るはずないじゃない!」
浴室の蒸気が、一気に凍りつくような殺気に変わった。三人は俺を無視して、互いを憎悪の目で見つめ合った。指輪の呪いによって「カイトを愛せ」という命令が極限まで増幅された結果、彼女たちの「愛」は、自分以外の存在を許さない凶暴な独占欲へと変質していた。
「やめてくれ……!三人で仲良くしてたじゃないか!」
「仲良く?ふふ、そんなの『愛』じゃないわ」
ミリアが、聖印を握り潰しながら笑った。
「愛とは、相手のすべてを支配し、他者を排除すること。……ねえ、リサ、エレナ。カイトくんをこれ以上惑わすなら……あなたたち、消えてくれる?」
「それはこちらのセリフよ」
リサの手のひらに、ドス黒い魔力の塊が凝縮される。
「カイトくんの視界に、あなたたちは邪魔。……彼が私だけを見ていれば、世界は平和なの」
「……殺してでも、私のものにする」
エレナが、丸腰のまま殺気を放つ。
かつてあれほど信頼し合っていたSランクパーティが、俺という「獲物」を巡って、互いの喉元を食い破らんとする獣に成り果てていた。俺が「愛されたい」と願った結果、彼女たちの絆も、誇りも、優しさも、すべてが憎悪の燃料へと変わってしまったのだ。
「あああああ!!」
俺の絶叫は、女たちの罵声と、激突する魔力の轟音にかき消された。崩れゆく浴室の中で、俺はただ、真鍮の指輪が放つ不気味な輝きを見つめることしかできなかった。
■Phase4
王都の喧騒から遠く離れた、人跡稀な森の奥深く。そこに、かつての英雄たちの終着駅がある。かつて「白銀の乙女」と称えられ、王国の希望だった三人の美女たちは、変わり果てた姿で、その家にいた。
「カイトくん……あ、あ、カイト……くん……」
寝たきりの状態になった聖女ミリアが、焦点の定まらない瞳で俺を探す。彼女はあの日、自らの脳を焼き切り、カイト以外のすべての記憶を忘却の彼方へ葬り去った。俺は彼女の汚れを拭き取り、赤ん坊に食事を与えるように、ドロドロに溶かしたスープを口に運んでやる。彼女の喉から漏れるのは、かつての清らかな賛美歌ではなく、意味をなさない幸福そうな嗚咽だけだ。
「……リサ。動いちゃダメだって言っただろう」
部屋の隅で、空っぽの虚空を見つめながら、自分の髪を引き抜こうとしていたリサを抱きとめる。彼女は今、俺が視界から消えると、自分の存在を維持できずに自傷行為を始めるだけの「依存の塊」だ。そして、部屋の入り口では、両腕のないエレナが、まるで彫像のように立っている。
「カイト……私は……君の……盾……。君の……もの……」
彼女は一日中、そう繰り返している。あるのは「カイトの所有物である」という、呪いのように刷り込まれた本能だけだ。俺が壊したのだ。指輪をはめ、彼女たちの不器用な愛を「不都合なもの」としてねじ伏せた瞬間に。
ふと、俺は自分の左手を見た。そこには、人差し指と中指がない。
三ヶ月前、俺は絶望のあまり、台所の包丁で自らの指を根元から叩き落とした。指輪の石が指の肉に食い込み、もはや引き抜くことができなくなったからだ。指ごと捨てれば、この悪夢から覚められると思った。
だが。
『――きゃはははは!無駄だよ、無駄。痛かったろう?カイト』
脳裏で、指輪が裂けるような高い声で笑った。切り落としたはずの指輪は、翌朝には隣の中指に移動していた。そして、中指を落とせば薬指へ。今や指輪は、失われた2本の指の「隣」に、まるで最初からそこにあったかのように、平然と鎮座している。
「……やめてくれ……。頼むから、もう解放してくれ」
『どうして?お前が自分の意志で選んだんだよ、カイト。お前が「愛されたい」と願い、その指を差し出したんだ。自ら望んで繋いだ鎖は、神様だって解けない。お前が死ぬまで、いや、死んだ後もお前たちの魂は混ざり合ったままだ』
指輪の石が、脈打つ心臓のようにどす黒く光る。
『見てごらんよ、この幸せな光景を。お前が指輪を拾わなければ、今頃お前は借金を返し終え、彼女たちに囲まれて、本物の「仲間」として笑い合っていた、かもね?……あの記録盤の日記の続き、教えてやろうか?ミリアはね、次の街で聖女をやめて還俗して、お前にプロポーズするつもりだったんだよ。「荷物持ち」の君を、一生支える「妻」になりたいってねえ!きゃはははは!』
「黙れ……黙れと言っているんだ……!」
俺は唯一残った右手で、耳を塞ぐ。だが声は脳の芯から響いてくる。俺が死ねば、彼女たちは自ら死を選ぶだろう。俺には、死ぬことさえ許されない。彼女たちは幸せそうに笑いながら地獄のような日々を送る「奴隷」として、俺に一生を捧げてしまったのだ。
生活は困窮を極めていた。彼女たちの治療費と薬代を稼ぐため、俺は今も、人買いのような闇の仕事で荷物を運び続けている。俺は、今や、意思疎通もままならない三人の「生きた残骸」を背負い続けるしかない。
「カイト……くん……だい……すき……」
ミリアが、俺の指を弱々しく掴む。指輪のついたその指を。俺はその指を握り返し、溢れそうになる涙を堪えて、無理やり口角を吊り上げた。
「ああ……俺もだよ、ミリア。……幸せだなぁ、俺たちは」
俺の独白は、誰に届くこともなく、静まり返った森の闇に吸い込まれていった。欠けた2本の指の断面が、ズキズキと、後悔の味を噛み締めるように疼き続けていた。
(了)




