16話 ウィーンorジーorヴーor……
馬鹿だ。僕は本当に馬鹿だった。
少し考えれば分かる事なのに。否、少しも考えなくたって分かりそうなものなのに。
亜空が右手を差し出してきたのを見て、つい反射的に右手を出してしまった。自分が今何を持っているかを完全に忘れて。
忘れられるような部類の物ではないだろうに。僕の精神はどうかしてしまっているのだろうか。
結果、鞘香さんから預かった【びてびか】は、見事に床に落下した。
ごとっ、と鈍い音がすると同時に、僕の頭は一気に冷えていった。
いや、それまでも別に浮かれていた訳でもないのだけれど。
何が最悪と言って、これを渡さなければいけないのが千鶴子さんだという事だ。勝手に決め付けるのはいけないのだろうが、これを理由に何かとたかられそうな気がする。気がするだけならいいのだけれど。
「おいおい、茉莉さんよー、どうした? 笑顔のまま固まって。パントマイムでも練習してんのか? これどう見てもごみだろ? 別に落としたからってそんな問題ないんじゃねーの?」
ああそうなのだった。これはパッと見ごみ――というか鉄の塊――にしか見えないのだった。
そして現状を正しく認識した僕は、これが盗撮機である事は何としても隠したくなった。この亜空という人間の性格がまだ全然分からないというのもあったが、それ以前に、初対面の相手に会う時に盗撮道具を持ち歩くなんて、どうかしている。どうかしていると思われる。
「おいおい、本当に大丈夫か? もしかしてお前の【代償】に関係してんのか?」
心底心配そうな声を掛けてくれる亜空。
いい奴らしい。だが、それならなおの事隠さなければならない。
「あ、ああ、大丈夫だよ。ちょっと、ね……」
かと言って、いい言い訳が直ぐに思い浮かぶ程、器用な人間では残念ながらないのだった。
「ちょっと?」
案の定聞き返してくる。そりゃあそうだろう。あんな微妙な返答をされれば誰だってそうする。僕だってそうする。
「……ちょっと物を落としたくらいで、この世が終わった様な衝撃を受けるお年頃なんだよ」
栞が、フォローなのか何なのかよく分からない事を言う。
「はあ?」
聞き返す亜空。
「まあ一言で言えば多感なお年頃と言う奴だ。特に深い意味は無いと思うよ。ねえ茉莉君?」
やはりフォローしてくれていたらしい。分かりにくかったが。
「あ、ああ、ちょっと予想以上に大きな音がしたから」
「おいおい、そんな事くらいで驚いてて【此処】でやっていけるのか?」
「うん、そうだね、多分あれだよ。大きな事で驚く感情が満タンになっちゃってて、逆に小さな事に敏感になってるんだよ」
「はあ? ……栞みたいな言い方をするんだな。何か分かるような分からんような事を」
「一緒にしないでもらえるかい?」
少し不愉快そうに栞が言う。でも無表情なので、本当の所はどう思っているか分からなかった。なんて希望的な観測をしてみても、どうせ99パーセント声と同じ感情なのだろうけど。
「【此処】は本当に不思議な所だね、この部屋だけを取ってみても。この部屋は亜空さんの【能力】だって聞いたけど……」
「……」
質問のつもりだったのだけれど、無視されてしまった。
というか、視線が僕の少し上に行っている気がする。
「……ああ、茉莉君。もう少しこちらに来て、もう一度同じ事を聞くといい」
意味がよく分からなかったが、栞の忠告に従う。
すると、今度は僕の目をしっかりと見ながら、答えた。
「ああそうだ。……悪いな。言うのが遅れてしまった。俺の【代償】は、【認識できない
空間がある】事なんだ」
「認識できない?」
そんな簡単に【代償】を言ってもいいのか? そんなものは、普通隠しておきたいものなのに。自分の弱点をさらけ出すようなものだぞ?
僕の言いたい事が分かったのか、亜空が付け足す。
「……まあ、隠しておいた方がいいんだろうが、そういうのは性に合わないんだよ」
そんなものなのか? 僕とは余りに考え方が違うので、直ぐには理解できない。
「というかな、俺の場合隠しておけるような【代償】でもないんだよ。むしろ知っておいてもらって、さっきの栞みたいに何かと気を使ってもらわないと」
「別に私は気を使っているつもりはない」
「ならいいんだが。……それより、何か変な音がしないか?」
変な音? 確かに、何か機会音がする。
……というかこれは。
「あ、そうだ!! しまった!! 用事を思い出した!! 悪いけど、また今度ゆっくり話をしよう!! 亜空さん!!」
「おう? 変な奴だな。疲れてんのか?」
「いや、というか、……疲れてるのかもしれない」
「まあ分かった。疲れてんなら今日は早めに寝ろよ? あと亜空でいい。気持ち悪いし」
「分かった、ありがとう、亜空」
「ああ、またな」