3話 エイチ
鞘香さんに先導してもらう形で、僕は廊下を歩いた。
時々付いてきてるか確認するために振り向きはするものの、特に会話らしい会話も無かった。
向こうがどう思っているかは知らないが、僕にとって無言というのはなかなかに心地いい。もし彼女が気を使って話しかけてくれば、僕もそれに気を使って、共に気疲れしてしまうからだ。
だから、最初のうちはこれでいい。その人の人となりが分かってくるまでは、このくらいの距離感がちょうどいいのだ。特に理由もないのに、ただ自分が気まずいからという理由で話しかけて来る人間の方が、僕としては苦手だった。
もし向こうが今「気まずい」とか思っていないのなら、彼女とは気が合いそうだ。
T字路で思い出したように立ち止まり、鞘香さんが言った。
「を、そうだ茉莉君。あの部屋から出てきたって事は、千寿にはもう会った?」
「はい、彼女にコーヒーを頼まれまして」
厳密には頼まれてはいないんだけど。
「をを、なるほど。だから自販機探してたのか。……それで、どう? 千寿怒ってた?」
「別に怒っては無かったと思います」
遅いなあとは言っていたけど、怒った様子は無かった。
「そっかー、よかったよかった。……ところでさー、さっきからずっと気持ち悪かったんだけど、敬語やめてもらっていいかな?」
「え、はい。いや、うん。分かった」
「英知も嫌がったでしょ? 敬語」
「いや、それは……」
まだ会ってないし。
というか、敬語を使うかどうかはかなりの部分相手の話し方に左右されるのだけれど。もし千寿さんが鞘香さんと同じように言って来ても、僕はそれでも敬語を使ってしまうかもしれない。というか彼女は、多分だけど僕より年上に見えた。失礼かなこの考えは?
「言われなかったの!? って、あ、そをか!! 君英知にまだ会ってないのかな、ごめんごめんうっかりしてた」
「あれ? 鞘香お前……部屋に戻ったんじゃ無かったのか?」
左手の方向から、男の声が聞こえてきた。
「を、英知。あなたこそ図書館に行ったんじゃ無かったの?」
「ああちょっと気分が変わってな。ん? もしかしてお前が茉莉か?」
「ええ、は――」
そういえば、ついさっき鞘香さんにアドバイス貰ったばかりだったか。
「――うん。そうだけど」
「そっかそっか。よろしくなー。「茉莉」とはまた陽気でいい名前だなー、と思ってたんだよ。まあ漢字は違うけど」
「それを言うなら「英知」もいいと思うけどな、いかにも頭がよさそうで」
「お、そう思う? マジで? そう言ってくれると嬉しい」
その僕達の会話を横で見て、
「うわ何? 男二人して褒めあってる、気持ち悪い……」
と鞘香さんが呟いたのが聞こえたが、聞こえなかったフリをした。多分英知もそうなのだろう。
「それで? どうしたこんな所で二人して棒立ちして」
「それがねー英知ー。自販機行こうと思ったんだけど、迷っちゃって」
「迷ってたの!!?」
心の中で突っ込もうと思ったが、あまりにも驚いたので、思わず声が出てしまった。