2話 サヤカ
「……遅い……なあ」
と、ふいに千寿さんがふと呟いた。主語が無かったし、その声の小ささ加減から、ほぼ百パーセント一人事だったのだろうが、気になったので聞いてみた。
「何がですか?」
「鞘香の事です。この部屋を荒らすだけ荒らしておいて、急に「そうだ!!」って叫んで出て行ったんですが、そのまま……」
「帰って来てないんですか?」
「そうです。何もおもてなししないのも悪いですから、コーヒーでも……っと、コーヒーメーカーは鞘香が壊したんでした。……これから毎回買うのか……少し憂鬱ですねぇ」
そう言い、ふぅ、と小さく溜め息をつく。
「買う? ですか?」
「ああ、茉莉さんは今日いらしたんですね。そう言えば」
「正確に言えば今日来た訳ではないけれどね」
栞が千寿さんの言葉を正す。確かに僕は【此処】に来たのは一週間も前だけれど、こうして動き回っているのは今日が始めてな訳で。だから、
「まあ実際今日来たようなものです」
「そうですか。なら知らなくても仕方が無いですね。でも、何故、栞さんに教えてもらってないんですか?」
「順番というものがあるだろう?」
「うーん。それならアレは結構重要度が高いと思われますが」
「……まあ、気分の問題だ」
「そうですか」
何でだ? 何でそこで納得するんですか千寿さん?
「ではちょっと行って買って参ります」
と、千寿さんが立ち上がろうとするのを、慌てて引き止めた。
「ちょ、どこに行くんですか?」
「? ですから、自販機の所ですけど?」
いかにももう説明しました的な顔してますけど、結局うやむやになってそのままですからね? そんな困ったような顔をされたらこっちが困ってしまう。というか、
「自販機があるの【此処】!?」
「ええまあ」
「あるよ」
と、二者二様の反応を見せる。しかも二人とも何でコイツはそんな事で驚いてるんだ、という顔をしている。お、僕も何気に人の顔を読めるようになってきたんじゃないか? とかまあそんな事は本当にどうでもよくて。
何なんだ? 本当に《此処》という場所は? 今まで深く考えないようにしてたけど、何かおかしくないか?
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まあ。そうか。そういう事もあるかもしれないな。自販機だってあったりするだろう。
「だったら、僕が行きますよ」
「? 何にですか?」
だからそんな不思議そうな顔をされても。この会話の流れなら分かるだろうに。
「だから、自販機に、ですよ。コーヒーでいいんですよね?」
「……おや……茉莉君、君……」
「ん? 何?」
「いや、以外と気が利くなあと」
「君は僕をどんな目で見てるんだよ」
「いやいや別に?」
何だか釈然としない所はあったが、とにかく僕は部屋を出た。
と、大変な事に気付いた。場所を聞いていなかったのだ。いまさら戻るのは決まりが悪すぎるので、とりあえずこの辺りをみてみようかなぁと思い、辺りを見回すと、目の前の柱の陰から誰かがこちらを見ているのに気付いた。
「……あの」
「……」
困った事に向こうは無言でこちらを見続けている。というか睨んでないかな、あれ。
仕方ないので、もう一度声を掛ける。
「……あの?」
「をもしろくないなぁ」
「はい?」
「をもしろくないって言ったの!! 君、茉莉君だよねぇ?」
「まあ、そうですけど、貴方は?」
「何であなた【それ】に掛からないの? もしかして両利きだったりするの?」
「いや僕は右利きだけど……ああもしかして君、鞘香さん?」
「え”、何? 気持ち悪いこの人。名乗っても無いのにこっちの名前を当てるとか」
「いやいや、貴方のトラップにはやたらと被害を受けてますから、それで印象に残ってたんですよ」
と、僕が言うと、急にぱっと表情が明るくなった。
「え!? 掛かったの!?」
「まあ、はい」
「で!? で!? どうだった!? どうだった!?」
「いや……」
地味にむかつきましたと本当は言いたかった。
「驚きました」
僕がそういうと、分かりやすくご満悦な表情を作って、彼女は言う。
「で? 今から何するところなの? 何か困ってるみたいに見えたんだけど」
「……自販機の場所を探してるんですが」
「をを、それなら私が連れて行ってあげるよ、ほらこっち」
先導してくれる鞘香さんの背中を見ながら、その行為をありがたく思う反面、確か千寿さんはこの人を待ってたのに、いいのかなぁと思った。