序
「……茉莉君。一つ君に相談があるのだけれど――」
彼女はそう言って僕のやや斜め後ろにそっと立つと、話を始めた。いつもと同じように会話を始めた。
そうしてどこか遠くを見つめるように、少しの間じっとしていたが、やがて僕の横に座った。
座って、少し間があった。どこかいつもと違うように感じたが、どこも違わないのだろう。
何かを躊躇っているようにも見えたが、そんなのは僕の見間違いに決まっている。
なぜなら。
なぜなら僕達はこの変わらない世界を憎からず思っているからだ。
否、愛していると言い切ってしまってもいいかもしれない。
この世界はすべからく予定調和で、奇妙で余計でくだらないものが入り込むような余地はない。
規則正しく、決して狂わないこの世界に、これ以上何を望めるというのか。
狂わないという事は大事な事だ。
狂わないということは、正常であり続けるという事で、正解であり続けるという事で、平穏が約束されているという事で、つまりは不変という事だから――
「――聞いてくれるかい?」
やはり僕の思い違いだったのだろう。
いつもと同じように、いつもと同じニュアンスで、いつもと同じ口調で、彼女は言葉を続けた。
この変わらない世界を、僕も彼女も愛しているのだ。
だから僕は、余計な余地に入り込む隙を与えないように、いつもと同じように、ただ「いいよ」とだけ答えた。
そうすれば今日も一日、平穏な日々がまた一つ重なるのだと、そう思って。
それなのに彼女は、いつもと変わらぬ表情で、口調で、抑揚で、まるで呼吸をするかのような自然さで、
いつもと異なる事を言った。
「茉莉君、私はね、一回死んでみようかと、そう思うんだ」
冗談だと思った。そんなくだらない冗談を言うなんて、今日の彼女はどうしたのだろうと。
またいつもの本気か冗談か判断に困る悪ふざけだと思ったし、そうである事を願った。
そうでなければならない。これは、冗談の一種でなければならないのだ。
彼女は時々答えようのない、そもそもどう答えた所でそれが答えとはなり得ない質問をして、僕を困らせる。
今回もその類だと思った。思おうとした。
でも長い付き合いの中で僕は、彼女の事を少しくらい分かったつもりでいる。
彼女が冗談を言っているか、それとも真剣なのかくらいは分かるのだ。
――彼女までも、狂ってしまったのだろうか。否、狂ってしまうという表現はいかにもよろしくない。正常では無くなってしまった、耐えられなくなったのだろうか。
いや、いいや。そんな筈はない。だって彼女は。彼女は。
「茉莉君? 君ね、顔芸の練習なんて今やる必要はないだろう? 大して面白くもないし、その変な顔を即刻やめてくれないかい?」
いつもの彼女だ。口は悪いが、悪すぎるとも時々思うが、彼女は狂ってしまった訳ではなかったのだ。
「ごめんごめん。君が急に変な事を言い出すからさ。それにしても、今日はいつも以上に口が悪いね、栞」
「ん、そんなのは君の思い過ごしだろう。私は思った事を言っただけだよ」
「いや、それならそれでやっぱり傷つくよ。ところで栞――」
ん? と首を傾げる栞。長い黒髪がさらりと横に流れる。どうしたらこんなにサラサラの髪を維持できるのだろう……じゃない、そんなのはどうでもいいんだ。
「何だ茉莉君、眠そうだね?」
「いや、大丈夫。眠くなんてないよ」
「それなら目にゴミでも入ったのかな?」
「違うよ」
「そうか、でもおかしいな、その二つが違うとすると、目を細める理由なんかあといくらも思いつかないんだが。それともやっぱり顔芸の練習なのかい?」
「違うよ」
「ならばまさか私に――」
「それは無い!!」
あわてて遮ったけれど、実際そうなのだった。彼女に見とれてしまっていた。ここまであからさまに否定してしまうと、認めているようなものなのだけれど、だけど栞はそれ以上僕に何かを聞くことも無く、ただ
「…………ふぅん」
と呟いた。
また少し、沈黙のまま時間が流れる。
僕は何となく、さっきの栞の不穏な発言は無かった事にして、別の方向性に話を進めようと話題を探していたが、そんな僕の心境を知ってか知らずか栞はあっさりと話を元に戻した。
「それでね茉莉君。私、一度死んでみようと思うんだけど」
「……栞、一番疑問な点をまず聞くけれど、「一度」死んでみるっていうのはどういう事だ?」
すると彼女は僕の表情を観察するように、口元には薄い笑みのようなものを浮かべながら言った。
「どういう意味かな? そのまま、言葉通り受け取ってくれればいい」
「そのまま受け取ると困った事になる」
「どうして?」
「どうしてもこうしても、一回死んだら生き返れないだろ? 死んだらそこで終わりなんだから」
何故僕はこんな当たり前の話をしているのだろう。
「そんな事はやってみなければ分からないじゃないか」
あくまでも真剣な表情のまま、栞は続ける。どうやら残念な事に、やはりこれは悪質な冗談ではないらしい。
「やってみなくても分かるよ。人は、一度死んだら生き返らない」
「そうかな?」
「そうだよ。君も何度も見ただろう。ゆるやかに狂って、消えていく人たちを!!」
少し声が大きくなってしまった。
だからだろうか、栞が答えるまでに結構な時間があった。何かを考えているようにも見えた。やはり今日の彼女は何かしらおかしいのだろう。
ただそんなような気がしただけかもしれないけれど。
「………………その件なんだがね、茉莉君」
思い出したくも無い記憶を思い出さないように努力して、それでも感情の奔流を抑えきれずに少し激昂してしまった僕に対し、彼女はいたって冷静に言葉を続ける。
そうなのだ。
彼女は、栞は、いつだって冷静でいつだって軸がぶれない。彼女が取り乱しているのを、僕は見た事がないように思う。
だとしたら、狂い始めているのは、僕の方なのだろうか。
頭の後ろから首筋にかけて、ざわりと寒気が走った。そんな筈はないと決め付けて、僕はその事について考えるのを止めた。
「彼らは、本当に死んでしまったのかな?」
それが当然の事だと、それが当たり前の疑問だと、僕を誘導するように、妖艶なその口唇で、彼女は言葉を紡いでいく。
否、それは僕の見方の問題だ、僕の受け取り方の問題だ。栞は普通に喋っているだけなのだ。
そんな風に混乱する僕を置き去りに、栞はどんどん言葉を重ねる。
「【此処】から出て、どこか別の場所に行っただけなんじゃないかな? その手段の一つとして概念的な死があるという事なのかもしれないよ、きっとね。だから――」
今【此処】にいるのは、僕たち二人だけだ。いつからそうなったのだろう。大事な事の筈なのに、あまり覚えていない。
覚えていないのではなく、積極的に忘れようとしているのだろうか。
他の人々は、狂いながら、苦しみながら、死んでしまった。
否、彼女の言うようにそれを正確に確認した訳ではないのだ。ただいなくなってしまったというだけ。
死んでいるのか、それともどこかに身を隠しているのか、それは分からない。
ある日目が覚めると、当然のように彼、或いは彼女たちは、いなくなってしまっていたのだ。
そうだっただろうか。そうだった筈だ。何故こんな忘れる筈もない種類の情報を、僕はわざわざ思い出しているのだろうか。なんだか頭の後ろの方がチリチリしていた。
まあいい。
彼女の言いたい事も、僕は本当は分かっている。だが理解したくないのだ。その決断は、取り返しのつかない結末を迎えそうで。
僕は変わらないこの毎日を感受したくて、だから彼女を引きとめようとしている。
でも栞は、そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、こう言って誘うのだ。
「私、一回死んでみようと思うんだけど」
と。
(ねえ、だから一緒に逝ってみないかい?)
と。