第2章 ここにいます
魔王アンジェは、妻の亡骸を氷の棺に納めた。千年の時を経ても若く美しく、聡明で勇敢だった娘。迷宮の扉は再び閉ざされ、赤紫色の石もまた、棺に納められた。
彼は妻の帰りを待ち続けた。気の遠くなるほどの年月だった。時間が、こんなに長く感じられたことはなかった。やがて彼は、妻を恋しく想うあまり、病の床についた。
夜となく昼となく、見る夢は愛しい妻のことばかり。魔界の者たちは王のため、奥方の棺の前で代わる代わる祈りを捧げた。どうか一日も早いお戻りを、と。このような状況でも王の力は魔界の隅々に行き渡っていたが、徐々に綻びが見え始めた。リアスを始めとする騎士たちが制御してはいるが、世界の秩序が崩れるのは止めようがなく、人の世にも少なからず影響が及んだ。
ある日のこと。棺が中から光り輝き、初めは七色に、次いで赤紫色に変わっていった。光に包まれた棺は、眩しくて誰も中を見ることができなくなった。あるいは、中は空になっていたのかもしれない。
魔王は夢の中で、どこかの扉がガチャンと開く音を聞いた。
それから三年の月日が流れた。
魔王は、目を覚ましていることが少なくなった。彼はふと、自分の鼻を誰かが摘まんでいることに気付いた。
「おきないなぁ……」
かわいらしい声がする。長く動かしていなかった腕をどうにか持ち上げると、小さな体が自分の上に乗っているのが分かった。
「ふふっ。まおうさま、だいすき」
ぺったりとお腹の上に体を預け、足をバタバタさせて、何かの歌を歌っている。
(あの時と同じだ)
彼は、人間のなりをして彼の里を訪ねたことがあった。生贄の風習をやめさせたい、こちらはそんなことは望んでいないのだと、伝え、信じてもらいたかった。そのためのうまい策を思いつかず、草の上に寝転んで、いつの間にか眠っていた。あの時、妻となるただ一人の女と出会ったのだ。
まだ、いとけない少女だった。まばゆいばかりの温かさに、救われる心地がした。
「お前はどんな娘になるのだろうな」
「おとなにはなりません。いけにえにされるから」
「……そうか」
「でも、およめさんになれば、いけにえにはされないんですって」
「なるほどな……」
里の娘を差し出されても、自分が人界の自然を直接支配しているわけではないのだが……。
「ならば、俺のところに来るか? 花嫁として」
「うーん……かんがえておきます」
おませな口ぶりが愛らしかった。成長するにつれてこんな戯言は忘れてしまうだろうが、この子が大人になるのを待つのも悪くはない。
少女が口ずさんだ歌を、彼は折に触れ思い出した。
十五年が過ぎ、生贄の風習が再開されたと聞いて仕方なく迎えに行ってみたら、彼女がいたのだ。やはり覚えてはいないようだが、構わなかった。ジーナを愛し、愛された。
それにしても、今、ぺちぺちと頬を叩いてくる小さな手は……腑抜けていたら引っ叩きにくればよいとは言ったが。
これは、夢ではないのか。
(いや、この確かな重みが、夢であるはずがない)
彼はついに目を開けた。紫色の瞳が覗き込んでくる。金糸に覆われた丸い顔。間違えようがない。彼女だ。生まれ変わって、帰ってきてくれた。
「……やあ」
「おそくなってごめんなさい。ただいまもどりました」
あどけない口調。
「記憶があるのか? 驚いたな」
すべてまっさらになって、生まれ変わると思っていた。
「天のお方のご配慮です。あなたがおかわいそうで、見ていられないとおっしゃって」
まだ子供の声だが、舌足らずな感じはもうほとんどない。泣きたいほどに懐かしい、妻の話し方だ。
「……あいつが、俺をかわいそうなどと言うものか」
天界の悪友の顔が浮かぶ。
「ふふっ。……あの方は、私があちらへ着いた時、困った顔をなさいました。『ずっとあっちにいてもよかったのに』って」
「それは……天界のルールも何も、あったものではないな」
苦笑が漏れる。笑ったのは、彼女が眠りについて以来、初めてのことだ。
「ええ、本当に。ねぇ、アンジェ様、聞いてください。私、優秀なんです。天界でのお仕事、一万年分を千年で終えました。そのご褒美に、ここに少なくとも一万年はいられるんです」
「あいつめ……」
小さな妻は、幸福そうに、夫の胸に頬をすり寄せた。
「あなたの寿命は、あと十万年とお聞きしました。私は、ここの空気を一万年吸えば、魔の者になれるそうです。残りの九万年も、おそばに置いてください。いいでしょう?」
「入れ知恵されたな?」
かわいい鼻をつっついて、たしなめた。
「天の王様はおっしゃいました。『初めから、一万年分あげればよかったのに。妙に遠慮深いっていうか、臆病っていうか。もう、君が押しかけ女房になるしかないよ。あいつに君が必要なのと同じように、君にもあいつが必要なんだってこと、十万年かけてわからせてやって』って」
殴りたい。妻を、ではない。おしゃべりな友をだ。
小さな背を撫でながら、昔のことを思う。あの頃は、黒髪は膝に届くほど長く、角は生えていなかった。
昔、天界を統べていたのはアンジェだった。骨の折れる仕事だが、自分が最も適していた。生を終えてやってきた者たちは、真っ白になって、次の世へと生まれ変わるのを待つ。抜き取られた彼らの思い出は、王がその身に抱えていく。幸福や愛情ばかりではない。苦悩、憎悪、数々の心残り……。それを術で昇華させ、星に変える。心身ともに消耗した。
(ジーナの記憶を抜かなかったのは、明らかに天の法を犯している。対価として『仕事』とやらを与え、特別に元の世界に戻すとは……自らの命を縮めるような真似を)
だって君が苦しむのを見るのは気に入らないからね、という声が聞こえるようだ。あの時も、そう言っていた。真っ白な長い髪をかき上げながら。
「魔界が気になるみたいだね」
「……無理もなかろう」
「確かにあそこは、王もいなくて荒れ放題だ。だけど、まさか……君が行くなんて、言わないよね?」
「俺ならば……安定させることができる。天界、魔界、人界は互いにバランスをとって存在している。あのままにしておいては、人界だけでなくここも危うい」
「じゃあ、こっちはどうする?」
「……」
「わかった、わかった。僕がやるよ。その代わり、多少やり方が変わっても、文句は言わないでくれるかな。それと、リアスは連れてってやってくれよ。あいつ、僕の弟のくせに君に命を賭けているからね」
(ザイン……すまない。ありがとう)
存在する、という名を持つ彼が全力を注いでくれているおかげで、魔界の安定は思ったより早く実現した。離れてはいても、力を合わせて世界を支えている。
「アンジェ様」
「うん?」
その名を呼ぶのは、今はザインとリアスの兄弟、それにジーナのみ。柔らかな金髪を撫でる。
「どうか一日も早く、お元気になってください。そして……私が大人になったら」
また、名実ともに、妻に。
「ああ……あと十五年というところか」
「はい……すぐです」
「それまでに、愛想を尽かされないようにしなくてはな」
「それは絶対、大丈夫です」
頬に触れた唇から、力が注ぎ込まれる。この分なら、明日には起き上がれそうだ。
十五年の時が過ぎた。ジーナは再び、美しき十八の乙女となった。それまでの間に彼女は、封印されて拗ねていた迷宮を宥め、方々の綻びを繕ってまわった。持って生まれた優しく強い心は、与えられた魔の力と天の力をよくコントロールし、三界はバランスを取り戻した。魔王もすっかり元気になり、世界はより盤石となった。
二度目の婚礼の儀は、大層盛大に行われた。
「ジーナ。お前を愛している」
「アンジェ様、私も愛しています」
離れていた時を埋めるかの如く、夜毎、愛し合う。
二人がどれほど幸せだったのか。
果たして、最後まで共に生きることができたのか。
それは、ここで語るまでもないことだ。
(完)