第1章 魔王様と私 第6話
ひと月後、婚礼の儀が盛大に執り行われた。
「ジーナは種族の壁を越え、この先千年、魔界の光となることを約してくれた。人の子としてのすべての幸福を捨て、この地にとどまることを望んでくれたのだ。その想いに報いたい。俺は余生をジーナに捧げる。未来永劫、我が妻はただ一人だ。皆、心しておくように」
彼は、術を使って魔界全土に声を響かせた。彼の命の玉のように、淡く優しい色の花嫁衣装に身を包んだ私は、各地から寄せられる祝福の声に「ありがとう」を繰り返した。
「魔王様、万歳!」
「奥方様、万歳!」
「この魔界と奥方様の里に栄光あれ!」
歓声は魔界を揺り動かすほどで、この世界の広大さを思い知らされた。私の夫は、こんなにもみんなに愛されているんだ。それが嬉しくて、誇らしくて、幸せだった。
全土からたくさんのお祝いの品が届けられ、魔王様からもお祝いをもらった。
「わぁ、素敵!」
双頭の馬につながれた、大きなそり。屋根が付いている。魔界のおいしい木の実を模した形になっていて、とってもかわいい。
「お前はどれほど崇められようとも、これまでの生活を変えることはないだろうからな。ここにいるからには、迷宮のことも教えねばならん」
「迷宮?」
恐ろしそうな響き。けれど彼は、おもしろそうにクッと笑った。
「お前が目を輝かせて掃除にかかりそうな場所だ。こいつがいれば道に惑うことはないが、万一ということがある。これを持っていけ」
手渡されたのは、馬車の色と同じ、赤紫色の宝石。
「綺麗……」
「何かあれば俺の名を呼べ。その石を身に着けている限り、必ず助けに行く」
「はい。……あの」
そういえば、お名前って。魔王様……でいいのかな。
優しく抱き寄せられた。
「俺の名を知る者は少なくなった。お前には知っていてほしい。アンジェだ」
「アンジェ様……素敵なお名前ですね」
「ありがとう」
この方の腕の中が、好き。ああ、千年一緒にいられるんだわ。
「では、行ってまいります」
馬車に乗り込み、いざ、お掃除のし甲斐があるという迷宮へ。
「いいか。俺の名を忘れるな。頼んだぞ、レーガ」
ヒヒーンといななき、地面を蹴って、そりが出発した。
「あなたの名前、レーガっていうのね。私はジーナ。よろしくね」
左の頭がちらりと後ろを見て、ニカッと笑った。真っ赤な目が細められている。よかった、仲良くなれそう。
そりの横に走って追いついてきたのは、最初に私に飛びかかってきた魔獣。
「ペニー、あなたも来てくれたのね」
赤い瞳が強く輝く。「護衛はお任せください」と張り切っているのが感じられて、頼もしい。アンジェ様に忠実な彼らに守られて、気持ちよく揺られていく。暗いトンネル、明るい森、小川や湖。初めて足を踏み入れる場所。図書館で地図を見ていたから、方角や地名はわかる。畑のそばを通ると、作業をしていた人たちが手を止めて、お辞儀をしてくれた。
「奥方様、お気を付けてー!」
「行ってらっしゃーい!」
「ありがとう!」
アンジェ様が慈しんでいる魔界。彼が愛されているから、妻の私にもみんな優しい。心の奥が温かくなる。
……あれ? アンジェって……語源は『天使』じゃなかったっけ。魔界なのに?
その疑問は、耳のそばを通り抜ける風にさらわれていった。
レーガとペニーは、上の方が霞んで見えない崖の下で止まった。洞窟の入口がある。
「ここが迷宮?」
六つの赤い目が私を見ている。「進んでもよろしいですか?」と問うている。
「行きましょう」
懐中にしまった宝石が、赤紫色の光を放った。洞窟の奥へとまっすぐに光が伸びて……ややあって、ガチャンと、錠が開く音が聞こえた。
「この石は、迷宮に入るための鍵の役割もあるのね」
そりが進む。外の光がまったく届かなくなった頃、少しだけ開いた重そうな扉が見えてきた。石を出して掲げると、ギィ、と不気味な音を立てて大きく開いた。中へ入ると、後ろでガシャンと扉が閉まった。真っ暗で、何も見えない。ぼんやりと光る赤紫色だけが頼り。手探りでそりから降りて、周囲を照らしてみた。すると、闇を脱ぐようにパァッと光が広がって――私は叫んだ。
「何よこれっ!」
そこは、広場だった。ここからさらに、十以上の洞穴が伸びている。中はどこも迷路になっているのだろう。それにしても、これはひどい。
「散らかし放題じゃない……」
壊れた木箱、汚れた靴、手袋、木片、机のようなもの。触れたら崩れそうなくらい劣化した紙も散乱しているし、果物の芯らしきものも……あんまり、触りたくない感じ。
「そんなこと言ってられないわ。お掃除道具、たくさん持ってきたんだから!」
時間を忘れて、ひたすら掃除をした。広場だけでも、一日では終わらない気がした。
「この奥は、どうなってるのかなあ」
休憩がてら、一番左側の洞穴を覗いてみた。ペニーが、私の服を咥えて引っ張った。
「え?」
振り向いた拍子に、指が洞穴の中の尖った岩を掠めた。痛い、と感じるよりも早く、地鳴りがして広場が大きく揺れた。穴の中から黒いものが伸びてきて、手首に巻き付いた。ゾクッと恐怖を覚え、夢中で叫んだ。
「アンジェ様!」
悲鳴に近いその声が終わるか終わらないかのうちに、彼の腕の中にいた。
「静まれ!」
彼が一喝すると、揺れがおさまり、黒いものはシュルンと離れていった。静寂が訪れ、その中にかすかに、しょんぼりした空気が漂っている。
「お前は長く眠っていたので知らないだろうが、この女はお前に害をなす者ではない。俺の妻だ。俺に従うのと同様に、ジーナにも従え。いいな」
広場に響き渡る声に応えるかのように、すべての穴の入口がぼんやりと光った。
「大丈夫か」
「はい……ほんとに、来てくださった」
「当たり前だ。さあ、帰ろうか。我が妻よ」
「はい」
彼は私を抱きかかえ、そりに乗った。
飛ぶように、そりは走る。
「あそこは、以前は出入り自由でな。命知らずの探検家が地図を作ろうと挑んだり、子供たちの遊び場になったりしていた。すべての道を攻略できた者は一人もいない。しかも、あの迷宮は生きていてな」
「生きている?」
「ああ。勝手に道が増え、伸び続けている」
「迷宮そのものに命があるのですね」
「そういうことだ。収拾がつかなくなってな。百年ばかり前に閉鎖した。その時、お前に渡した石を鍵にしたのだ」
何というか、さすがは魔界だ。私が今言いたいのは、ただひとつ。
「お掃除してから封印すればよかったのに」
「『あいつ』は生きているからな。気に入らない者が自分の中を弄ろうとすると癇癪を起こす。俺か、俺の力を受け継いだ者でなければ不可能だ」
「私、触れてはいけない所に触れてしまったのですね。それまでは、おとなしくしてくれていたのに。明日、謝りに行きます」
「明日は俺も行こう。掃除の指示をしてくれ」
「ふふ、わかりました」
二人でできること、少しずつ増えていくといいな。
一緒に生きるって、そういうこと。
千年、共に暮らした。
アンジェ様の命の玉のおかげで、里は豊かになった。私が幸せに生きていることも伝えられ、彼の地はいつからか、「奥方様の里」と呼ばれるようになった。
時が来た。
私は愛する夫に最後の口づけを贈り、眠りについた。