第1章 魔王様と私 第5話
魔界へ来て、数か月が経った。人の世の長い冬は、じきに終わる。みんな、元気にしてるかな。私のことは、死んだと思っているのだろうな。
ここのところ心配なのは、魔王様。私に向ける眼差しも、触れる指も、私のすべてを飲み込むような愛の行為も、日を重ねるごとに想いが深まるのを感じる。けれど同時に、一日過ぎるごとに、彼は沈んでいくように見える。
とうとう黙っていられなくなり、ある晩、行為の後の甘い戯れの中で、思い切って尋ねてみた。
「魔王様。なぜそんなにも悲しそうなのですか?」
彼は、絡めていた指をほどき、ぐっと私の手を握った。離しはしない、という意志を感じる。瞳の強い光も、そう語っている。それなのに、彼から出た言葉は――。
「春になれば、お前を里へ帰さなければならない。そういう約束だ」
ガン、と頭を殴られた気がした。
「やく、そく……?」
何それ。知らない。私は死ぬまでここにいると決めているのに。
「一人目の娘がここへ送られてきた時から十年、語り継がれてきたことがある。『魔王にさらわれても春まで生きていられる娘がいれば、その娘にも里にも終わることのない繁栄がもたらされるであろう』……とな。お前の時代には、そこは伝わっていなかったのか?」
「はい……少なくとも、私は聞かされておりません」
私は彼にしがみついた。絶対にいや。離れたくない!
それは私のわがまま? 里のためには、この恋を捨てなければならないの? 生まれて初めて愛した人。生涯を共にすると――たとえ婚礼の儀がなくても、自分自身に誓っていたのに。
彼は私の背を撫で、あやし、優しい笑みを浮かべた。額に押し付けられた唇は、契約終了の印?
「里へ帰りなさい。……幸せだった。ありがとう」
「そんな……幸せなら、なぜ私を手放すのですか」
「お前のためだ」
「あなたのいないところで、幸せになどなれませんっ……」
怖かった。彼のいない人生を想像するなんて、今の私にはできない。どうしたらいいの? 彼は約束を守ろうとしている。里はこの先、天災も何もかも、恐れなくてよくなる。私が、帰りさえすれば。
決断できない。ううん、自分の心は分かっている。ここにいたい。それ以外の道なんて選べない。
里の者として果たすべき役割と、ここで知った愛。ふたつに引き裂かれてしまいそう。それ以上何も言えず、大泣きをすることもできず、嗚咽を漏らすことしかできなかった。
彼は私をしっかりと抱き、背中を手のひらで優しく叩いた。赤ちゃんにするみたいに。やっぱりいや。行きたくない。だって私はまだ、自分の気持ちを伝えてすらいない。彼も言葉にしないのは、別れが来ると分かっていたからなの?
長い長い沈黙の末に、彼は私をそっと抱き起こした。肩にマントをかけ、体を覆ってくれる。
「魔王様……」
乱れた髪を優しく整えてくれる、ただ一人の夫。愛してる。あなたを愛しているの……!
彼は指で宙に文字を書いた。すると、拳ほどの大きさの球体が現れた。
「綺麗……」
内側から発光しているそれは、草原の緑の色を見せたかと思えば、庭にたくさん咲いている黄色い花のような色になったり、淡い水色になったり。光は強く、温かい。
「これは?」
「この玉を里へ授けることにしよう――これは俺の命の玉だ」
「え!?」
「そんな顔をするな。寿命が千年ばかり縮むだけだ」
「あ……」
そう、か。魔王様は、長い時を生きてきた。この先も。私がここへ残っても、数十年後には独りぼっちにしてしまうんだ。だから、今のうちに手放そうと……?
「この玉があれば、俺の魔力で里は永遠に守られる。お前が帰らなくてもな」
私がここへ残るというのなら、約束を違える彼は代案を出さなくてはならない。それが、これ。ここへ残るなら、彼の命は千年も縮んでしまう。
里の願いと、彼の命。それはあまりにも重い契約であり、私が口を出すことも、変えさせることも、できるはずなかったんだ。
「顔を上げろ。泣くな。これは俺の本音でもある」
顎に指が添えられ、安堵した笑みを向けられた。
「お前と共にありたい。契約を破るのは俺だ。お前が気にすることではない」
「魔王様……」
なぜ、そんなにまでしてくれるの?
「お前には俺の寿命を千年分け与える。どうだ? 千年の時を、その間のお前のすべての時間を、俺にくれるか? お前の……人生を」
「はい。喜んで」
嬉しくて、涙が止まらない。
「千年、おそばに置いてください。その後は……お一人にしてしまいますけど」
「思い出が千年分もあれば、それをよすがに生き永らえることはできよう。俺があまりにも腑抜けていたら、生まれ変わって引っ叩きにくればよい。どうだ?」
「はい……できるだけ早く生まれ変わります。次は魔物に生まれれば……いつまでもご一緒にいられるでしょうか」
「お前はそのままでよい。……愛している」
初めての、愛の言葉。もう、涙で彼の顔が見えない。
「私もです……愛しています」
私のために二千年分の命を失う旦那様は、きつく私を抱きしめ、「ありがとう」と囁いた。その声には、涙が混じっていた。