第1章 魔王様と私 第4話
次の瞬間、獣は耳を垂れ、長い尻尾も垂らして、キュゥンと小さく鳴いた。まるで叱られたみたいに。それから、私の上から退き、破れた服から覗く肩を舐めてくれた。ちょっぴり血が出てるけど、これくらいならすぐ治るわ。
「ありがとう、大丈夫よ」
そっと背中に手を置くと、頭をすり寄せてきた。大きな犬が懐いているみたい。
「ふふ、くすぐったい」
そこへ、突然景色が割れて、あっと思った時には魔王様が私たちのそばに立っていた。息を切らせて。
「ジーナ!」
草の上に座っている私を、強く抱きしめる。魔獣は、さっと私から離れ、頭を垂れた。
「ケガをしたのか」
「何ともありません」
「見せてみろ。……毒に侵されてはいないようだな。魔の波動を感じてやってきたのだが、肝が冷えたぞ。お前を失うかと」
「私は、どこへも行きません」
温かい。あれ以来、こんなにしっかりと抱きしめられたのは初めて。
「リアス」
「はっ」
「お前はこのまま、グッタの見舞いに行ってやれ。俺たち夫婦からと言って、これを渡してやってくれるか」
「これは見事な……かしこまりました」
私は腕の中に閉じ込められて見えないけど、果物か何かを出したのかなと思った。
「頼むぞ。よくジーナを守ってくれた。礼を言う」
「もったいなきお言葉。では」
リアスの声は、少し震えていた。私は魔王様の背中に腕をまわし、抱擁に応えた。この方は、その場にいなくても、何があったのか正確に分かっているんだわ。
足音が遠ざかり、辺りは静まり返った。魔獣は、私の後ろで丸くなっている。
「ジーナ」
私を呼ぶ旦那様の声は、とても切ない。顔を上げると、瞳が揺れていた。なぜ泣くの? 泣かないでください。私はここにいます。
目を、閉じた。数秒の後、ゆっくりと唇が重ねられた。熱い接吻だった。
その夜。私は魔王様の居間で、いつものように本を読んでいた。気になっていたミステリー。なのに、内容がちっとも頭に入ってこない。別のことを考えているから。
時計を見れば、彼が「おやすみ」を言う時刻はとうに過ぎている。ラグの上から、ソファーに座っている彼をちらりと見た。私にじっと視線を注いでいる。
「寝に行かぬのか。昼間のことで気が昂っているのは分かるが」
「……おそばにおります」
顔を見ずに答えた。彼は座る場所をずらして、私のすぐ後ろに来た。髪に手が触れる。
「俺を……選ぶと?」
「はい」
はっきりと、迷いなく。返事をした。
後ろから抱きしめられ、ラグの上に押し倒された。すぐに、ラグは柔らかな布団に変わった。魔王様のプライベートな空間。呼ばない限り、入ってくる人はいない。とはいえ、寝室より広く明るいここで行為に及ぶのは、心の準備ができていない。
「何て顔をしている。俺はもう、我慢はしない」
その言葉が、嬉しかった。ついていこう、この方に。言葉にできない意志を伝えようと、腕を撫でると、深い口づけが始まった。
彼は執着を露わにし、「あまり煽るな」と私をたしなめる。
ひとつになる悦び。欠けていたものが満たされる充足感。溢れ来る幸福感。こみ上げる愛情。ああ、魔王様……私、あなたのことを――。
離れて休んだ夜の埋め合わせをするかのように、幾度も求められた。私の心も体も、彼の情熱を幾度も受け止めた。頭の中が真っ白になり、意識が遠のいていく。
目を覚ますと、まだ夜であることが分かった。穏やかな寝息が聞こえる。
「魔王様……?」
眠ってる。寝顔は初めて。安らいでいるように見える。腕は、しっかりと私を閉じ込めて離さない。
「何だか、かわいい……」
この行為の意味を、今夜知った。愛しているから、心だけでなく体も重ねたい。言葉にはしなくても、私と同じことを想ってくれている。
胸元にそっとキスをして、囁いた。
「愛しています」
それからは、毎晩、二人で過ごした。抱きしめられて眠るだけの夜もあれば、朝まで求め合う夜もある。昼間も、彼は片時も私を離さない。
あの日の傷は、すっかり塞がった。
「あいつは自分で自分の毒を浄化したのだろう。お前にかかると、どうも皆、らしくないことばかりする。褒めているのだぞ」
そう言いながら、肩のその部分を舐めてくる魔王様。恥ずかしいというか、嬉しいというか。
「私も、です」
「うん?」
「ここへ来てから、知らなかった自分に出会ってばかり。あなたのせいです」
「かわいいことを言う」
また、ぺろり。
「あの、そこはもう」
「なぜだ。あいつには舐めさせたのだろう? 俺は駄目なのか」
「魔獣と張り合わないでください……」
子供みたい。かわいい。
想いは、日々深まっていく。
魔界の歴史や地理にだいぶ明るくなった私は、少しばかり、魔王様の仕事を手伝うことができるようになった。その名の通り彼はこの世界の王であり、秩序を守るため、あらゆることを一人で背負っている。呼吸をするように自然にこなしてはいるけれど、私がおそばにいることで心が安らぐなら嬉しい。ボニーさんが入れない場所のお掃除も、許してくれるようになった。
合間には、図書館で、私には難しいかなと思っていた本を解説してくれたり、庭の真ん中の草の上で寝転んだり。私は彼の横に座り、羽のあるちっちゃな魔物たちのおしゃべりに時々加わる。笑い声を立てると、彼に腕を引かれる。
「きゃっ……」
バランスを崩して、胸の上に倒れ込む。旦那様を見下ろす格好になって、ドキッとする。
「もう……また焼きもちですか」
「お前は俺の妻だ」
「そうですとも。ふふっ……」
くるっと体が回転して、見下ろされ、甘い甘い時間の始まり。魔物たちは、邪魔をしないようにと隠れてしまう。王に忠実なだけでなく、心優しい性質の生き物ばかり。
さすがに庭で最後まですることはないけれど、胸元に所有印がいくつも増えるくらいには愛される。人の世は今頃厳しい冬に見舞われているというのに、私は暑くもなく寒くもない、彼の力で完璧にコントロールされた世界で幸せに暮らしている。
ずっと、そうやって生きていくのだと思っていた。命尽きる日まで。