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第1章 魔王様と私 第3話

 三日間、体が慣れていないせいもあって、ほとんどをベッドで過ごした。四日目からは、頭も体もすっきりして、身軽に動けるようになった。魔王様が私に、魔界に馴染めるだけの適応力というか、そういうものを分けてくれたのかもしれない。ああいう方法によって。それを言ってみたら、「確かにそれもあるが、行為の意味はそれだけではない」という返事だった。考え込む私の髪を撫でて、「図書館も庭もある。自由に過ごしていろ」って、また甘やかす。本は大好きだから、図書館は嬉しい。庭仕事も好き。とはいえ、ちょっと不安。

「魔界の本が私に読めるでしょうか。植物も、人間の世界とは育て方が違うのでは」

「俺と交わったことで、その程度の知識は身についている。それにお前はここの女主人だ。植物だろうが使用人だろうが、言うことをきかないはずがあるまい」

「そういうものなんでしょうか……」

 曖昧に答えたのは、「交わった」が恥ずかしかったから。

「試してみるといい。だが、魔物には近付くな。姿は人の世の動物たちに近くても、噛みつかれただけで命を落とす。奴らは自分の身を守るため、猛毒を体内に蓄えているのでな」

 それは本当に気を付けないといけないことだけど、なるほど、と感心した。魔物って、ただ怖いだけの存在ではないんだ。ちゃんと、理由がある。それを分かりやすく伝えてくれる魔王様も、今はちっとも怖くない。


 婚礼を広く知らせるセレモニーのようなものはなくて、行き会う人にそのつど紹介されながら、この世界に馴染んでいった。男の人も女の人も、温厚で、私が暮らしやすいように何かと気遣ってくれた。「魔王様、ようやく……」と涙ぐむ人も、一人や二人ではなかった。

 図書館は、部屋から部屋へと歩いてまわるだけでも、一日ではとても足りない。人間の世の本を翻訳したものもたくさんあって、夢中で読んだ。

 庭は、魔王様の宮殿の裏に広がっていて、庭師のおじさんと仲良くなった。彼はもう何百年もの間、この庭の世話をしているという。

「お優しい方ですよ、魔王様は。あなた様も、いずれお分かりになるでしょう」

 思いやりに満ちた声が胸に沁みた。

 そこへ割り込んでくるのが、貫禄たっぷりのボニーおばさん。宮殿の中の使用人さんたちを取り仕切っている人。暖色でまとめた服装がいつも素敵で、よく通る声も気さくで明るい。

「あんたに言われるまでもなく、奥方様はとっくに分かっていらっしゃいますよ」

 ねえ?と聞かれると、いいえとは言えない。優しいのは、うん、分かってる。けれど私はまだ何かを見つけていなくて、一人で眠る夜が続いている。夜、食事の後は彼のそばで本を読み、お茶を飲むけれど、やがて彼は「もう遅い。おやすみ」と告げる。それが寂しくて、私から立ち上がり、「おやすみなさい」と言うこともある。「ああ。また明日」と見送ってくれる彼の声に、胸に飛び込んでいきたい衝動に駆られるけれど、それがなぜなのか……自分の心にいくら聞いてみても、分からない。


 何かに目隠しをされているかのような膠着状態から抜け出したくて、ボニーさんに声をかけてみた。

「皆の邪魔をせずに、私がお手伝いできることは、何かない?」

「まあとんでもございません、奥方様!」

「お願い。体を動かすのって好きなの。ね?」

「さあて……どうしたものかしら」

「いいんじゃないか?」

 通りかかったのは、私にとことん甘い魔王様。

「一人、ケガで休んでいるんだろう? その間だけでも何かさせてやってくれ」

「まあ、そういうことでしたら……」

 あとは任せる、と言って立ち去った魔王様は、私の頬をするりと撫でていった。恥ずかしい……。

 ボニーさんは、とても温かい目で彼の背中を見送り、私にも優しく頷いた。

「お幸せそうで、本当によかったこと。さて、では、そうですわねぇ……。休んでいるグッタの様子を見に行っていただくというのは、いかがでしょう? あの子は奥方様を大層慕っておりますから、お顔を見れば元気になるかと」

「それなら、今からさっそく行ってみるわ」

「明日の方がよろしいかと。そろそろ魔物が活発になる時間ですから。一か所だけ、魔物の森の近くを通る道がありますので。あの子がケガをした原因も、飛び出してきた魔物に驚いたせいなんですよ」

「そんなに近くに、魔物が出るの?」

「出ますとも。王宮内は、魔王様の結界が働いていますけれどね。明日、護衛をつけてお出かけになるのがよろしいかと。リアスが行ってくれるでしょう」


「あまり感心しませんが」

 王宮付護衛官の騎士、リアスは、渋々私についてきてくれた。私の安全を考えてのことだというのは、分かっている。若いのに、魔界には珍しい真っ白な髪。

「できるだけ森に近付かないようにするわ」

「まあ、言い出したらきかない方だというのは、見ていれば分かりますので」

「誰のこと? 魔王様?」

「奥方様もですよ。夫婦というのは似てくるものだと言いますしね」

「そうなのかな……」

 胸の奥がくすぐったくなった。何だろう、これは。

 彼のことを、もっと知りたい。

「あなたが来てくださって、よかった」

 隣を歩く白いマントのリアスは、しみじみとした調子で言った。

「ねぇ。聞いてもいい?」

「私に分かることでしたら」

「あなたもだけど……魔王様のために、私がここへ来たのを喜んでくれるのは、もちろん嬉しいわ。拒まれるよりはずっとね。でも、涙を浮かべる人もいるわ。あなたの今の言葉も、花嫁が来たからではなくて、私だからいいんだ、って言ってくれているように思えるの」

「それが不思議なのですか? なるほど、これはまた……」

 私が悩んでいるのに、彼は微笑んでいる。

「何か知ってるのね」

「知っているといいますか……そうですね、あなたよりは多少は、あの方との付き合いが長いですから。ああ見えて、不器用なんですよ」

 森の近くにさしかかった。リアスは自分が森の側に立ち、私を隠すようにして話し続けた。

「兄がよく言っていました。『あいつは、呆れるほど気が長い』と。あなたが答えを見つけるまで、いつまででも待つおつもりなのでしょう」

「いつまでも、じゃ駄目なの。私がおばあちゃんになっちゃう」

「さぞかしかわいらしい老婦人になられるでしょう」

 快活な喋り方は、この緊張する場所を、暗い気持ちにならずに通り過ぎることができるようにと、配慮してくれているのだと分かった。

「お兄さんは、今は遠くにいらっしゃるの?」

「ええ。遠い、遠いところにおります」

 会えないくらい、遠いところ? それはひょっとして、人の世との境の、時空の歪みの中?それとも……。

「奥方様っ」

「えっ……あ!」

 森の中から、大きな獣が飛び出してきた。真っ黒な毛並み、赤く光る目。鋭い爪、私の胴ほどもある足。虎? 狼? 私を睨みつけ、飛びかかる隙を窺っている。

「あ…あ」

 体が震える。力が抜けて、草の上に座り込んでしまう。駄目、リアスを守らなきゃ。私がお手伝いしたいって、わがままを言って出かけてきたんだもの、そのせいで彼を傷つけてはいけない。

 リアスは私と獣の間に入り、剣を抜いた。

「この方はお前がただ一人付き従う魔王陛下の奥方様だ。爪の先ほども触れることは許されない」

 凛とした声が響く。獣が体を低くした。駄目!

「静まって、お願いっ」

 咄嗟に出てきたのは、向こうが聞くはずもない言葉。長身のリアスを悠々と飛び越えて、私を押し倒し、押さえ込んだ。肩に爪が食い込んでくる。

 魔王様の顔が浮かぶ。嬉しそうな顔。私を抱く時だけ、汗を浮かべて。あの汗を、もう一度見たい。待っていると言ってくれた彼に、私は何ひとつ応えていない。

 今死ぬわけにはいかない――!!


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