第1章 魔王様と私 第1話
「すまないねぇ、ジーナ」
「運がよければ、生きて帰ってこられるだろうよ」
「変に期待させるんじゃないよ。そんな娘は一人だっていやしなかったじゃないか」
遠ざかっていく、里の人たちの声。私は、魔王様に捧げられた生贄。里を一望できる山の頂上に作られた祭壇の前で、じっと待つ。
私が生まれ育った里では、十五年前まで、一年に一人ずつ生贄を捧げていた。その年に十八を迎える乙女の中で、いまだ純潔を保っている者。それを魔王様への供物とすれば、引き換えに豊作に恵まれる。天災も飢饉も、すぐさまおさまる。そう信じられてきた。
娘たちはこの風習を恐れ、先を争って婚姻を結んだ。でも、大抵誰かしらは残っていて、その子が犠牲になる。夜に山に置き去りにし、朝になれば姿はない。どこへ連れ去られたのか、知る者はない。
十五年間、風習が途切れていたのは、生贄にされるくらいならと子を作る者が減ってしまい、里の存亡と天秤にかけた結果だという。幸い、この十五年の間は何事もなく、特別に豊かとは言えなくても人々はそれなりに生を謳歌していた。
今年、生贄の風習が復活したのは、雨が少なくて作物の出来が悪かったから。条件を満たす乙女は、私一人。断る術はなかった。
膝を抱えて座り、星空を見上げて待った。どうせ死ぬなら伸ばせるところまで伸ばしてみよう、と長くした金髪が、風になびく。
魔王様、遅いなあ。本当に来るのかな。実はここで待ちくたびれて飢え死にっていう結末? それなら今までの娘たちも発見されているはずだし……。
答えの出ないことを次から次へと思いめぐらせていると、不意に人の気配を感じた。正確に言うと、人ではなかった。月を背にして目の前に立ったのは、頭の上に立派な角を生やした男性。髪は、短くて黒っぽい。マントをはためかせ、私をじっと見下ろしている。
「魔王様……?」
世界を背負っているかのような、圧倒的な存在感。
「逃げないのか」
訝しむ声は、想像していたよりも優しい。だから、素直に答えた。
「逃げても、帰る場所などありません」
「そうか」
彼は私をさっと抱き上げ、飛び立った。夜を越え、海を越え、景色が変わり、人の世を離れたことを知った。
黒々と光る岩山。見たことのない木や花。驚くほど澄んだ空気は、彼の横顔にも似ていて……などと考えているうちに、王宮に入っていた。
そっと下ろされたのは、大きな部屋。天蓋付きのベッドに座らされ、ホッと息をついた。
「ここは……」
「魔界だ」
「魔界……」
本当にあったんだ。では、前に生贄になった人たちも、ここに?
「少し休め」
「あ……」
彼は、マントを翻して出ていった。
私は、ベッドに身を投げ出し、これからのことを考えようとした。でも、できなかった。自分で感じることができたのより多くの時間を、飛び越えてきた気がした。
「とにかく、まだ生きてる……」
呟いて、糸が切れたように眠った。
目を覚ましたのは、髪を撫でる手を感じたから。誰かがベッドに腰かけている。誰か……誰かって!
「起きたか」
飛び起きた私の背を自然に支えた魔王様は、乱れた髪をそっと直してくれた。どう反応したらいいのか分からない。彼は私の頬に手を添え、なぜかとても満ち足りた顔をしている。この表情の意味は何? 「うまそうな生贄だ」っていうこと!?
「震えているな。何が怖い? 言ってみろ」
あなたの存在も、私が連れてこられたわけも、多分今からされることも怖いんですけど!
もう、これは直球で聞くしかない。
「私は……殺されてしまうのですか」
「何を言う。お前は俺の花嫁だ」
「え?」
唇が重なった、と分かったのは、離れた後だった。
「接吻は初めてか?」
何だろう、楽しそうな顔。
「初めてに、決まっています……」
純潔を守ってきた乙女なんですからっ。
「そうか。案ずるな。すべて俺が教える」
「教える、って……何をっ」
「言っただろう。お前は俺の花嫁。今宵は婚礼の夜だ」
こ、婚礼っ!?
「い、いやですっ」
「なぜだ。好いた男がいるのか」
「そうでは、なくっ……私、魔王様のことを何も知りませんっ」
「これから知ればよい」
押し倒されてしまった。服も、乱れてしまっている。
「名は?」
「ジーナ……」
「よい名だ。ジーナ、受け入れてくれ……俺を」
「そん、な……」
誰にも触れられたことのないところを……。
「お願いです……今夜は、もう……」
「残酷なことを言うな」
残酷、って……どっちが!?
肌を隠すものはすでになく、恥ずかしくてたまらない。
「魔王さ、ま……」
「泣くな……お前の紫の瞳が涙を湛えているのは……堪える」
なぜ泣いているのか分からない。でも、涙を止められない。
「いやか? それほどまでに俺のことが」
「分かりません……」
分からないけど、婚礼って恋をしたからするものだと思ってた。今まで生贄になった人たちもこういうことをされたの? その人たちはどこへ? 殺されてしまったの?
……ううん、この人は、きっとそんなことはしない。悲しそうな目をしてる。一糸まとわぬ姿になったのを見れば、角がある以外は人間と変わりのない姿。けれどやはり魔王なのだということを、次の言葉で思い知らされた。
「すまぬが、少しばかり術を使う」
「え……何っ……」
体がとろけていく……自分が、変わっていく……。
想像を超える衝撃。
圧迫感。
意識が遠のく中で口づけられ……頬に雫が落ちた、気がした。