第一話
§
それは、中庭にある銀杏の葉が色づき、鮮やかな秋茜が飛びはじめた頃でした。
夕陽の光は濃く重たく、障子越しに床の間をあかく染めます。
上座にはお父さま。眉間に深い皺を刻んだまま、瞼を閉じています。
わたしがお父さまの部屋に呼び出されたのは半年ぶりくらいでしょうか。
普段はこの家で『いないもの』として扱われているわたしですが、まだお父さまからの関心が失われていないことに少し安心していました。
――お母さまを病で早く亡くしてから。
――お義母さまを迎えてから。
――義妹が、生まれてから。
わたしは、この里見家にいてはいけない人間なのです。
それでも。
「やちよ」
「はい」
お父さまがわたしの名前を呼ぶと、心がふわりと軽くなるのです。
「お前の嫁ぎ先が決まった。桜花院家だ」
お父さまが告げました。
――嫁ぎ先?
信じられない話です。
わたしは今年で十八歳となりますが、今まで、縁談はひとつもありませんでした。
桜花院家。わたしでも知っています。華族のなかでも伯爵に位置する、名家だったはず。
お父さまがわたしの将来を考えていてくださったなんて。
涙腺が緩みます。
わたしは畳に額をつけるようにして、頭を下げました。
「はい。……ありがとうございます。お父さま……」
「いや、正確には」
ところが、お父さまはわたしの言葉を険しい口調で遮りました。
「お前は市佳の結納品となり――春までに《《死ね》》」
わたしは顔を上げました。
血を分けた実のお父さまは。
厳しい表情で。
わたしを見ているようで、まったく見ていませんでした。
「死ね……とは……?」
全身に針が刺さったかのように、体の内側がしくしくと痛みます。
「桜花院家の現当主、唯月殿は『宝石病』という全身が宝石化する呪いにかかっている。余命は半年だそうだ。宝石病は治すすべはないが、他人に移すことは可能らしい。そこで、我が里見家が提案した」
息の吸い方が分からなくなりかけました。
なんとか呼吸を整えようとしますが、今度は吐き方が分からなくなりそうです。
「一人目、すなわち仮の妻へ宝石病を移し、その後、正式な妻を娶ることを。仮の妻はやちよ。正式な妻は、市佳だ。いいか、必ず当主殿のために呪いを引き受けて死ね。これは我が里見家の繁栄にも繋がるのだ」
あぁ。
一瞬でも期待したわたしが愚かでした。
この里見家にわたしの居場所がなくても、嫁ぎ先での幸せを願ってくれるのだという淡い期待。
そんなものは、幻ですらなかったのです。
しかしお父さまに逆らうことなどできません。
わたしは再び、頭を下げます。
震える手。指先は小刻みに震えていました。わたしはなんとか、声を振り絞ります。
「……承知いたしました。これまで、お世話に、なりました」
§
お父さまから縁談という名の自死を言い渡された翌朝。
穴の開いた風呂敷一枚で包めるだけの荷物を抱えて、わたしは生家を出て行くことになりました。
名残惜しい訳ではありませんが、立ち止まり、振り返ります。
誰にも手入れをしてもらえない正門はすっかり汚れてしまっています。
かつてお父さまから繰り返し聞かされたものです。侍の時代が終わるまで、里見家はこの辺りの権力者だったと。そして決まって、お父さまはいつか必ず復権するのだと話を締めくくるのでした。
まだ陽は昇ったばかり。
空は淡く高く、うっすらとうろこ雲が覆っています。
木枯らしではわたしの髪をなびかせることはできません。
――お父さまから命じられ、女学校を中退させられたとき。
『女学校に行かないのだから髪を伸ばす必要もないでしょう?』
お義母様から言われて、抵抗もできず鋏を入れられたわたしの黒髪。
それから一切伸ばすことは許されませんでした。
わたしの身に着けるものはすべて不揃いで、不格好。
着物も、義妹である市佳さんが飽きたものばかりでした。
しかし今日だけは、流石に体裁が悪いと、新しい着物を与えてもらいました。
青色と黒色の、上品な青海波。
以前、呉服屋さんに対して市佳さんが文句を言っていた柄のものです。
『いやよ。あたし、こんな流行遅れの柄なんて、着たくなぁい』
わたしが給仕をする傍ら、軽い口調で市佳さんが拒絶していたのを覚えています。
どうしてもと呉服屋さんから請われて、しかたなくお父さまが購入されていました。
『よかったわね。これから死にに行くのに、いい着物を着られて』
昨晩市佳さんから言われた言葉が蘇り、わたしは両腕で体を押さえます。
『さっさと死んでちょうだいね。楽しみに待ってるわ』
かたかたと小刻みに震える、わたしの体。
色んなことを諦めてきたはずでした。
それでもまだ、惜しいものがあったようです。
――しかし、逆らうことはできません。
「……今まで、お世話になりました」
震える声で門に向かって挨拶して、深く深く頭を下げます。
わたしがこの家の敷居をまたぐ日は、二度と来ないのでしょう。
見送る者は誰もいません。
門前から少し離れた場所には人力車が停まっていました。
青海波の着物と同じく、家の体裁のために用意された移動手段です。
「お嬢さん、桜花院家まででよろしかったですかね」
「はい。よろしく、お願いします」
車夫さんへ頭を下げます。
「へぇ。少し長旅になりますので、眠っててくだせぇ」
§
車夫さんの言葉通り、わたしはうとうとして……気づけば眠ってしまいました。
夢のなかで、お母さまに会えたような気がしました。
「……もうすぐそちらに行きますので、待っててください」
わたしは掠れる声でひとりごちます。
がたんっ。
大きな揺れの後、人力車が止まりました。車夫さんがわたしに顔を向けます。
「着きましたよ」
「……ここが……」
そびえたつ塀の奥には見たことのない建物が立っていました。
淡い水色の屋根。白い壁は平らではなく、部屋によっては半円状に突き出しているようです。
何よりも驚いたのは、硝子窓がたくさんあることです。
近い印象の建物といえば、女学校でしょうか。しかしそれよりも遥かに立派な外見をしています。
前庭には鮮やかな、菊に似た花が歌うように咲き誇っていました。
「すげぇですよね。えぇと、あーるぬーばーだかあーるぬーぼーだかいうんだそうです、このお屋敷。お客さん方が目の前を通るたびにこれはなんだって尋ねてくるので覚えちゃいました。ちょっとした観光地ですよ。へへ」
車夫さんが気さくに説明してくれます。
わたしの視線の先に気づいたのか、花へ向かって指を差しました。
「庭に咲く花も年中違って見ごたえがありますよ。今は、秋桜っていうやつみたいです」
「秋桜……」
わたしの髪と違って風になびく満開の秋桜に、目が釘付けになります。
とはいえここから降りなければなりません。
わたしは車夫さんに補助してもらい、人力車から降りました。
「ありがとうございます」
「いえいえ。またのご利用をお待ちしてます」
また、はないでしょう。
わたしは無理やり笑顔を作りました。
代金は既にお父さまが払われています。人力車が、音を立てながら去って行きました。
わたしは、唾を飲み込みました。
桜花院家。
ここの当主さまの代わりに死ぬため――わたしは、やってきたのです。
覚悟を決めて、わたしは足を踏み出しました。
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