月花は愛され咲き誇る
まだまだ肌寒い早春の朝。
香夜はかじかんだ手に白い息をはぁ、と吹き掛けながら少しでも暖を取ろうとしていた。
「香夜! 何をしているの⁉ 早く言われたことを済ませなさい!」
養母の叱責がすかさず飛んできて、香夜は慌てて掃除道具に手を掛ける。
「ごめんなさい、お養母様」
素直に謝罪してから、あかぎれで痛む手を冷水となってしまった桶に沈める。
もはや感覚も無くなってきた手で雑巾を絞り、拭き掃除を再開させた。
「今日はあの日宮の若君がこちらにいらっしゃるのよ。綺麗に磨き上げなければ」
緊張の面持ちで養母は香夜にしっかりと言いつける。
汚れ一つあってはならないといつにも増して厳しかった。
「分かっているね? 特に舞台は美しく飾り立てるんだよ? いくら月鬼の娘たちが美しくとも、舞う舞台がみすぼらしくては引き立たないからね」
「はい、お養母様」
睨みつけるほどの厳しさに、香夜は素直に返事をする。
今日の養母はピリピリと気が立っていた。下手に反感を買うと罰としてまた仕事を増やされるかも知れない。
「昼までには終えるんだよ!」
言い終えると、「忙しい忙しい」と口ずさみ着物の裾を払いながら養母は去って行った。
養母からの圧が無くなって、香夜はふぅと安堵の息を吐きながら手を動かし続ける。
言われた通り昼までに終わらせなければ今日の昼食はないだろうから。
たまに嫌がらせで食事を抜かれることはある。とは言え、今日に限っては別の理由だ。
本日昼過ぎ、この月鬼の一族の里に大事なお客様が訪れる。
この日の本で一番の力と勢力を持つ火鬼と呼ばれる鬼の一族。
その若君が、嫁探しのためにこの月鬼の隠れ里を訪れるらしい。
養母が飾り立てろと言う舞台で年頃の娘たちが舞い、若君はそれを見て決める。
数代同じ一族の者と婚姻する火鬼の当主だが、それでは血が濃くなってしまうということで一、ニ代おきに別の一族から嫁取りをするのだそうだ。
話を聞く限りでは前回は二番目に大きい勢力である水鬼から嫁を取ったらしく、他の一族では今回こそ我が一族の者をと血気盛んになっているらしい。
しかも今回は勢力順ではなく真っ先にこの月鬼の里を選んだという。
養母だけではなく一族の者すべてが期待するのも当然のことだった。
(まあ、私には関係ないけれど……)
前に垂れてきた一つに結んだ自分の髪を見ながら香夜はため息をつく。
みすぼらしい灰色の髪。
癖のない真っ直ぐな髪といえば少しは聞こえは良いが、手入れが行き届いていないそれはよく見るとかなり傷んでいる。
月鬼は異端の鬼だ。元々地上にいた鬼と違って、月から降りてきた一族と言われている。
その姿はまさに月。
異端と呼ばれて弾かれたこともあったそうだが、どの一族よりも美しいとされたその姿は憧れも集めていた。
だが、それも久しい話。
長い月日が経ち、地上に適応していったからなのだろうか。かつての美しさは失われていた。
今ではかつての美しさに固執して色素の薄い者を尊ぶだけの一族となり果てている。
香夜の灰色の髪も薄いと言えばそうなのだが、茶髪茶眼が多い中では異様にしか映らなかった。
「いくら色が薄いとはいえあんなみすぼらしい色ではねぇ……」
そう言って嘲笑したのは誰だったか。
言われ過ぎてもはや初めに言ったのが誰だったのかも分からない。
(両親は黒髪に焦げ茶の目だったと思うんだけどな……?)
うっすらと残る記憶を呼び起こす。
八年前、当時十歳だった香夜一人を残してこの世を去って行った両親。
灰色の髪を持って生まれてきた香夜を心から愛してくれた人達だ。
事故で崖下に落ちてしまった荷馬車。
ほぼ即死だった両親と違い、香夜だけはどういうわけか無事だった。
香夜が蔑まれ疎まれるのはそういったことも原因になっている。
「両親の命を奪って生き残った娘」
と。
みすぼらしい髪の色は呪われた証なのだと。
当時幾度も言われた言葉を思い出し、手が止まっていることに気付く。
「早く掃除終わらせなきゃ」
頭を振って嫌な記憶を振り払い、呟いた。
こんな調子では本当に昼食に間に合わない。
そこからあとは、一心不乱に掃除に精を出した。
***
頑張った甲斐あってか、何とか昼食には間に合った。
だが、十分な量を食べられたかと言うと答えは否。
食事もほどほどに養母に呼び出されてしまったからだ。
「香夜です。お呼びと聞き参りました」
養母の部屋の前で襖越しに声を掛ける。
「入りなさい」
淡々とした声に香夜はしずしずと従った。
中に入り襖を閉めるとその場で居住まいを正す。
両親を亡くした香夜を引き取った養母は月鬼の長の妻でもある。
亡くなった母の友人だったとも聞いたが、引き取ってからの自分への仕打ちを考えるとよく思っていないのは確かだ。
もしかすると、母の命を奪って生き残ったと言われている自分を疎んじているのかもしれない。
養母はそんな香夜が部屋に入るのを厭わしく思う人だ。近くにおいでとは絶対に言わない。
だからその場で声がかかるのを待っていたのだが……。
「何だい。もっと近くに来ないと用件も伝えられないだろう。来なさい」
座ったまま軽く振り返った養母は珍しく近くへ来いと指示を出す。
「は、はい」
文句を言われたことに若干の不満はあるものの、驚きの方が勝り戸惑いながら近くに座る。
するとすぐに用意していたらしい包みを渡された。
「日宮の若君が滞在する間はそれを着て仕事をするんだ。みすぼらしいなりでうろつかれたら品位を疑われかねないからね」
不満そうに言い放つと、養母はまた机に向かい書き物を始めてしまう。
「はい、では失礼致します」
聞いているのか定かではないが、一応断りを入れて頭を下げる。
養母の書き物の邪魔にならないようあまり音を立てず襖を開けると、「香夜」と珍しく名前を呼ばれた。
「あ、はい……」
先ほどから珍しいことばかりだと思いながら返事をすると、彼女はこちらを見もせず言葉を発する。
「……お前は舞うんじゃないよ」
静かに告げられた言葉に、やはりいつもの養母だと思った。
日宮の若君が所望しているのは十六から二十の年頃の娘。十八になったばかりの香夜も当然それにあたる。
若君の前で舞うなということは、選ばれるわけがないのだから舞う必要はないということだろう。
だが、もとよりそんなことは分かっている。
こんなみすぼらしい髪色で舞っても、美しい茶色の髪を持つ他の娘たちの引き立て役にしかならない。
香夜は自嘲し、「分かっています」と返事をすると今度こそ養母の部屋を後にした。
***
養母の部屋を出た香夜は、屋敷の隅にある自室へと足早に向かう。
もう昼は過ぎているのだ。
早く着替えてしまわねば日宮の若君が到着してしまう。
出迎えは里の者が総出で行うのだと長が張り切って言っていた。
遅れてしまっては、いつものようにきつい叱責が飛んで来てしまうだろう。
一応香夜の養父でもあるのだが、長は香夜のことを小間使いとしか思っていないようだった。
養母も似たようなものだが、長は香夜に「お養父様」と呼ばれるのすら嫌う。
父と呼んでいいのは彼らの愛娘である三津木鈴華だけなのだと。
香夜に対してはあくまで養ってやっているだけといった態度だ。
故に、長の香夜への態度は基本的には無関心。機嫌が悪い時などは手こそ上げないが、当たり散らすかのように怒鳴られる。
あの野太い声で怒鳴られると、香夜はいつも身がすくんでしまう。
だから急がなくては。
だが、そういうときほど邪魔が入るのだ。
大きな松の木が立派な庭園を眺められる縁側を小走りで進んでいると、突然壁のようなものにぶつかった。
「ぶっ!」
それなりに勢いよくぶつかってしまったため、そのまま少し後ろによろける。
しかも顔面からぶつかったせいで鼻が痛い。
涙目で顔を抑えながら前方を見ると、そこには何もない。ただ続く縁側が見えるだけ。
(あ、もしかしてこれって……)
「ふふふ……香夜ってばぶつかるまで気付かないなんて」
見えない壁の正体に気付くと同時に、庭園の方から軽やかな声が掛けられる。
彼女の名にもある鈴を転がしたような可愛らしい声。
ゆるくうねった髪は薄茶色。茶色の目も光の塩梅によっては金に近く見える。
かつての美しさに一番近しい娘として一族から一目置かれている彼女は、長が殊の外可愛がっている愛娘だ。
一応香夜の方が先に生まれたので鈴華は義妹ということになるのだが、年は同じなので姉妹の上下感覚はほぼない。
どちらにしろ鈴華は香夜を下に見ているので姉妹感覚は皆無だが。
「本当に。結界があることすら気付かないなんて無能にもほどがありますわ」
そして彼女の周囲にはいつも付き従っている取り巻き――もとい、友人達がいた。
結界とは月鬼の女性だけが持つ特殊能力だ。
香夜には分からなかったが、今ぶつかってしまった見えない壁も結界なのだろう。
分からなくとも、昔から似たような方法で嫌がらせをされてきたので嫌でも理解した。
「三津木の姓を名乗っているというのに……本当、鈴華様とは大違い」
ここぞとばかりに持ち上げる少しふくよかな友人も結界は張れなかったはずだが、蔑むように香夜を見ている。
香夜に心だけでなく目に見える傷もつけてきたのは決まってこういう同年代の娘達だ。
流石に今傷をつけられてはたまらない。
何より、早く着替えなければ集合時間に間に合わない。
多少の反感はあるものの、それを見せると長引くのでここは耐えなけれは。
香夜はいつにもまして感情を押し殺し、黙って嵐が過ぎるのを待つ。
「お母様に呼び出されていたみたいだけれど……その包みは何かしら?」
優美に微笑みつつも目ざとく香夜の抱える包みを指摘する。
ことごとく大事なものを壊されてきた記憶が蘇り、思わず包みをギュッと掴む。
だが、大丈夫と自分に言い聞かせた。
この着物は日宮の若君を迎えるためには必要なものだ。養母がそう判断して自分に渡したものなのだから、ちゃんと理由を話せば汚されたりはしないはずだ。
「……これは着物です。みすぼらしいなりでうろつかれては品位に関わると言われて渡されました」
言葉を選ぶように慎重に紡ぐ。
こう言えば大丈夫だろうとは思いつつも、やはり不安はなくならない。嫌な感じに鼓動を速めながら鈴華の言葉を待った。
「そう……確かにそれは必要なものね。あなたには私が若君の接待をするための裏方の仕事をしてもらわなければならないもの」
そのようななりで来られたら確かに目障りだわ、と形の良い眉を寄せて告げられる。
鈴華は長の跡取り娘であるが故に今回の嫁探しの舞には不参加だ。その代わりに長から若君の接待を任されている。
その手伝いも本来なら今周囲にいる友人達がするのだろうが、今回はことごとく舞の参加者となっている。
そういうわけで香夜にお鉢が回ってきたというわけだ。
鈴華の言葉にホッとしたのも束の間。彼女は香夜を小ばかにしたような微笑みを浮かべる。
「私にとっても大事なものなのだから、ちゃんと守りなさいよ?」
その言葉と入れ違いに友人の一人が進み出て桶を構えた。
今までの経験から瞬時に何をされるか悟った香夜は、包みを抱え込むようにして彼女達に背中を向ける。
バシャ!
音と共に背中に冷たさを感じた。
透明なもので匂いも特にないため、ただの水だと分かる。そのことに幾分ホッとした。
酷い時には真夏に放置してしまって酸味を帯びてしまった汁物を、もったいないからという訳の分からない理由で掛けられたこともあったから。
「まあ香夜ってば。そんな守り方じゃあ大事な着物が濡れてしまうわよ? 結界を張ればいいのに」
香夜が結界を張れないことを分かっていながら、クスクスとそれは楽しそうに笑う鈴華。
周囲の友人達も同調して笑い合う。
いつもの嫌がらせだ。八年もたてば流石に慣れた。
でも、それとは別に心はどんどん冷えていく。
怒りも悲しみも凍りつかせ、壁を作る。
「さ、あと少しで日宮の若君が到着するわ。皆行きましょう?」
ひとしきり楽しんだのか、満足した様子の鈴華は香夜を無視して皆に声を掛ける。
去って行く足音が遠ざかり、気配が無くなってから香夜は安堵の息を吐く。
すると一気に寒気が走り体が震えた。
「……早く着替えなきゃ」
このままでは風邪を引くし、何より時間がない。
香夜は寒さに耐えながらまた屋敷の隅にある自室へと急いだ。
***
養母の用意してくれた着物は奇跡的に無事だった。
裾などの端くらいは濡れてしまったかも知れないと思っていただけに、良かったと息をつく。
しかも着物は養母が自分にと選んだとは思えぬほど上質のものだった。
白鼠の色無地といった素朴なものだったが、黒地の帯には白い艶やかな花が刺繍されている。
この八年袖を通したことのない上物に、本当に良いのだろうかと不安がよぎる。
だが濡れてしまった髪も拭かなければならなかったし、本当に時間がない。
不安や迷いを押し込めて、とにかく着替えて集合場所へ向かった。
「何をしていたんだ⁉ お前が最後だぞ⁉ 私の言葉を家の者が一番に守らなくてどうする!」
急ぎはしたものの、本当に間際の時刻になってしまった。
そのため他の里の者達はすでに集合済み。香夜が最後となってしまい、予測していた通り長に怒鳴りつけられるという状況に陥る。
野太く力強い声に怒鳴られるとそれだけでびくりと肩が震えた。
周囲の者はまたかと煩わしそうに眉を顰めるのみ。
もしくは、鈴華達のようにクスクスと笑いを忍ばせる者だけだった。
分かっている。
疎まれている自分の味方は、この里にはいないのだということは。
「全く、どうせ遅れるならそのみすぼらしい髪も隠してくれば良かったものを。とにかくもうかの若君はご到着なされる。お前はせいぜい人の陰に立ち目立たぬようにするのだ」
「はい……」
幸か不幸か、時間がないことが理由でお叱りは早々に終わった。
その事に安堵の息を吐きつつ、人垣の奥へと向かう。
香夜が通ろうとした場所は道が開かれる。
穢れた娘という声も聞こえた。
そんな娘に僅かでも触れたくないのだろう。
里の者達の態度は香夜の心を更に凍らせる。
これだから皆がいる所へは極力行きたくないのだ。
厳しくても手は上げない養母に仕事を言い付けられ、黙々と一人で仕事をしていた方がどんなに気が楽か。
日宮の若君が来なければこのようなことをしなくても良かった。
そう思うと、どうしても考えてしまう。
(もう来るならさっさと来て、早く帰ってくれないかな……)
と。
日宮の若君は自動車でやってきた。
閉ざされた月鬼の里ではほとんどの者が見たことがなく、物珍しさで一時騒然となりかける。
「静まれ! うろたえたところを見られては侮られるぞ!」
だが、長の一喝でぴたりとざわめきが止まる。閉ざされた里故に、長の言葉は絶対でもあった。
自動車が停まり、先に十代前半といった少年が降りてくる。
日宮の若君は二十歳だと聞いたから、お付きの者か何かだろう。
少年は長がいる側の後部座席のドアを開けると、深く頭を下げた。
そこからおもむろに出てきた人物が日宮の若君。この国で最高の力を持つ火鬼の一族の次期当主だ。
優美な物腰とその美貌に、里の者すべてが息を呑む。
鬼は基本的に皆美しい顔立ちをしているが、彼は別格と言って良かった。
遠くからでも分かる玉のような美しい肌。スッと切れ長な目は黒い瞳を冷たい印象に導くが、柔らかそうな微笑みがその印象を和らげてくれる。
光が当たると少し赤く見える黒髪は清潔そうに整えられていて、全体的に洗練さを見せつけた。
若君の佳麗さに、長ですら一時言葉を失う。
「大勢での出迎え、感謝します。私が日宮の次期当主、日宮燦人です。この度は我が一族の願いを聞き届けてくださり、ありがとうございます」
力も権力も燦人の方が上なのだが、相手が一族の長ということもあってか少しへりくだった言い方をしていた。
ただ、それでも彼の威容は変わりなかったが。
「あ、ああ……。いえ、その願いはこちらとて望ましいもの。歓迎いたします、燦人どの」
燦人の威厳と美しさに飲まれていた長だったが、長としての矜持を取り戻したのかすぐに立ち直っていた。
その場で簡単に養母と鈴華を紹介する長に、燦人も供の者を紹介する。お付きの者である少年は炯というらしい。
「ご滞在中は私がお世話を任されております。さあ、まずはご案内いたしますね」
紹介が終わるや否や、鈴華があからさまな喜色を浮かべてそう言った。
腕を取るといった無礼は働かなかったが、確実に距離が近い。その様子に周囲の者の方が慌てた。
特に長は、跡取り娘である鈴華が嫁に選ばれてしまうのではないかと冷や冷やしている様子だ。
燦人は舞を見てから決めると言っていたのだから、少なくとも鈴華が舞わなければ選ばれることはないだろうに。
燦人が所望した舞は月鬼の女なら誰もが教えられる伝統的なもの。蔑まれつつも、香夜ですらきちんと教えられた。
その舞は月鬼の力の一端を垣間見せる。
満月の夜舞台で舞うことで、舞台に描かれた紋様が光を放つのだ。
年の瀬の満月の日に、毎年一番力のある娘が舞っているから香夜もその美しい様子を見たことはある。
以前は養母が勤めていたその役割は、ここ数年で鈴華に代替わりしていた。
そういう仕組みなのだから、まずは舞台で舞わなければ選ばれることすらないだろう。
(まあ、結界を張ることすら出来ない私には無縁の話よね)
先導する鈴華に付いて行くように去って行く燦人を見送りながら、香夜は無感情にそう思った。
***
「では、宴の準備が整いましたらまた参りますね」
燦人を宿泊するための部屋へ案内した鈴華は、聞き心地の良い声でそう告げると障子戸を閉め去って行った。
気配も消えると炯はあからさまにため息をつく。
「あの娘、燦人様に馴れ馴れしく……」
悪態をつきながら彼女が去って行った障子戸を睨みつける炯を燦人は苦笑気味にたしなめた。
「まあ、あれくらいなら可愛いものだろう。同じ一族の者はもっと遠慮がないからなぁ」
炯と二人きりになり少し言葉を崩した燦人は、火鬼の一族の女性達を思い出す。
燦人は他の一族から嫁を取ると決まっているのに、積極的に迫ってくる者もいた。
そういう者達の言い分では、他の一族から嫁を取るのは次代でも良いだろうとのこと。現当主である父が決めたのだから覆すことなど出来ないというのに。
思い出し苦笑していると、炯が改めて燦人を見て口を開いた。
「それにしても、本当に望みの娘がいるのですか? ざっと見た様子ではそれらしい姿の者も力の強そうな娘も見当たりませんでしたが……」
主人の意を否定してしまう言葉になってしまうためか僅かに心苦しそうだ。
だが、燦人はそれを咎める事もせずはっきりと言ってのける。
「いる。絶対にいるはずだ。かつて感じた気配は他の鬼では有り得ない」
「ですが、聞いたところによると角のある本来の鬼の姿に変転する事も出来ないそうではありませんか⁉︎」
燦人の言葉でも納得できないらしい炯は声を荒げた。
人の世に紛れるため、鬼達は普段角を隠し暮らしている。
だが、大きな力を使うときは本来の鬼の姿となる。
火鬼であれば目が赤くなり、髪も赤みを帯びる。そして全ての鬼に共通して、額に角が生えるのだ。
だが、本来の姿を失って久しい月鬼はその姿すら忘れてしまったようだった。
「月鬼は特殊だからな。幾度も滅びかけた事がある。力も伝承も廃れてもおかしくはない」
燦人の言葉に炯は何かを言いかけ、止める。
そんな炯に燦人は柔らかな笑みを向けて告げた。
「何にしても、今夜分かることだ」
「そう、ですね……」
納得は出来ないようだったが、今夜月鬼の娘達の舞を見ればはっきりするのだ。炯は口を閉ざし、夜の準備へと取り掛かった。
燦人は静かになった雰囲気に身を任せ、かつて感じた気配に思いを馳せる。
何でもない普通の日だった。
十二の年、本格的に次期当主としての教育も始まり、庭で鬼としての力の使い方を学んでいるときだ。
突然、はるか遠くに覚えのない気配を感じた。
その気配に惹かれるがまま、視線をそちらの方角へやる。するとすぐに大きな足音が聞こえ、障子戸を勢いよく開き父が現れたのだ。
父も同じ方角を驚愕の表情で見ていることから、あの気配を感じたのだと分かった。
遠すぎたからなのか、火鬼の中でも感じ取れたのは父と自分だけだったらしい。
すぐ後に父から月鬼の話を聞かされた。
「月鬼の女は他の鬼と交われば強い鬼を生むと言われている。しかもあの気配……なあ、燦人よ。あれが欲しくはないか?」
にやりと笑う顔は悪いことを考える大人のものだった。だが、その目には悪戯好きそうな感情も見える。
燦人は強い鬼がどうとか、そんなものはどうでも良かった。だが、父の言葉に瞬時に頷く。
あの気配を感じた瞬間に抱いた思い。それがまさに父の言葉通りだったのだから。
「はい、欲しいです」
そう答えたところまで思い出し、焦がれた気配を探ってみる。
近くにいる気はするのだ。
だが、はっきりとした形にならない。
「早く会ってみたいな……」
焦がれ、求めた気配。
夜がとても待ち遠しく思えた。
***
出迎えが終わり屋敷に戻ると、香夜はすぐに夜の宴の準備に駆り出された。
掃除や座椅子の準備などは午前中に終わっているが、料理や酒などの準備はこれからなのだ。
下準備は終わっているものの、普段動くべき若い娘達はことごとく舞の準備に忙しい。
そのため年の瀬の宴よりも忙しい状態となっていた。
「香夜! お前はそろそろ鈴華の所へお行き。あの子の指示通りに動くんだよ⁉」
日も暮れかけたころ、養母がやってきて大声で指示を飛ばす。
昼のこともあるので鈴華の近くには行きたくなかったが、今日の香夜のお役目はその鈴華の手伝いだ。行かないわけにはいかない。
養母に聞こえるように「はい!」と返事をすると、身だしなみを軽く整え鈴華の部屋へと向かった。
せわしなく動いた後で人が少ない方へと来たからだろうか、急に寒くなったように感じる。
いや、背筋がぞわぞわするこの感じは寒気だ。
昼とはいえ冷たい水を掛けられ軽く拭いただけで終わらせてしまったのだ。風邪を引く前兆かもしれない。
(こんな時に……せめて今日一日持ってくれればいいんだけど)
舞不参加の自分しか鈴華の手伝いをする者がいない。
自分がいなくなれば接待のための料理や酒を鈴華が厨房まで取りに行かなくてはならなくなる。でも、それでは接待の意味がない。
運ぶ人手はどうしても必要なのだ。
「あなたは私の指示通りの料理やお酒を運んでくれればいいわ。そのみすぼらしい姿で燦人様の視界に入らないで頂戴」
鈴華の指示は簡潔にそれのみだった。ある意味有難いといえば有難い。
それにしても、と鈴華を盗み見る。
いつも以上に着飾っている鈴華に、これは本当に接待のためだけの身支度かと疑問を抱く。
これでは長も慌てるはずだ。
「何を見ているの? 私の指示はそれだけよ。初めに用意する料理などは決まっているでしょう? さっさと準備に取り掛かりなさい」
嫌悪も露わに眉を寄せた彼女に追い立てられ、香夜は鈴華の部屋を後にする。
そうして準備が整えられて行き、運命の宴がはじまった。
舞は月がある程度高くなってから行われた。
料理と酒が振る舞われ、丁度ほろ酔い気分となった頃だろうか。
香夜も料理や酒を裏で運びながら、合間にその様子を見ていた。
扇を持ち、ゆるりとした舞はその技量も分かりやすい。
しっかり教えられているとはいえ、年の瀬に披露する者以外は誰かに見せる機会など無い。
故に、香夜のように結界すら張れない娘達の舞は普段目にするものより見劣りしていた。
それでも多少は内包する力があるのか、ぼんやりと舞台の紋様は光を放つ。
とはいえ流石に長もそのような力の弱い娘達から選ばれるとは思っていないのだろう。初めのうちは他愛もない話題を提供しつつ燦人に酒や料理を進めていた。
だが、一人、また一人と舞を終えると、徐々に落胆の色が濃くなっていく。燦人が全くもって反応しないからだ。
一応紋様が光り出した頃一瞥するが、それだけ。まるで興味を持つ様子がない。
それでも最後の娘の番となると、周囲はやはりこの娘なのだろうと多くの期待を寄せた。
だが、その娘ですら対応が同じとなれば落胆どころか騒然となる。
やはりこの里の者では選ばれぬのか。
だが、それならば何故若君は初めにこの里を選んだのか。
大きな騒ぎとまではならなかったが、そんな声がそこかしこで聞こえてきた。
「……まさか、先程の娘で最後なのか?」
だが、愕然としているのは燦人も同様だったらしい。
信じられないといった様子で呟いていた。
「え、ええ……その……」
「あら、指定された年齢の娘ならここにも一人おりますわ」
汗がにじみ出ていそうな長の言葉を遮り、鈴華が得意げに言ってのける。
「私の舞もご覧になって下さいな」
甘えるような声を出し、燦人の腕に手をそえる鈴華。そんな彼女に少し困った表情をして燦人は長に視線を戻した。
「鈴華どのはこう言っているが……良いだろうか?」
「え? いえ、その……娘は……」
「ねぇ、良いでしょう? お父様」
愛娘を手放したくない長は躊躇っているが、このままでは誰も選ばれぬということになる。
期待し、盛大な宴まで用意したというのにこのままでは長としての威厳すら怪しくなってくると思ったのだろう。
愛娘の願いというのも手伝って、最後には頷いていた。
「はい、そうですな。鈴華の舞も見てください」
引きつった笑顔でそう言った長に、鈴華は「ありがとうお父様」と無邪気にも見える笑顔で答える。
そして立ち上がると艶然と微笑み、舞台へと向かった。
その背中を見送りながら、香夜は接待はどうするのだろうと小首を傾げる。
(……まあ、休憩出来ると思えばいいか)
そう切り替えて上座の隅に控えつつ一息ついた。
やはり体が怠い気がする。
今日は早い時間から動きっぱなしだったのだ。昼食もまともに食べられず、夕食も移動しながら口に突っ込むようにして急いで食べた。
それにやはり、昼とはいえ冷水を浴びてしまったのは不味かった。
着物を守るためとはいえ、背中側はほぼすべて濡れてしまっていた。自分で思うよりも体が冷えてしまっていたらしい。
せめて温かいものでも飲めないかと周囲を見回していると、突然聞き慣れない声が掛けられた。
「……貴女は舞わないのですか?」
「え?」
見ると、燦人のお付きの者である炯がそこにいた。
火鬼の者は皆そうなのか、赤みを帯びた黒髪に黒い瞳をしている。まだ幼さは残るが、彼もかなり整った容姿をしていた。
「見たところ燦人様が指定した年齢に当てはまる様ですが……。失礼ですが、お年は?」
「あ、その……十八、です」
無視するわけにもいかないし、嘘をついても失礼に当たる。
何より、真っ直ぐな彼の瞳には嘘や誤魔化しが通用しない気がした。
「あ、ですが私はいいのです! 力も無いし……その、髪色だって変ですから……」
「変、ですか?」
言いつけを破って叱られたくは無いので、香夜は舞わない理由もちゃんと告げた。
だが、炯はその理由にも納得した様子は見られない。
「何をしているんだ!」
そこへ、荒々しい声を上げながら長が近付いてくる。
「ああ……鈴華が舞うなど……ええい! 酒だ! 香夜、もっと酒を持って来い!」
鈴華が舞ってしまえば、彼女が選ばれると思っているのだろう。愛娘を手放したく無い長は自棄になったように香夜に命じた。
「いえ、少し待ってください。彼女も指定した年齢の娘でしょう? ですが彼女が舞うのを見てはいません。どういうことですか?」
静かに、でもはっきりとした炯の物言いは強い印象の声となって届く。
「え? いや、この娘はないでしょう。結界を張る力もないし、何よりこのみすぼらしい髪色だ。お目汚しにしかなりません」
当然だというように何の疑問もなく言ってのける長。
だが、炯はその言葉にも納得するどころか嫌そうに眉を寄せる。
「みすぼらしい? 何にしても、燦人様が指定したのは十六から二十までの娘全員です。跡取りだからと除外していたはずの鈴華どのまで舞っているのに……燦人様を欺くおつもりですか?」
落ち着いた声音だが、確実に非難の色を込めた言葉に長も続く言い訳が思いつかないようだ。
元々自棄になっていたこともあって、「分かりました」と炯の要望に応えた。
「香夜、さっさと行ってきなさい」
簡潔にそう言われ、香夜は舞台へと追いやられてしまう。
突然舞うことになってしまったが、大丈夫なのだろうか。
養母の言いつけを破ることになってしまうし、何より単純に自分の体力が持つかどうか……。
不安を胸に、香夜は言われた通り舞台の方へ足を進めた。
順番を待つように、舞台の下の位置で鈴華の舞を見つめる。
毎年、年の瀬に披露している鈴華の舞はとても綺麗だ。力も里の中では一番強いので、紋様もはっきりとした光を放っている。
(この後に舞うとか、頭が痛くなるわ)
そう思ったら本当に痛くなってきた。
いや、寒気も酷くなってきたし、これは確実に熱が上がってきた証拠だろう。
舞が終わったら養母に伝えて自室に戻れるようにしてもらおう。片付けをしないことで嫌な顔はされるだろうが、倒れたところを運ぶのも嫌だろうから休みはくれるはずだ。
そう結論を出し、とりあえず舞を終わらせなくてはと舞台を見上げていると後ろから聞き慣れた声が掛けられる。
「……香夜、あなたも舞うのですか?」
養母の淡々とした声に悪いことをした子供のような気分で振り返る。
「あ、その……長が舞えと……」
少なくとも自分の意志ではないのだ。言いつけを破るつもりはないのだと訴えた。
だが、感情の読めない眼差しをした養母は追及するでもなく、無言で近付き持っていた扇を差し出してくる。
「扇もなく舞うつもりですか? それこそみっともないでしょう」
そう言って受け取れとその扇を香夜の胸に突き出してきた。
慌てて受け取ると、養母は無言で離れていく。
養母の意図がつかめず戸惑っていると、鈴華の舞が終わったのだろう。拍手と彼女を褒めたたえる歓声が聞こえてきた。
皆も鈴華が選ばれるだろうと思っているに違いない。
里一番の力と美しさを持つ鈴華を里から出すのは忍びないが、名誉なことだと歓声の雰囲気からも感じ取れる。
(尚更私が舞う必要はないんじゃ……)
香夜はそう思ったが、長の命でもあったし養母も止めはしない。
この状況で舞わずにいるのは無理だった。
「まあ、あなたも結局舞うの?」
舞台を降りてきた鈴華がやり切った笑みを嘲笑に変えて言ってくる。
「はい……指定の年齢ならば皆舞えとお付きの方から指摘がありまして……」
「あらそう。まあ、私の後ならあなたの舞がみっともなくても誰も見ていないでしょうから……良かったわね」
と、ご機嫌そうに鈴華は言う。
その様子から彼女も選ばれるのは自分だと思っている様に見えた。
(全く……跡取り問題はどうするつもりなのかしら)
その辺りのことを全く考えていなさそうな鈴華に少しため息をつきたくなった。
だが、誰も見ていないだろうという言葉には少し安心する。
確かに鈴華の美しい舞の後ではそこまで注視されることもないだろう。
ご機嫌な鈴華を見送ってから、香夜は舞台へと上がった。
瞬間、ざわりと異様な空気が宴の中を駆け巡る。
見ずとも、聞かずとも分かる。
何故お前が舞うのだ?
そんな意図が無数の針となって突き刺さってきたのだから。
舞は注視されないと思ったが、別の意味で注目されてしまった。
香夜はいつものように心を凍らせ壁を作り、とにかく早く舞を終わらせてしまおうと思う。
頭痛も酷くなってきた。早く休まなくては寝込む事になってしまいそうだ。
香夜は仄かな月明かりを全身に浴び、集中する。
鈴華の様に美しくは舞えない。
体調も最悪で、正直辛い。
でもこの舞台に立つと、月が少し力を分けてくれる様な気がした。
この舞に楽は無い。閉じていた扇を開き、ただ月明かりの下ゆったりと舞う。
音も気配も全てを遮断して、月に舞を捧げるように扇をひるがえした。
そうして舞の半分程まで来ると、紋様がほのかに光を放つ。
みすぼらしい髪色の穢れた子でも、ちゃんと月鬼としての力はあるのだな、と自嘲した途端集中力が切れてしまった。
体調の悪さも一気に思い出して、ぐらりと体が傾いだ。
(倒れる!)
踏みとどまることが出来なくて、床にぶつかる様に倒れる覚悟をして目をぎゅっと閉じた。
だが、予測していた痛みは来ずふわりと何かに受け止められる。
白檀の香りがするのと、周囲が息を呑む気配を感じ取ったのは同時だった。
「ああ……やっと、やっと会えた」
耳に心地いい低めの声がした。
優しく響く声音。大切なものを扱うかのように抱きとめられた力強い腕。
初めて知るそれらに、香夜はただ驚いた。
見上げたそこには、とても嬉しそうな美しい人の微笑み。
彼は――燦人は、そんな香夜の頬を撫で、睦言を囁くように告げた。
「ずっと求めていた……貴女が私の妻になる女だ」
***
舞を披露する娘達。
次から次へと途切れることなく繰り返される舞を全て見ているわけにもいかず、変な期待をさせないためという意味も込めて、力の気配を感じ取った瞬間だけ確認のように視線をやった。
黒髪の者から、徐々に色素の薄い茶髪の者へと変わっていく。
それでも皆求めていた気配とはまるで違っていて……。
周囲が期待を寄せているな、と思った娘ですら違った。
だが、まさかその娘で最後とは思わなかった。
(見逃した? いや、そんなはずはない。では年齢が違っていた? だが父もそれくらいの年頃だと言っていたはずだ)
自分よりもあのときの気配をはっきり感じとったであろう父が間違えるとは思えない。
驚愕をあらわにしていると、鈴華が名乗りを上げた。
跡取り娘ということで除外されていたはずの鈴華。こうしてそばにいて感じる気配も何となくではあるが違うと感じる。
だが、本人がやる気満々であったのと万が一ということもあった。
長に許可を取り、鈴華の舞も見ることとなる。
鈴華の舞は彼女の自信満々な様子に見合って素晴らしいものだった。
楽のない舞だというのに、その歩の音が、揺らめく薄茶の髪が、楽を奏でているかのように錯覚させた。
(だが、やはり違う)
舞を素直に美しいと思う反面、求めた気配ではないことに瞬時に関心が失せる。
(何故だ? 確かにいると思うのに……。やはり年齢が違ったのだろうか?)
視線は鈴華に向けておきながら、思考は次へと切り替わる。
(こうなったらしらみつぶしに月鬼の女性に舞ってもらうしか……)
そう考え始めた頃には鈴華の舞が終わっていた。
周囲が多大な期待を彼女に寄せているのが分かる。
長はとても複雑そうではあったが、彼女が選ばれると信じて疑っていない様に思えた。
この雰囲気を壊すのは気が引けたが、だからといってあの気配の主を諦めることだけは出来ない。
自信満々な笑みを浮かべながら上座に戻ってくる鈴華を視界に捉えて、困った笑みを浮かべたときだった。
その瞬間、周囲の空気が一変する。
一変した原因でもある周りの視線を辿ると、舞台の上に娘が一人立っているのが見えた。
瞬間、ドクリと心の臓が動く。期待が溢れてくる。
白鼠の色無地に、月下美人の花の刺繡が入った黒地の帯。
他の娘達と比べると質素な出で立ちだが、月明りの下に佇む彼女の髪色にはその素朴さが何よりも合っている気がした。
真っ直ぐな灰色の髪は、煌々とした満月の明かりで白銀にも見える。
そうして静かに舞を始めた彼女に目を奪われた。
鈴華ほどの華やかさも美しさもない。舞の出来とて、事前の鈴華と比べると不出来だ。
だが、それでも惹きつけられる。
「燦人様、私の舞はいかがでしたか?」
戻ってきたらしい鈴華が近くに来て何かを聞いてきたが、耳には入ってこなかった。
舞台の紋様がほのかに光り、彼女の気配を感じ取った瞬間燦人は立ち上がる。
(彼女だ……彼女だ!)
焦がれ、求めていた気配。
それが確信となって目の前にある。
記憶よりも弱い力だが、彼女の気配に間違いはない。
その喜びは、歓喜となって心を震わせた。
すぐにでも近くに行きたいが、舞を止めるわけにもいかないとただじっと見つめる。
そうしていると、彼女は突然ふらついた。
(倒れてしまう!)
そう思った瞬間には飛び出し、全力の速度でもって舞台の上に向かう。
何とか抱きとめるとその軽さに少し驚いた。
だが、求めていた存在が今腕の中にいるのだと思うと喜びの方が勝る。
「ああ……やっと、やっと会えた」
感慨深い思いで発した言葉に、彼女が顔を上げた。
驚きに満ちたその顔は、美しいというよりは可愛らしい。
だが、その可愛らしさこそが愛おしく感じられ、燦人は彼女の頬を撫で大事な言葉を告げる。
「ずっと求めていた……あなたが私の妻になる女だ」
その言葉にひと際驚いたように茶色い目を見開くと、彼女はそのまま気を失ってしまった。
その体が、とても熱かった。
***
熱い、寒い、苦しい。
香夜は熱に浮かされながら、何とかその苦しみに耐えていた。
用意してもらった薬は飲んだ。あとは額を冷やしつつ熱が下がるまで寝ているしかない。
(あれ? でも薬は誰が用意してくれたのだっけ? 額の手拭いも――っ)
ふと疑問に思ったことを考えるが、頭痛に追いやられ思考は途絶える。
そのまま意識がはっきりしない状態で寝込んでいると、部屋に誰かが入って来る気配がした。
その人は額の手拭いを替えると、優しく頭を撫でてくれる。
(誰だろう?)
自分にそんな優しく接してくれる人などこの里にいただろうか?
倒れる直前に見た燦人の優しい微笑みを思い浮かべるが、彼であるはずがない。
大体にしてあれは夢か幻としか思えないのだ。……それに、撫でた手は女性のものだった。
(本当に、誰だろう?)
思うが、頭痛で瞼が開けられない。その姿を見ることが叶わない。
自分に優しくしてくれる女性などいただろうか?
(ああ、でも……)
もっと小さい、両親が亡くなってすぐの頃。
夜泣き疲れて眠る自分を撫でてくれた人がいた気がする。
この手は、その人と同じような気がした……。
***
三日ほど経ち、やっと熱は下がった。
とはいえまだ咳や節々の痛みが残る。
養母にはうつされても困るから布団から出るなと告げられた。
ついでに、あの宴の後のことも聞かされる。
「全く、お前があのまま気を失ってしまうから燦人様は慌てるわ怒りを露わにするわ……。里の者達も騒然とするばかりでてんで使えやしないし」
愚痴られてしまった。
だがそんなことよりも、自分が日宮の若君である燦人の婚約者となっていることの方が驚きだった。
「とにかく燦人様はお前を選びました。今はしっかり病を治して嫁ぐ準備をなさい」
そう告げて立ちあがろうとする養母を引き留める。
「あ、あの! 本当に私なのですか? あれは夢だったんじゃあ……」
養母が嘘をつくとは思えないが、信じることも出来ずに聞いてしまう。
案の定嫌そうに眉を寄せられたが、「事実ですよ」と簡潔に答えられてしまった。
「じじつ……」
それでも信じられないでいると、襖の向こうから声が掛けられる。
「失礼、奥方どの。そろそろ良いだろうか?」
襖越しのくぐもった状態でも分かるその声は燦人のものだ。
内心えっ⁉ と驚く香夜だったが、こちらの様子など気にも留めず養母は彼に返事をしていた。
「はい、ようございます」
そうして開いた襖の向こうには確かに気を失う前に近くで見た顔。
少し申し訳なさそうな顔をしている彼は紛れもなく日宮の若君・燦人だった。
「ですが病み上がりですのでほどほどに。うつされてしまいます」
「少々話がしたいだけだ。それほど長居するつもりはない」
そんなやり取りをした後、「失礼する」と断りの言葉を放ち燦人が部屋の中へ入って来る。後ろには炯が付き従っていた。
「では私は失礼させていただきます」
しかも養母はそう言って出ていってしまうので、未だついていけていない香夜はどうしていいのか分からない。
「すまない、病み上がりだというのに……無理をさせるつもりはない。横になっていてくれ」
「え? いえ。そのようなこと――けほっ」
そう咳をしてしまったのが悪かったのか、「いいから」とやや強引に寝かされてしまった。
うつすつもりか? とでも言いそうな炯の無言の圧力が怖かったのも理由の一つだったが。
「すみません……」
謝罪の言葉に「いや……」と声を掛け少し間を開けた燦人は、言葉を探るように話し始めた。
「その……貴女が寝ている間に里の者から貴女のことを聞いた」
眉尻を下げ、悲しそうに揺れる目を見れば何を聞いたかは想像できる。
呪われた子。穢れた娘。
そんな言葉も聞いたのだろう。
(それで私のために悲しんでくれるなんて……優しい方なのね)
しばらく触れていなかった優しさに、僅かに心が温かくなるのを感じた。
「八年前何があったのかも……」
そう言葉を告げられて、ああ、と力が抜ける。
両親がいないことも聞いたのだろう。
そして、流石に親のいない娘を嫁には出来ないと思ったのかもしれない。
一応長が養父ではあるが、彼は自分を娘などと思ってはいないのだから。
いいのだ。元々夢か幻かと思っていたことだ。
ここは一思いにはっきり告げて欲しい。
そう覚悟を決めて燦人の言葉を待っていると。
「……辛い思いをしたね」
労わるようにそう口にした燦人は優しく香夜の頭を撫でる。
瞬間、凍らせ続けてきた心にある氷の壁に、ピキリとヒビが入った気がした。
「……え? あの……それだけ、ですか?」
「それだけ、とは?」
不思議そうに聞き返される。
「その、親のいない娘など貴方のような方の妻には相応しくありません。しかも穢れた娘などと言われるような私なんて――」
そこから先は口を開けなくなってしまった。
燦人の指が、そっと香夜の唇を閉ざしてしまったから。
「自分を卑下する言葉を口にするものではないよ。それに私は貴女以外を妻にするつもりはない」
「え……?」
「すぐに気を失ってしまったから覚えていないのかな? 言っただろう? ずっと求めていた、と」
言われて思い出す。
そう言えばそんな言葉を聞いた気がする。
「八年前からずっと求めていたんだ。やっと会えた。もう離すつもりはない」
「っ⁉」
語る燦人の瞳に確かに自分を求める熱を感じて、どうしていいか分からなくなる。
誰かに優しくされることすらなかったというのに、異性にこのような眼差しで見つめられたことなど無い。
心臓がドクドクと早くなって、全身が熱くなってきた。
「ん? 顔が赤くなってきたね? すまない、また熱が上がってきてしまったかな?」
香夜の唇から指を離し、心配そうに燦人は眉を下げる。
そんな優しい彼に心配を掛けたくなくて、香夜は戸惑いながらも口を開いた。
「い、いえ……。その、これは熱が上がったのではなくて……。殿方にそんな風に見つめられたことが無いので……その……」
恥ずかしいのです、と最後は消え入るように口にする。
すると燦人は黙り込んでしまった。
呆れられてしまったのだろうかと思いそろそろと彼の表情を伺い見た香夜は、そのまま息を止めることとなる。
その美しい顔には、困ったような、でもとても嬉しそうな笑みが浮かべられていたのだから。
しかも何故かその目には少し意地悪そうな色も浮かんでいる。
「そうか……参ったな」
形の良い唇が、確かな熱を込めて続きを口にした。
「そんなことを聞いては、付け入りたくなってしまう」
「っ! っ? っ⁉」
この方は一体何を言っているのだろう。
(付け入るって何? え? どういう意味の言葉だったかしら⁉)
もはや言葉の意味すら分からなくなってきた。
「……燦人様」
その様子を今まで黙って見ていた炯が、するりと入り込むように呼び掛ける。
「このままでは本当に熱が上がってしまいそうです。そろそろお暇いたしましょう」
「ん? ああ、そうだね」
炯の言葉に同意した燦人は、名残惜しそうに香夜を見ると「では、また明日様子を見に来るよ」と言い残し部屋を出て襖を閉じた。
姿が見えなくなったことでほっと息をつく香夜だったが、襖の向こうから僅かに声が聞こえて耳をそばだてる。
「炯、困った……」
燦人のものと思われる言葉に、やはり何か思うところがあったのではないかと心に壁を作る。
やはり自分が婚約者では困ることがあるのだろう。
覚悟を決めて言葉の続きを待っていると……。
「私の婚約者が思っていた以上に可愛すぎる」
「っ⁉」
作ったばかりの心の壁がぶち壊されるほどの衝撃的な言葉に、香夜はまた熱が上がっていくのを感じた。
あまりにも気恥ずかしくて、誰も見ていないのに布団を頭から被ってしまう。
「はぁ……良かったですね」
襖の向こうから、炯の呆れたような声が聞こえた。
***
ばんっと派手な音を立てて障子戸を開いた鈴華は、そのまま縁側から庭に下りた。
(全く! どういうつもりなのかしら)
何もかもが腹立たしくて、草履で土を踏み鳴らすように歩く。
宴で舞を披露した後、皆が自分に期待しているのが分かった。
鈴華自身も、自分こそが選ばれるだろうと思っていた。
初めて燦人を見た瞬間からその美しさに心を奪われ思った。この美しい人の隣に立つのは自分が一番ふさわしいのではないか、と。
そして宴の席では案の定燦人は舞を披露した者を誰も選ばなかった。
その瞬間確信した。やはり彼が求めていたのは自分だったのだと。
父は子煩悩だから自分を手放したがらないが、日宮の次期当主の妻ならば名誉なことだと思ってくれるだろう。
跡取りの問題はあるかもしれないが、自分以外ならば誰がなっても同じだろう。
だから、選ばれるために舞を披露して燦人の下へ戻ったのに……。
ドンッ
鈴華は思い切り、大きな松の幹に拳を打ち付ける。
今思い出しても腹立たしい。腸が煮えくり返るほどに。
皆も期待する中、燦人の下へ戻り自分の舞はどうだったかと聞いた。
貴女こそ私の妻になる女だという言葉を期待して。
なのに、燦人の視線は自分ではなくよりにもよってあのみすぼらしい香夜に向かっていて……。
あろうことか自分を無視してあの娘の下へ行ってしまった。
(しかも、あんなみすぼらしくて貧相な香夜が燦人様の妻⁉ 有り得ないでしょう⁉)
それでもはじめ、周囲の反応は鈴華と同じものだったから良かった。
香夜が選ばれるなどあり得ない。あの娘を嫁に行かせるなど月鬼の一族の恥だ、と。
もしかしたら大人達が燦人を説得してくれるかもしれない。そうすれば、香夜を選んだのは間違いだったとあの方も認めるかもしれない。
そう思いながら大人達の話し合いを聞いていた。
だが、長である父は決めるのは若君なのだからと煮え切らない態度。
そうしているうちに母が声を上げた。
「よろしいでしょうか?」
母なら自分の味方をしてくれるだろう。
いつも香夜に厳しく当たっている人だ。日宮の次期当主の妻などあの娘には務まらないと一番分かっているはず。
そう思ったのに……。
「私達が何を言おうと決めるのは燦人様です。それに考えてもみてくださいな。あの娘を里から連れ出してくれるということですよ?」
その言葉に場が一時静まる。
そうして誰かがポツリと口にした。
「……そうか。あの呪われた娘が里からいなくなるのか」
すると途端に話の流れが変わってしまう。
「穢れた娘をこの里に置いておかなくて済むということか」
「あのみすぼらしい髪色を見なくても済むのか」
などと、香夜が里から出ることを喜ぶような声が上がってくる。
その様子に鈴華が戸惑い焦りを感じていると、場をまとめる様に母が父に問うた。
「あなた、いかがでしょうか?」
「うむ」
こうなると、鈴華を外に出したくない父の言葉は決まっている。
「燦人どのが決めることだ、こちらが何を言っても無駄だろう。それにあの目障りで使えない娘を連れ出してくれるというのなら願ったりではないか。この里から花嫁を出したという体裁も保てる。一石二鳥だろう」
そう言ってその言葉を里の方針として決定してしまった。
鈴華のようにまだ納得しきれていない者もいたが、長が決めてしまったのなら文句は言えない。
そして方針が決まってから数日。
今では納得しきれていなかった者達も、里で一番の美しさと力を持つ鈴華を手放さなくて済んだのだ。と喜ばしいことのように語っている。
悔しい、腹立たしい。
鈴華はまたドンッと幹を叩き、恨めしい思いを吐き出した。
「あんな子、嫁に出したところで突き返されるのが落ちよ」
そうだ。たとえ燦人が選んだとしても、日宮の家の者が認めるかはまた別の話だろう。
そう考え、心の平穏を保とうとしたときだった。
「ええ、あなたのおっしゃる通りです」
「っ⁉」
呟きに言葉が返ってくるとは思わなかった鈴華は驚き、声の主をすぐさま確認する。
少し離れた場所にいつの間にか佇んでいたのは、燦人達が乗ってきた自動車の運転手だった。
燦人の紹介では遠縁の者だと聞いたが、日宮の姓も名乗っていなかったため立場としては低いのだろうと思い特に名を覚えようともしていなかった。
三十路は超えていると思われる容姿。何だかんだ言っても鬼の一族であるからなのか、それなりに魅力的な顔立ちはしていた。
「変転も出来ないほど弱体化した月鬼の一族の血を取り入れようなどと……全くうちの御当主様は何を考えているのやら……」
鈴華の言葉に同意するような言だったので味方かと思いきや、続いた言葉は月鬼の一族全てを貶める様なものだった。
「……突然現れたかと思ったら、随分と失礼な物言いをなさるのね? 日宮家の縁者でも、遠縁ともなれば礼儀もなっていないのかしら」
失礼には失礼で返す。鈴華は冷笑も加えて運転手の男を見た。
それで僅かでも男が悔し気な表情を見せれば鈴華の気も幾分晴れただろうが、男は嘲りを少し隠しただけで「これは失礼した」と謝罪の言葉を口にするのみ。
「……本当に失礼だわ。私、そんな方と話すことなどありませんので」
面白くない鈴華は男の相手をすること自体が嫌になってすぐにこの場を去ることにした。
だが、男の方は鈴華に用があるらしく引き留められる。
「お待ちください。あなたとて、あの娘が日宮の嫁になるのは嫌なのでしょう?」
思わず、足を止めてしまった。
確かにその点のみなら男と同じ思いと言えなくはない。
「あなたはこうは思いませんか? 選ばれるのが自分ではないのなら、いっそ誰も選ばれずにいてくれた方がいい、と」
「……」
「あのような弱い娘が選ばれるくらいなら、月鬼の一族から花嫁を出さなくてもいいのではないか、と」
正直、思っていた。
だから鈴華は、男を信用ならないと思いながらも話に聞き入ってしまう。
「そして私のように火鬼の一族のほとんどが、月鬼から嫁を取りたくないと思っている」
「……何が、言いたいのかしら?」
だから、男の要望を聞き出そうとしてしまった。
そんな鈴華に男は比較的優し気に微笑み、望みを口にする。
「一部とはいえ利害が一致しているのなら……手を組みませんか?」
それこそ、鬼と言われるに相応しい笑みを浮かべて。
***
また様子を見に来るという言葉の通り、燦人は次の日もその次の日も香夜の部屋を訪ねてきた。
「あの、燦人さま。こう毎日様子を見に来ずともちゃんと準備も進めておりますので……」
香夜は何故自分が選ばれたのだろうという疑問を解消出来ずにいながらも、養母の言う通り嫁入りのための準備を進めていた。
「そういう心配をして来ているわけではないよ? 貴女に会いたいから来ているんだ」
「あのっ、ですからそういうことを言われると……私、どうしていいか分からなく……」
燦人の甘く優しい様子は最早いつものことで、それに香夜が戸惑い気恥ずかしい思いをするのもいつものこととなっている。
いつも熱がぶり返してしまったのではないかと思うほどに顔が熱くなり、その熱のせいで赤くなった顔を見られたくなくて俯くと、そっと燦人の指が頬を掠める。
くすぐったくてつい顔を上げると、溶けてしまいそうなほどに甘い微笑みがあった。
「ああ、本当に可愛いな」
思わず零れ出たというような言葉に、香夜はまともに息も出来ぬほどになる。
(こっ、この方は私の息の根を止めるおつもりなのかしら?)
ずっと求めていたという言葉の通り、燦人は自分を必要としてくれているのだろう。
燦人の砂糖と蜂蜜を混ぜたかのような甘さに、たった数日でもそれが理解出来た。
だが、だからこそ謎は深まる。
一体自分の何が良くてそこまで求めてくれるのか。
これ以上絆されてしまう前に、その辺りをはっきりさせようと思った。
「あっ、あのっ! その……やはり疑問なのです。一体私のどこが良くて選んでくださったのか……。美しいわけでもないし、力だってないですし……」
「ずっと求めていたと言っただろう? それに、貴女に力はあるよ」
「え?」
前半の言葉は予測出来たもの。だが、後半は予測どころか思ってもいない言葉だった。
「今は閉ざしてしまっている様子だけれど、貴女には力がある。八年前に感じた力ある気配は、確かに貴女のものだ」
「え? え?」
理解出来ず戸惑う香夜に、燦人はゆっくり八年前のことを話してくれる。
遠くても感じた気配。燦人と当主しか感じ取れなかったが、確かに強い力を感じたという話。
一通り聞いて、それでも信じられないでいる香夜に燦人は重ねるように言葉を加えた。
「先程も言ったが、今は閉ざしているだけだ。開いて力が扱えるように私も手助けするから、どうか否定しないでくれ」
手を取り、優しく微笑まれる。
自分の手を包む燦人の手は温かく、香夜の心を少しずつ溶かしていった。
嘘を言っているとは思えない。例え嘘だったとしても、そんなことをして燦人に利があるとも思えない。
だが、それを信じるとなると……。
「でも、それが本当だとしたら……私はやはり両親を見捨てた穢れた娘ということに……っ」
八年前と言えば、思い当たるのは事故のあったときのことだろう。それ以外で力を使うようなことが起こったとは考えられない。
ずっと否定し続け、でも心のどこかでその通りかもしれないと思っていた事実。
母が、自分だけは助けようと結界を張ってくれたのだと思った。
だが、母の力は子供だった自分の全身ですら守れるほどのものではなく、香夜に傷一つないなどということはあり得なかったのだ。
だからその点がずっと疑問だった。
それが、燦人の話を真実とすると辻褄が合う。
「私は、両親を守ろうともせず……自分だけっ……!」
言葉が詰まり、涙が溢れる。
どんなに理不尽な目に遭おうとも耐えてきた涙。両親のことを言われても、グッと耐えてきたはずだったのに。
「香夜……すまない、失礼するよ」
いたわし気な声で名を呼び、燦人はそう断りを入れると香夜を自分の胸に引き寄せた。
「っ⁉」
「自分を責めるな。十という齢で力を制御出来る者はいない。その頃の貴女には、自分を守るのが精一杯だったというだけだよ」
宥める様に背中を軽く叩きながら、燦人は優しく語り掛ける。
その優しさが、溶け始めている心にするりと入り込んできた。
「うっ……ひっく、ああぁ……」
優しさに甘えては駄目だ。
そう思うのに、涙は止まってくれなくて……。
これ以上心を許しては、後で傷つくことになるかもしれない。
そう思うのに、燦人の優しさに縋ってしまう。
これはもう手遅れなのかもしれない。
心に作った壁はまるで役に立たず、燦人という存在を受け入れてしまっている。
信じても良いのだろうかという迷いすらも、彼は甘い囁きと微笑みで溶かしてしまう。
いずれ傷つくようなことになったとしても、後はもう自業自得なのだと……。
そんな覚悟をするべきなのかもしれないと、香夜は泣きながら思ったのだった。
***
香夜は病み上がりということもあり、燦人とそのお付きの炯、そして養母以外の人とは会わずに里を出る準備を進めていた。
とは言え自身の持ち物はそれほど多いわけではない。
嫁入り道具は養母が用意すると言っていたし、持ち物の整理は早々に終わる。
なのですることと言ったら髪や肌の手入れくらいなものだった。
「その傷んだ髪と荒れた手を少しでも何とかなさい。そんなみっともない姿で嫁に行くつもりですか?」
そう言って髪に良いとされる椿油や手荒れに効くという塗り薬を渡してきた養母。
(いや、髪はともかく手荒れはあなたがそういう仕事をさせてきたせいでは……?)
と思わなくもなかったが、驚きの方が強いこともあって口には出さなかった。
良い所に嫁として出すからには少しでも身なりを整えさせないと品位に関わる、という養母の言い分は理解出来るが、何だかんだ言って香夜のためになることをしてくれている様にも見えてどうにもおかしい気分になる。
思えば宴の前から少しおかしかった。
着物を渡した時もそうだし、その着物自体も養母が自分のためにと用意したには上質過ぎた。
見栄えだけ取り繕えば良いのならここまで上等なものでなくても良かったはずだ。
燦人の婚約者となり彼と接する機会が多くなったので、結果的には良かったのかもしれないが……。
燦人がいるうちはこれを着ていろと言われたが、里を出る時には養母に返すべきなのか。
だが、この着物以外は着古した襤褸に近いものばかりだ。この着物が無いと流石に困る。
里を出る時に返さなくては駄目だろうか。
返すとしてもせめて代わりにもう少しまともな着物を貰えないだろうか。
流石に襤褸を着て燦人の隣には立ちたくない。
だが養母も何かと忙しいらしく中々話す機会が無い。
それならそれで手伝うと申し出ても「お前は部屋から出ては駄目だよ!」ときつく言われてしまうのみ。
あれだけ厳しく仕事を押し付けて来ていた人物とは正反対にも見える。
それだけ日宮の若君の婚約者という立場は強いのだろうか?
(……それも何か違う気がするけれど)
とにかく着物のこともあるのだから、里を出るまでに機会を見て養母と話をしようと思っていた。
そうして燦人が里に来て一週間が過ぎた頃。
久しぶりに養母や燦人達以外の人物が香夜の部屋を訪れる。
「相変わらず辛気臭くて狭い部屋ね。燦人様はよくこの様な部屋に来ようと思えるものだわ」
部屋に入るなり座りもせずにそう言った鈴華は、香夜を馬鹿にした態度を崩す様子はない。
それだけならいつもの事なのだが、普段浮かべている嘲りの笑みが無いことが香夜には少し不思議に思えた。
「あの、御用は……?」
いつもの様に嫌がらせをされたくは無い。
香夜はあまり機嫌を損ねぬ様、鈴華に用件を問う。
「まあ、簡潔に言わせてもらうわ。香夜、今晩例の舞台で舞ってくれないかしら?」
「え?」
「お父様はあなたを花嫁として里から出すことを決めたけれど、納得していない者もいるのよ。ちゃんと紋様が光って力があると分かればいいの。月が出てきたころに使いを出すから、来なさい」
「え? でもお養母様は部屋から出るなと――」
「お母様の言葉などどうでもいいわ!……いいから来なさい」
「っ!」
とても冷たい目で告げた鈴華は、そのまま香夜の部屋を出て行ってしまった。
馬鹿にした態度で嘲笑するのがいつもの鈴華だ。あのような冷たい目は初めて見たかもしれない。
言いようのない不安が巡る。
だが燦人達は今日はすでに訪れ客室へ戻って行ってしまった。養母は今日も忙しいようで訪れる気配はない。
鈴華はだからこそこの時間に伝えに来たのかもしれない。
相談するならば自分から養母か燦人のもとへ行くしか無い。
言いつけを破る事になるが、鈴華の言葉には嫌な予感しかしなかった。
だが、そう思って部屋を出ようとすると廊下の先に鈴華の手の者と思われる男がいて睨まれる。
この男は鈴華に心酔している里の者達の一人だ。彼女の婚約者候補にすら名が上がらないような男だが、だからこそひたむきな程に心酔している。
「どこへ行くつもりだ?」
「っ! その、通してもらえませんか?」
明らかに敵意のようなものを向けてくる男は怖かったが、なんとか勇気を振り絞って頼む。
だが、彼は「駄目だ」の一点張りで、しまいには力ずくで部屋に押し込めようとしてきた。
仕方なく自室に戻った香夜は、相談にも行けずただ夜が更けていくのを不安を抱えて待つことしか出来なかった。
今晩は下弦の月。その月が上るのは、深夜と呼べるような時間帯だ。
ただでさえ不安だというのに、そのような時間帯に連れ出そうとするなど嫌な予感しかない。
夜も更けた頃、鈴華の使いとして来たのは彼女の友人の一人で少しふくよかな娘だ。
顔を青ざめさせて「来て」とだけ告げる。そんな彼女に嫌な予感は膨れ上がる。
「嫌です。……私は行きません」
首を横に振り拒否すると、もう一人大柄な男が現れた。廊下で香夜を見張っていた男だ。
「鈴華様がそれを望んでいるんだ。無理矢理でも来てもらう」
男は告げると同時に動き出し、大きな手で香夜の口を塞ぎ抱えてしまう。小柄な香夜には抵抗すら無意味なほどの力の差。事実暴れても口を塞ぐ手すら外せない。
そうして結局攫われるように香夜は自室から連れ出されてしまった。
「やっと来たわね」
篝火の焚かれた舞台の上に放り投げられた香夜に冷たい声を掛けたのは鈴華だ。
炎の揺らめきが、彼女の美しく無表情な顔を妖しく照らしている。
鈴華は香夜を連れてきた二人を下がらせると、冷たい眼差しのまま口元に笑みを貼り付けた。
「やっぱりどう考えてもあなたのようなみすぼらしい娘が燦人様の婚約者だなんて信じられないのよ。辞退する気はないかしら?」
提案の言葉なのに、まるでそうしろと命じているかのようだ。
だが、それは無理な話。
燦人が望み、長も方針を決めた。そして何より香夜も燦人と共にいたいと思うようになっていた。
たった数日でも、香夜の心にはもう燦人が住んでいる。自ら手放すことが出来ない程に、彼の存在は香夜にとって大きなものとなっていた。
「……嫌です」
そう答えればどうなるか、考えなくともわかる状況。
それでも、自分の口から辞退するなどという言葉を紡ぎたくなかった。
「そう……なら、仕方ないわよね?」
貼り付けていた笑みすらも消した鈴華は、誰かに場を譲るように香夜から離れる。
すると突然、火の玉の様なものが香夜の顔の横を通り過ぎた。髪が少し焦げたようで嫌な臭いが鼻を掠める。
「すみませんね。あなたのような弱い鬼の血を一族に取り入れたくないのですよ」
現れた男は優しく微笑んではいるものの、その目と態度は人を馬鹿にしていた。
里の者ではない。だが香夜にも見覚えがあった。
珍しい自動車を運転してきた人物だ。確か燦人は柏と呼んでいただろうか。
「とはいえ私の言葉など燦人様は聞き入れないだろう。だから、こうするしかないのだ」
そう言葉にしながら、柏の姿が変化する。
篝火で赤みを帯びていた髪が更に赤く染まり、黒かった瞳が赤く光る。そして、額の髪の生え際辺りから、二本の角が生えてくる。
変転。
聞いたことはあるが、月鬼には失われたもののため初めて見た。
驚き動けずにいるうちに、柏はその手に先ほどよりも大きな火の玉を出現させる。
「すみませんね。死んでください」
謝罪の言葉を口にしているのに、欠片も悪いと思っていない様子で柏はその力を放つ。
「っ!」
避けることも出来ず痛みを覚悟して目を閉じた香夜だったが、中々予想していた痛みは来ない。
熱は感じるが、何かに遮られているような感じだった。
そっと目を開けると、火の玉と香夜の間に一人の女性がいる。彼女は結界の盾を出し香夜を守ってくれていた。
(どうして……?)
「っく! やっとこの子が幸せになれそうだというのに、こんなこと許してなるものですか!」
そう叫んで火の玉を霧散させた彼女を香夜は驚きの表情で見つめる。
「……お養母様?」
呼びかけに振り向いたその人は確かに養母だった。
髪を振り乱し、急いで来たことが分かる。
「香夜、逃げなさい。ここは食い止めておくから」
「でも、何故――」
早口で告げた養母に何故助けてくれたのか聞こうとするが、その前に鈴華の金切り声が響いた。
「お母様⁉︎ 何故その子を庇うの⁉︎」
「鈴華……お前のためでもあるんだよ?」
「どうして……分からないわ、お母様!」
母に裏切られた気分になったのだろう。鈴華は幼子の様にいやいやと首を横に振った。
「落ち着いて、少し下がっていなさい。あなたの母まで殺しはしませんから」
柏は面倒そうに眉を寄せつつも、口調だけは優しげに言い鈴華を下がらせる。
そして冷徹な目をこちらに向けた。炎のように赤いのに、ぞくりとする冷たさがある。そこに躊躇いなど欠片もなかった。
「どいてください、と言っても無駄の様ですね」
話し合いの余地もなくそう言ってのけた柏は、また火の玉を出現させて香夜に向かって投げつける。
「くっ!」
そしてまた養母が結界でそれを防いでくれた。
「お養母様⁉」
「早くっ! お逃げなさい! あなたは月鬼の宝――いいえ、華乃の大事な子。あの子が亡くなったとき、私は何が何でも守ると決めたのだからっ!」
華乃とは母の名だ。友人だとは聞いていたが、それほどに仲が良かったのだろうか?
いや、それよりも何故ここまでして自分を守ろうとしてくれるのか。
今まで厳しく当たってきたではないか。邪険に扱ってきたのではなかったのか。
疑問ばかりが浮かぶ。
だが、今目の前で自分を守ってくれているのは確かにその厳しいはずの養母だった。
「思ったより粘りますね……。だがこれで!」
「きゃあ!」
ばきん、と結界が壊れるような音がして、養母が弾かれる。それをとっさに受け止めようとした香夜も共に倒れた。
「その娘は養女なのでしょう? 実の娘より養女を大事にするのですか?」
柏の呆れたような声に、養母は辛そうに体を起こしつつも睨みつける。
「香夜も鈴華も、私の大事な娘です!」
「っ⁉」
躊躇いのないその言葉は、紛れもなく養母の心からの言葉だった。
養母が何を思って自分に厳しく接していたのかは分からない。何を考え、今守ってくれているのかは分からない。
だが、その思いだけは本物なのだと……頭ではなく心が理解した。
燦人によって溶かされ壊されてきた心の壁が、養母の言葉で全て砕け散る。
「お養母様……」
「……泣いていないで、逃げなさい。燦人様なら、あの方ならきっと貴女を幸せにしてくれるだろうから」
いつの間にか零れていた涙を養母の手が拭ってくれる。
(ああ……この手だ)
幼い頃、泣き疲れた自分を撫でてくれた手。熱に浮かされて辛そうな自分を撫でてくれた手。
養母はずっと、自分を見守ってくれていたのだ。
思えば、養母は厳しいだけで手を上げたりはしなかった。邪険そうに扱いながらも、穢れた娘や呪われた子などと口にしたこともなかった。
手を上げるのも、蔑みの言葉を投げつけてきたのも、他の誰かだ。
壁がなくなり、むき出しになった心に温かい想いが流れ込んでくる。その温もりは心に熱を灯し、強い力となって香夜を勇気づけた。
「柏! 何をしている⁉」
そのとき、少し離れた場所から燦人の声が響く。
「もう来てしまったか……。燦人様、邪魔をしないでいただきたい!」
柏は両の掌に炎を灯らせ、片方は香夜達に、もう片方は燦人に向ける。
「嫌……駄目よ」
燦人も、養母も、傷つけさせない。
彼らを傷つける者は、誰であろうと許さない!
香夜は立ち上がり、心の赴くままその力を放った。
***
夜も更け、とうに眠りに落ちている時間だった。
燦人も横になり、目を瞑り眠っていた。
だが、物騒な気配を感じてすぅ、と瞼を上げる。
(これは、火鬼の力の気配?)
それを理解した途端目が覚める。
ここは月鬼の里だ、火鬼は自分を含め三人しかいない。炯は自分に付き従っているため今も隣の部屋で休みつつ待機している。
(となると柏なのだろうが……)
どうしてか嫌な予感がした。
羽織を着て気配の下へ向かう準備をしていると、襖の向こうから「燦人様」と静かに声を掛けられる。
「炯、行こう」
炯も気配を感じ取り目が覚めたのだろう。燦人は余計なことは口にせず端的にそう言うと、自ら襖を開け足早に外へ出た。
向かいながら、僅かにだが月鬼の力も感じた。嫌な予感は増すばかりだ。
案の定向かった先では柏が香夜に向かって力を放っていた。
「柏! 何をしている⁉」
そう叫ぶが、理由など分かり切っている。
柏は向かう先が月鬼の里だと聞いた時から納得のいかない顔をしていた。それでも当主の決定だということで大人しく運転してきていたと思ったら……。
(やはり納得はしていなかったという事か)
それどころか不満に思っていたのだろう。香夜に危害を加えるという暴挙に出るほどに。
「燦人様、邪魔をしないでいただきたい!」
そう叫んだ柏は、炎をあろうことか自分に向けてきた。次期当主である自分に、だ。
遠縁である柏との力の差は歴然。敵うわけがないというのに。
(だが、いいだろう)
燦人は込み上げてくる怒りに身を任せて思った。
(私の婚約者を害そうとした罪、その身で贖わせてやる)
暴力的な感情が沸き上がる。
求めて焦がれて、やっと会えた存在。可愛くて大事な婚約者。
彼女を傷つける者は、誰であろうと容赦はしない。
そんな思いのまま、全力で叩き潰すために変転しようとしたときだった。
「嫌……駄目よ」
微かな声。だが燦人の耳にははっきり聞こえた愛しい人の声。
その彼女が立ち上がり、閉ざしていたはずの力を放つ。
瞬間、キィンと澄んだ音がした。
彼女の周囲と、自分の周囲に張られた結界。その結界は他の月鬼の女が張る盾のようなものではなかった。
円蓋状の、全方面から守る結界。本来の月鬼が持ち得る力。
燦人は舞台の上に目をやり、眩しそうに細める。
そこには、月がいた。
満月を思わせる薄黄色の目。月光を思わせる白銀の髪。そして、鬼の証である二本の角。
下弦の月の下。かつて、まさに月だと言わしめた月鬼本来の姿となった香夜がそこにいた。
「……美しい」
無意識に呟いたであろう炯の声が聞こえる。
燦人は視線を舞台に向けたまま心の中で同意した。
(ああそうだ。美しく可愛い私の月鬼)
八年前に感じた時よりさらに強い力を持ってそこにある。
強さ故に惹かれるのか。美しさ故に惹かれるのか。もはや理由など分からない。
だが、八年前から彼女のこの気配に惹かれていたのだ。
この思いはやはり変わりないのだと、確信する。
(ただ、願わくば……彼女の心を開放するのは、私の役目でありたかったな)
香夜の近くで倒れている彼女の養母に一瞬視線をやり、そんなことを思った。
やがて香夜は力尽きたのか普段の姿へと戻る。
倒れそうになる彼女を受け止めるため、一週間前と同じように素早く舞台へと上がった。
「燦人様……」
受け止めた香夜は安心したように微笑むと、そのまま瞼を閉じてしまう。
閉じていた力を突然解放したのだ。疲れてしまったのだろう。
燦人は香夜を抱き上げ、先ほどの結界で弾かれてしまっていた柏に視線を移す。
「……柏」
「っはい……」
冷たく呼びかけると、恐縮した様子で柏は姿勢を正し頭を下げた。
「お前は自分が何をしようとしていたのか、理解したか?」
「……はい」
多くは聞かない。
聞かずとも、変転した香夜を見た時の表情を見れば分かる。畏れ、憧れ、敬慕。それらが読み取れた柏に、もはや害意はないだろう。
……だが。
「戻ったら当主に報告させてもらう。それなりの罰は覚悟しておくように」
「はっ!」
今柏を罰したところで困るのはこちらでもあった。自動車を運転する者がいなくなるのだから。
それに害意がないと分かっているのなら、後で当主からしっかり罰を与えてもらった方が良いだろう。
燦人は香夜に視線を戻し、安らかな寝顔に相好を崩す。
「貴女は凄いな」
自分が守るまでもなく、自らの力で、その存在で、周囲を黙らせた。
それだけの価値が、この小柄な娘にはあるのだ。
そんな彼女が自分の婚約者なのだと、自慢したいような、隠してしまいたいような複雑な心情が胸に宿る。
何にせよ、手放しはしない。
香夜の価値しか見えていないような輩には、決して渡すわけにはいかないのだ。
愛しい存在を腕に抱き、燦人はそう決意した。
***
目が覚めると陽はすっかり上っていた。
不思議な気分だった。まさか自分が変転までしてしまうとは。
信じられない気持ちがある一方で、確かに自分にその力があると分かる。
その事実を自身に浸透させるようにぼーっとしていると、養母が燦人達と共に部屋を訪れた。
そして色々と話を聞かせてくれる。
あの後柏と鈴華は大人しくなり、今は部屋に閉じこもっているそうだ。特に鈴華は色んな意味で気落ちしていて、何もする気が起きないといった様子だとか。
養母はそう説明すると、今度は八年前のことを聞かせてくれた。
「あの事故の日。私も僅かだけど感じ取れたんだよ、お前の力を」
そうして向かった先では親友がすでにこと切れていて、唯一生きていた娘の香夜は無傷だった。
共に向かった里の者達はそれを気味悪がっていたが、気配を感じ取っていた養母は香夜が先祖返りであると確信したのだそうだ。
だが、それを皆に知られると香夜は強い月鬼の子を産む道具のように扱われるだろうと判断した。それに、長の跡取り娘として育てられている鈴華の立場も危うくなるだろうと。
だから隠し通すことを選んだ。
元々髪色を気味悪がられていた香夜は周囲の者から辛く当たられ、自分の心を守るために心に結界を張るようになった。
すると身を守るための結界を張れなくなった様だったので、そのままの状況を容認したのだとか。
「隠し通して、いずれは里から出すか比較的優しい者に嫁がせるか。少しでも幸せになれる道を探しているところに燦人様からの便りがあったんだよ」
すぐに彼の求める者が香夜だと分かった。もしかしたら、日宮家ならば香夜を大事に守ってくれるかもしれない。
だが、そちらでも産む道具として扱われる可能性があったので賭けをしてみたのだそうだ。
舞台には上がらないように仕向けつつも、鈴華の近くに置くことで燦人が気付くかどうか。
結局はお付きの炯が気付き舞台で舞うことになるという予想とは違う状況になってしまったが、と養母は僅かに自嘲した。
「……でも、燦人様は力だけではなく香夜本人を想っているように見えた。だから、それを信じてこのまま嫁入りを進めると決めたんだよ」
そう話を締めくくると、燦人が困り笑顔を浮かべ口を開く。
「まさか私まで試されていたとは……。炯がいてくれて助かったな」
そうして視線を向けられた炯は「恐れ入ります」と軽く頭を下げる。
「そうだ、ちゃんと伝えていなかったがこれも持ってお行き」
思い出したように養母は横に置かれていた白い花の刺繡が刺された黒の帯を手に取る。
「これは華乃が私の嫁入りの際に祝いとして刺してくれたものだよ。お前にとっては形見にもなる。私と華乃からの祝いの品だと思って持ってお行き」
「母さんが?」
手渡された帯を見つめ、何とも言えない感情が沸き上がる。ただ、嬉しいという事だけは確かだった。
「香夜」
養母に場所を譲ってもらい近くに来た燦人が、改まって名を呼ぶ。
真剣な眼差しに香夜も居住まいを正すと、強い意志と優しさをその目に宿した燦人が口を開く。
「貴女の力を日宮は歓迎する。そして、私は貴女自身が欲しい。嫁に来てくれるかい?」
余計な言葉は邪魔だとでも思ったのだろうか。だが、直接的な言葉は香夜の心を大きく揺らす。
(欲しい、だなんて……でも、そんな風に求めてくれるなら……)
トクトクと早まる鼓動を落ち着かせるように深呼吸をした香夜は、燦人に笑みを返し三つ指を揃える。
「不束者ですが、どうぞよろしくお願い致します」
頭を深々と下げ、燦人の求婚を受け入れた。
了