3話 旅のはじまり
「おはよう。もう朝だぞ。」
天幕の外から、リチャードの声が響き、メリダは目を覚ました。
酒も飲んでいないのに、ずいぶん寝つきが良かったのだなと彼女は思う。
宿に泊まっていた時でさえ、布団の中でしばらくもがいてから、やっと眠れるのが常だったからだ。
「おはよう。リチャード。寝過ごしたか? 」
「いや、大丈夫。夜明けまでもうすぐってところだ。」
外からのリチャードの声に、メリダは寝袋から一気に這い出した。
朝の湿度を含んだ冷気に、身体を震わせながら手早く服を着たが、冷えきった服の寒さに凍えそうになる。
メリダが天幕から外に出ると、ちょうど東の空が明るくなって来た頃合いだった。
「おはよう。もうちょいで朝メシが出来るぞ。」
リチャードは、焚き火から目を上げると、メリダをチラリと見る。
メリダは、昨日と同じ石に座って、火の暖かさと、薪の燃える香りを楽しむ。
「……ああ。おはよう。何から何まですまないな。」
「一人分も二人分も大して変わんないから。」
焚き火には、串に刺した厚切りのベーコンが炙られていた。
染み出した脂が、串を伝って火の中に落ちる度に、シュワと小気味の良い音と、美味そうな香りが広がる。
「またこれも美味そうだな。」
「ああ。夜営した時は、これじゃないと力が入らなくてね。もうちょっと待っててくれ。」
リチャードは、焼いたベーコンの上に、ナイフで切ったチーズを乗せ、切れ目をつけたパンに挟んでメリダへと差し出す。
「美味いぞ。俺の自信作だ。熱いうちに食ってくれ。」
「ありがとう……。天にまします我らが女神よ……」
メリダは、手早く食前の祈りを済ませると、湯気の立つパンにかぶりついた。
「ん~~~~っっ……!」
口の中に、香辛料の効いた肉汁が溢れ、とろけたチーズがそのしつこさを中和する。
そして肉汁が染みだしたパンは、これもまた絶品だった。
「どうだ? 美味いだろ。」
「…………。」
自慢げに言うリチャードに、メリダは頷く事しか出来ない。
リチャードも、食前の祈りを呟くと、自分の分のサンドイッチにかじりつき、満足そうに頷いた。
「コーヒーも淹れてあるから、ゆっくり食ってくれよ。」
そして、朝日が昇る頃には、サンドイッチは二人の胃袋の中に消えていた。
*
「よーし、終わった。」
リチャードの掛け声を最後に、天幕が綺麗に折り畳まれて、一夜の宿の撤収が完了した。
メリダも大きな帆布を畳むのを手伝ったが、リチャードのように要領良く……とは行かなかった。
馬はリチャードの言うことを良く聞いて、大人しく馬車につながれ、最後に畳まれた天幕を乗せてしまえば、あとはもう出発するだけだ。
「あたしは忘れ物は無いよ。沐浴場も確認して来た。」
「……了解。それじゃ出発するから乗ってくれ。」
「あたしは護衛だし……。」
「いいよ。今日はのんびり行くから、心配しなくても大丈夫。」
「……そういう意味じゃないんだけど……。じゃ、失礼するよ。」
リチャードが馬に軽く鞭を当てると、馬車はゆっくりと動き出した。
神殿があった丘の上は土がむき出しだったので、それなりに揺れたが、街道の石畳に車輪が乗ってからは、まるで滑るように走った。
「何か珍しいものでもあった? 」
馬車の下回りを覗きこむように見ていたメリダに、リチャードが尋ねる。
「いや、この馬車って、ずいぶん乗り心地が良いなって。」
メリダは、滑るように走る馬車の車体を撫でる。
御者台の側面の板には、かぼちゃの焼き印と、製造年月日が記されていた。
昨日は飛ばしていたせいか、ひどく揺れの酷い馬車だと思っていたが、良く見ればまだまだ新しく、革を貼った御者台にも破れは無い。
今までも、仕事で馬車に乗った事は何度もあったが、貴族の馬車でも、これほど滑るようには走らなかった。と、メリダは思う。
「この馬車は、王都一番の職人に頼んで作ってもらった奴なんだ、俺の自慢なんだよ。」
リチャードは、まるで自分を誉めてもらったかのように胸を張って笑う。
「へえ。お金持ちなんだ。」
馬車を一台買うとなると、相当な費用が掛かるのはメリダも知っていた。
それも、王都一番の職人に依頼したとなれば、きっと目の玉の飛び出るような値段に違いないとメリダは思う。
「違う違う。俺の師匠に、馬車だけは最初に良い奴を買っておけって厳しく言われててさ。結構無理して買ったから、やっと最近満車に出来る荷が買えるようになったところなのさ。」
「これだって、相当な値段なんだろ? 酒なんだっけ? 」
メリダが荷台に積んである樽を左手の親指で指しながら尋ねる。
馬車の荷台には、十本ほどの大樽が積んである。メリダは昨日、リチャードから聞いた話を思い出していた。
「ああ。売値で言えば、金貨三十枚ぶんくらいかな。メリダは飲むのかい? 」
「そんなに……。こんな稼業やってるし、飲むのは嫌いじゃないよ。ただ……今は禁酒中なんだ。」
金貨が一枚あれば、五人家族が一ヶ月十分に暮らせる。
商人の金銭の感覚は、自分たちとは違うのだなと、メリダは思った。
「身体でも悪くしたのか? 」
「いや、酒で失敗しちゃってさ。故郷に帰るのも、それが理由なんだ……。」
「失敗って? 」
「仲間とパーティーを組んでたんだけど、大事な仕事だから絶対に遅れるなって言われてた朝に、思い切り寝坊しちゃってさ。いよいよ愛想を尽かされたんだよ。お前はクビだってね。」
「……そんな理由でか? 」
リチャードは、そんな理由で仲間をクビにするなど信じられないと言った顔でメリダを見る。
「いや、それだけじゃなくって、前から酒でやらかす事が多くてさ。もう深酒はしないって約束したばかりだったんだ……。それでもう、何もかも嫌になっちまって、王都を飛び出して来たってわけ。」
半ばなげやりな口調で、メリダは答える。実際、飛び出して来たのは、そんな感情のせいでもあった。
ただ、リーダーの女だったユリカに、いちいち嫌味を言われたり、場合によっては出発前に装備を隠されたりだと言った嫌がらせを受けていた事は、言うべきではないと思って、黙っていることにした。
「それで……そんな軽装だったんだな。昨日は自殺志願者なのかと思ったぞ。」
「……ありがとう。助けてくれて。歩きだったら、もっと早く出なきゃ行けなかったんだな。」
もし、あのまま歩いていたら、今頃はアンデッドのエサになっていたかもしれないと、メリダはぞっとする。
「そうだな。歩きなら平原の入り口近くの宿に泊まって、夜明けと共に歩きだして、ラムゼイの街に着くかどうか……だな。普通は乗り合い馬車を使う。故郷がグリンヴィルなら、こっちに来た時に通っただろう? 」
「あたしはまだ十三だったし、周りに仲間もいたから……結局、頼りっぱなしだったんだよ……あたしは。」
メリダが故郷を飛び出して来たのは、まだ成人になる前だった。
サイラスたちの荷物に紛れ込み、彼らに気がつかれた時には、もう十三の娘が一人で帰れる距離では無かった。
そして、街の出入りの時には再び荷物の中に隠れ、王都まで出てきたのだった。
それから冒険者の荷物持ちから、街のどぶさらいやゴミの片付け、出来る事ならなんでもやった。
そして成人となり、冒険者となった彼女は、ひたすら強くなることだけを考えて、無我夢中で五年を過ごした。
ただ、実際、全てを仲間に頼りっぱなしだったんだと、メリダは振り返る。
リーダーだったサイラスに、何でも任せきりで、結局自分は許して貰えるのだろうと甘えていた。
「……そうだったのか。済まなかった。変な事を聞いちまって。」
「いいよ。もう過ぎた話さ。」
それから、ラムゼイの街を過ぎて、再び森の中に入るまで、二人には会話は無かった。
*
「あ、雨が降って来そうだな。」
木々の葉の間からは、先ほどとは打って変わって、灰色の空が見えていた。
森の中もまるで夕方になったかのように薄暗い。
「ほんとだ。さっきまで良い天気だったのに……。ちなみに、今日はどこまで行くつもりなんだ? 」
足を組み、その上に乗せた腕で顎を支えていたメリダは、リチャードの言葉で、初めて空が曇天になっていた事に気がついた。
「降りださなきゃ、ユーゲンストの街まで行きたかったんだけどな。」
街の名前に、メリダは心当たりが無い。ずいぶん遠くまで来てしまったのだと改めて実感する。
「あとどんくらい? 」
「あと半日ってところだ。」
メリダは辺りを見渡す。
暗い木々の間に、元は何か建物でも立っていたのか、一部分まったく木が生えていない空き地が見えた。
「保たないんじゃないかな。鳥がずいぶん低く飛んでる。」
その空き地を、渡り鳥が地面すれすれを飛んでいた。
こうした時は、大体雨が降ることを、メリダは経験から知っていた。
「無理か……。ギリギリ間に合うと思ったんだがな。仕方ない。」
「街まで間に合わないのか? 」
メリダは、また夜営になるのかもと思う。
ただ、リチャードの用意してくれた天幕は快適だったし、あの美味な鍋や、朝のサンドイッチが食べられるなら、それでまったく問題ないと思っていた。
「いや、一つ手前のミルドって町に宿があるから、今日はそこにするよ。」
「あたしに気を使ってるなら大丈夫だよ? 」
もしかしたら、女を夜営に付き合わせるのは申し訳ないとリチャードが思っているのではないかと、メリダは先に言っておくことにした。
「ああ、そういう意味じゃない。この先は、たまに盗賊が出るんだ。こいつが今の俺の全財産みたいなもんだからさ。」
そう言って、リチャードは親指で後ろの樽を指す。
行商人としては、当たり前の話だった。自分の全財産で仕入れをして、売れて現金化出来れば、また商品を仕入れて次の町へ向かう。
そうして財産を増やし、ゆくゆくは自分の商会を持つ。
それが、行商人を営むほとんどの若者の夢だった。
ただ、盗賊に襲われたり、事故や事件に巻き込まれずに、夢を叶えられる若者は、本当に僅かだった。
「そういうこと……か。うん。わかったよ。」
メリダは、少し残念に思う。
そして、胸の奥がちくりと痛んだ。
今まで、男にこんなに甲斐甲斐しく世話をしてもらった事がないから、勘違いをしていたのだと、彼女は自分に言い聞かせた。