1杯のかけそば
「急げ!」
「了解!」
娘を最後の列に並ばせる。
注文は三列あるのだが、妻と私、娘はそれぞれ3番目、4番目に入る事に成功した。
親子ならではの連携プレーだ。
空いてる列だからと言って油断は出来ない。
一人で二人前注文する不届きな輩がいるからだ。
基本は一列3杯限定。
一列だけ4杯の列があるが、それは日によって違う。
私は偶然に頼るなどという、不確かな真似はしない。
この順番だとギリギリだ。
何とか一人一杯は確保したい。
この蕎麦屋には、一日10杯限定のかけ蕎麦がある。
それが、何とも絶品なのだ。
月見蕎麦やきつね蕎麦も旨いのだが、かけ蕎麦だけ麺もスープも他のとは明らかに違う。
私は今までこれ程旨い蕎麦を食べた事はない。
そのため熱烈なファンも多く、開店直後は熾烈を極める。
開店1時間前から並び、何とかこの順番を確保した。
私の列の最初の客が注文する。
「かけ蕎麦2杯お願いします」
なに!?
2杯だと!!
くそぅ…。
次の客がかけ蕎麦を注文しなければ、何とか…。
妻の並んでいる列を除き見る。
「かけ蕎麦一杯」
よしっ!
まともな奴で良かった。
さぁ、私の前の奴だ。
「え〜と…」
月見蕎麦!
きつね蕎麦!
何でも良いがかけ蕎麦以外を注文しろ!
「じゃあかけ蕎麦一杯」
なにぃ!?
何が、「じゃあ」だ!!
「お願いですから、かけ蕎麦一杯作っておくんなまし」と言え!
私の望みはほぼ途絶えた…。
妻の列は…。
「かけ蕎麦二杯」
二杯だと!!
この後に及んで二杯!?
ふざけるな!
妻の泣きそうな顔が見える。
殴り倒してやろうか!
いや、我慢我慢…。
勝負の世界では仕方ない事だ。
私の番が来た。
一応、聞いてみるとするか。
期待なぞしてないぞ。
「すみません、かけ蕎麦ありますか?」
「ごめんなさいねぇ。かけ蕎麦終わっちゃったのよ」
…期待なぞしてないからな。
泣くもんか、くそぅ。
「つっ、月見蕎麦お願いします」
「はいよ!」
妻の方を見る。
悲しそうな目できつね蕎麦を手に持って来た。
「あなた…ごめんなさい」
「いや、俺こそごめんな」
意気消沈して、席に向かおうとしたその時、娘の嬉しそうな声が響いた。
「お父さん、お母さん!かけ蕎麦注文出来たよ!」
嗚呼!
神は私達家族を見捨てていなかった!
「でかした!偉いぞ!」
私達は席に着いた。
テーブルの上には、月見蕎麦一杯、きつね蕎麦一杯…そしてかけ蕎麦一杯!
もはや私達の目には一杯のかけ蕎麦しか映っていなかった。
「食べようか」
「うん…」
ごくり。
思わず唾を飲み込む。
「たっ、食べなさい」
「お父さん…お父さんも食べなよ。お母さんもさ。皆で分けようよ。美味しい物は、皆で食べた方が美味しいんだよ」
…不覚にも涙が滲む。
なんて優しい子だろう。
こんな優しい子を授かって、私は本当に幸せ者だ。
「うん。そうだよな…ありがとう」
「あなた、こんなとこで泣かないでよ」
「お前こそ目が潤んでるぞ」
「あらやだ…」
一杯のかけ蕎麦を3人で分ける。
涙の塩気で少ししょっぱい。
だが、今日のかけ蕎麦は、この世のどんな料理より美味しいだろう。
その日初めてその店を訪れた男がいた。
天ぷら蕎麦を注文し、食べる。
中々旨いじゃないか。
隠れた名店と言うやつか。
ふと奥のテーブルを見ると、一組の家族連れが座っていた。
一杯のかけ蕎麦を、分けあって食べている。
父親は涙まで流していた。
余程貧乏なのだろう。
不憫な家族もいるものだな。
「勘定お願い」
「860円になります」
代金を払い終えると、男は店を出た。
満腹になったお腹を擦りながら、あの家族の身の上に思いをはせるのであった。
「一杯のかけ蕎麦か…」
冬の風は冷たかったが、胸の奥が少しだけ温かくなった気がした。