それはセックスだった
「目を閉じてみて」
と彼女は言って、僕の瞼の上に手のひらを優しく乗せた。
僕は、目を閉じた。
目の前は喫茶店の風景から暗闇に変っていた。
耳から聞こえる雨と風の音が段々薄れていった。
僕は、一切の物事から切り離され、暗闇に一人にいることを感じた。
でも、不思議と寂しくは無かった。
僕はここが100年後だということに気付いた。
世界は暗闇と沈黙だった。
なんだか僕の周りが暖かかった。
僕は世界に抱かれていた。
世界はあらゆることから僕を守ってくれていた。
世界は母の羊水のようだった。
僕が母のお腹の中で感じていた太古の記憶だった。
僕は赤ん坊になっていた。
未来は僕の過去へと連続していた。
すると、どこからか、ほんわり一つの光が僕を差しているように感じた。
光は明滅していた。
僕はそれを見ようと目を凝らした。
でも、その光は目を凝らせば凝らすほど見えなくなった。
僕は手を伸ばした。この手で触れたい。でも触れようとすると、それは遠ざかっていくように感じた。
でも僕はぼくにもあるんだと思った。
僕の目からは突然涙が溢れた。
涙は、僕の中のあらゆるものを吸い取って、僕の中から出ていっているように感じた。
僕ははじめてそれが孤独だということに気付いた。
25年積み重ねてきた孤独なんだ。
急に、目を閉じた瞼の上から熱く、彼女の息を感じた。
彼女は、僕の涙を舐め取っていった。
不思議と気持ち悪くはなかった。
それは優しく、温かい行為だった。
それはセックスだった。
彼女とのセックスは肉体の関係では無かった。
それは、もっと深い繋がりだった。
彼女は僕を許してくれた。
僕の涙は止まらなかった。
彼女は僕のすべてを舐め尽くした。
「目を開けて」
僕は静かに目を開けた。彼女の顔があった。彼女は少し疲れているようだった。そして、さっきより3歳くらい老けて見えた。彼女の唇からはルージュの口紅が取れていた。僕は何も言えず、ただ彼女の顔を眺めていた。彼女は微笑んだ。そして、髪を拭いたタオルを手に取り、僕に渡した。
「大丈夫?」
彼女は言った。僕はどうしようもなく疲れていた。席から腰をあげることが出来なかった。
「あなたはこれからよ」
と彼女は言った。僕は、どうしようもなく眠かった。僕は目を開けていられなかった。
僕は目を閉じた。
「眠りなさい」
と彼女は言った。
僕が目を開けると、彼女の姿は無かった。彼女の飲んだコーヒーと少し湿ったタオル。
そして、ルージュの口紅で「タオルをありがとう」と書いた紙があった。僕は窓の外を見た。雨が上がっていた。
ラジオのパーソナリティが「**市で大雨警報が解除されました。天気はこれから晴れに向うでしょう」と告げた。
太陽の光が雲間から差していた。僕は、太陽に手を伸ばした。