迷ったらね。今じゃなくて、100年先を考えるの
「ホットコーヒーです」
と僕は彼女の前に差し出した。彼女は微笑んで、
「ありがとう」
と言った。彼女の髪はすこし湿り気を残していた。彼女の髪から甘い香りがした。僕はお辞儀をして、またカウンターに、戻ろうとした。
すると、彼女は言った。
「ねえ。ここに座って話をしない」
彼女は僕の目をじっと見つめていた。僕は、迷った。すると、彼女は、
「店のご主人は」
と言った
「今、店の買出しに行っています」
「じゃあ、5分だけ」
彼女は微笑んだ。小雨が窓を軽く叩いた。
「わかりました」
と僕は言って、彼女の対面の席に座った。
「あなたはいくつ?」
彼女は言った。
「25歳です」
「あなたは何をしているの」
「フリーターです」
彼女は微笑んだ。そして、話を続けた。
「会社に勤めようと思わなかったの」
「何社か面接を受けたのですが、僕は会社に向いていないと思いました」
「それは何故かしら」
「わかりません。とにかく、雰囲気が違ったんです」
「それは果たして雰囲気の問題かしら」
「そうですね。僕にもはっきりとは分かりませんが。なにか傷つけられる感じがしたんです」
「傷つけられる?」
「はい。僕の何かが」
彼女はじっと僕を見ていた。僕はなにか透明になった気がした。
「これから、あなたはどうするの」
「わかりません」
雨が俄かに強くなってきた。風に煽られた雨は窓を強く叩いた。窓から見える店の前の通りには傘を差した主婦が数人走っていた。風が鳴った。
「そう。私があなたに少し、アドバイスをしていいかしら」
僕は、彼女の顔を見た。彼女はチェリーピンクのアイシャドウにルージュの口紅をしていた。彼女の髪の香りが鼻をくすぐった。
「迷ったらね。今じゃなくて、100年先を考えるの」
僕は驚いて言った。
「100年先だと死んでいますよ」
彼女は微笑んだ。
「そう。あなたは死んでいるわね。そして、私も」
僕はその先を待った。彼女は思い出したかのようにコーヒーに口を付けた。そして、そのままの姿勢で何か考えていた。彼女はコーヒーカップを静かにテーブルに置き、間をおいて言った。
「私が言いたいのは。100年先の自分を考えると、今、あなたの周りに置かれている環境が変わったように感じるんじゃないかっていうことなの。そう考えると、また違った見方ができるんじゃないかしら」