午後3時12分
その女の人が店に入ってきたのは、午後3時12分のことだった。平日の水曜日の午後に加えて、小雨が降り出したこともあって、店には誰も人がいなかった。昼から台風が来ると天気予報では告げていた。僕はカウンターで洗ったグラスを布巾で拭いていた。入口の鐘がなり、僕は入口の方を見た。彼女は30歳前半くらいで、膝丈までのベージュのスプリングコートを着ていた。彼女はコートに付いた水滴を入口で払って、僕を見た。彼女の前髪が雨で濡れて、店のライトを反射して鈍く光っていた。
「席はどこでもいいかしら」
彼女の声に、僕の心臓はひとつ大きな音を立てた。彼女の声は、どこかで聞いたことのある声だった。どこか昔に聞いたことのあるような。
「はい」
僕は、動揺を悟られないように、すこし声を抑えて言った。彼女は、店を軽く見渡した。そして。僕に軽く微笑んで、店の奥の窓側の席に向った。黒のスプリングブーツのヒールが木の床を心地よく鳴らした。彼女のベージュのコートの下からは深緑のスカートの裾が見えた。
僕は、水を注いだグラスをトレイに置き、メニューを脇に挟み、乾いたタオルを持って、彼女の席まで持っていった。彼女はコートを脱ぎ、窓から見える雨を静かに見ていた。雨は静かに窓の上を流れた。彼女はコートからは見えなかった薄いピンクのアンサンブルを着ていた。僕が行くと、彼女は軽く微笑んだ。優しい微笑だった。僕の心臓はまた鼓動を早めた。僕は、彼女のテーブルにグラスを置き、メニューを置いた。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼び下さい。それから、タオルをどうぞ」
彼女は僕を2秒くらい眺めたあと、口を開いた。
「これはサービス?」
「私からのサービスです」
彼女は小さく笑った。
「ありがとう。貸してもらうわ」
彼女は白く、長い指をした手を差し出して、僕からタオルを受け取った。そして、白いタオルで濡れた髪を拭き始めた。僕はお辞儀をして、カウンターに行こうとした。すると、彼女は、
「ホットコーヒーを一つ。あと、あなたの制服姿は素敵ね」
と言った。彼女はまっすぐ切り揃えられた艶のある黒い色の前髪から覗くように僕を見ていた。僕は、自分が着ている黒のベストに白シャツ、黒のスラックスの制服を見た。
「店の主人の趣味なんです」
「いい趣味ね」
と笑った。そして、タオルで髪を拭きながら、また外に視線を戻した。僕はカウンターに向った。
僕はホットコーヒーを作りながら、彼女を時折、見つめた。彼女は髪を拭き終えて、窓の外を見ていた。でも、僕は、彼女は多分何も見ていないと思った。彼女の視線は一点で止まっていた。僕は彼女の声を思い出した。彼女の声に思い当たる節はなかった。
ラジオのパーソナリティが「現在、台風18号が上陸しました。大雨警報が**市で発令しました。ご注意ください」と告げた。