プロローグ
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戦火はすでに、彼女の生まれ育った家をも呑み込まんとしていた。
周囲を取り巻くその炎は一層苛烈さを増し、その気配は熱気や音となって、幼い彼女の恐怖心を喝采する。時間がない。焦りが精神を支配し、思わず半ば怒ったような悲痛な声をあげる。
「お父さんッ!!」
「待ちなさい、あと少しで終わる!」
父が必死で急いでいることなど、彼女もわかっている。しかし、すでに火の広がり始めた我が家の中にあって、幼い彼女のその言動を誰が責められよう。
消火隊は来ない。来るはずがない。涙目で外を一瞥すると、炎の他には動くものはない。皆、同じように倒れている。烈火に炙られたか、或いは他の、もっと単純な悪意に刺されたか。
逃げ出したい。が、足がすくんで動かない。
そのとき、突然に両脇を抱えあげられて、彼女はハッとした。父だ。大好きな父の手だ。父は彼女を抱えたまま、床に開いた隠し階段へと彼女を連れていく。数段降りたところに彼女を下ろすと、父は悲しげに微笑んだまま、下りてこない。おかしい。
「お父さんッ!!!」
泣きながら、小さな手で大きな手を引っ張る。父は何かを必死に堪える顔で、しかしとても優しい声で、言った。
「行きなさい」
「やだ、やだよっ……」
「私はここで、終わらなければならない」
愛する父の、見たことのない眼差しに射抜かれ、彼女は何も言えなくなってしまった。ただ涙を流すことしかできない。
「あ……」
「これを、持っていきなさい。決して離さぬようにね」
彼女の手を開き、父は何かを握らせた。そして、愛おしむように、慈しむように彼女の手をぐっと握ると、
「君が希望だ。父さんはずっと、お前を覚えているからね」
「……」
「さぁ、行くんだよ」
声を出せない彼女に微笑みかけ、分厚い煉瓦戸に手をかける。彼女はただ、頷くことしか出来なかった。そして、何か大きな、大きなものを、受け取ったように感じた。
「愛しているよ、サレン…」
「ま……」
無情にも、外からの光は閉ざされた。直後、石壁の通路に轟音が響く。それが炎に耐えきれず家が崩壊した音だと、限界の心でも容易に理解できた。
もう、戻れない。魔石のランプが薄ぼんやりと照らす隠し通路を、彼女は泣きながら、それでも前を向いて歩き続けた。
握らされたものに残る微かな温もりだけが頼りだった。