災禍
「ねえ、カズ、起きてよ」
夜更け、ベッドの上で眠る僕に彩加が声をかける。
きっとまた、いつもの話だ。
「外に出ない?」
むりだよ、と僕は答える。
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2020年初頭に某国より発生した新型ウイルスの影響で、人間はそれまでの社会を放棄せざるを得なくなった。ウイルスはあっという間に地球全土に広まり、全世界で猛威を奮った。
先進諸国は競い合うようにワクチンの開発へと努めたが、新型ウイルスの感染スピードや人体への影響はかつてのウイルスとは比較にならないものであり、作業は困難を極めた。
次第に諸国でデモが起き、反乱が起き、徐々に社会の秩序は崩壊していく。
どうやら目に見えない敵に対する恐怖心や解決の糸口さえも掴めない不安は、人間たちの疑心暗鬼を駆り立てるのに一層有効らしかった。
ウイルスが爆散した当初こそ、諸国では締まりの無い外出自粛要請や多少の給付金をバラまくことで国民の行動を抑制することに成功していたが、次第に国民の危機意識は薄れ、生活に困窮する人々から順に普段通りの生活を取り戻そうと、街へ繰り出していった。
その当時、ウイルスが罹患者を死に至らしめるリスクは全体の2%程度だったらしい。正直、外に出るのも頷ける。
私たちが住む日本も、例外ではなかった。
しかしウイルスの発見から8ヶ月が過ぎた頃、世界中で罹患者に対する死亡率が跳ね上がったのだ。
5%、8%と上がっていった数字は、遂には60%を超えてしまった。
「罹ったら死ぬ」病気へと変貌を遂げたのである。
これを境に諸国では国民に対する一切の外出を禁止する法案を可決する。
出たら死ぬ。だから出るな。
それだけの話である。
それでも外に出て国に抗議するデモ団体、反政府組織は後を絶たなかったが、詳細はここでは割愛しよう。どうせみんな死んだのだから。
時を同じくして、日本でも一切の外出を禁じる法案が可決された。
電気、水道、ガスといった生活インフラのみを停止させない代わりに、家から一歩でも外に出たものは自衛隊が射殺する旨が国民へ周知されたのだ。
インターネットへの接続はその三日後に遮断された。
食料は週に1度、自衛隊が家の前に1週分の食料を乱暴に投げ置いていくものを食べるしかない。
そして、せいぜいひと月程度のそれかと思われた国民の願望は、
「ウイルスは空気中に14年以上滞在する恐れがある」という研究結果で打ち砕かれた。
そこから約2年、僕たちは陽の光を浴びず、モグラのように生き延びていた。
結局のところパンデミック発生から3年が経った今もワクチンは完成されておらず、
あらゆる国々で、社会の崩壊がそれよりも先んじてしまったのだ。
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「お願い。一緒に外に出よう。」
彩加は繰り返す。毎日のように同じ会話を繰り返してきた。
夜中は人を不安にさせる。彩加がわがままを言うのは決まって夜中だ。
「このままずっと家の中にいるなんて、もう耐えられないよ。そんなの牢屋となにも変わらない。わたしは何もしていない。ひとを閉じ込めるなんて、誰もしていいはずがない。」
外に出たら死ぬんだぞ、と僕は彩加の顔を見ずに呟く。繰り返される会話に、僕は飽き飽きしている。ここのところ、彩加はずっとこの調子だ。
「ずっと家にいて、寝て起きて食べて寝るだけ。これじゃあ死んでるのと変わらないよ。ずっとずっと耐えてきたけど、私にはもう限界。カズと一緒に外に出たい。」
そんなことしたら、ウイルスに罹るか撃たれて死ぬかだ。
「それでも、死ぬのが少し早くなるだけだよ。私はその方が良い。」
僕は嫌だ。うちで冬眠していれば、いずれ世界は元に戻るんだよ。それを待てば、元の世界に戻れるんだ。なんとかして耐えよう。
「元の世界に戻って、その時あたしは何歳?人生の華やかな時期を全て部屋で過ごすなんて、到底耐えられないよ。」
そのとき君は、37歳だろう?まだギリギリ子供も作れる。僕がいるから大丈夫だよ。
「何言ってるの、あれから14年経ったら私は35歳よ。」
あれ、そうだったか。もう時間の感覚を失ってしまったのかもしれない。
「それに、どうしてもカズが行かないのなら、私ひとりで外に出る。これは本当に決めたことだから。」
何言ってんだ。そんなこと許すわけないだろ。
「いいの。カズは部屋にいて。」
やめろよ。死ぬだけだ。
「大丈夫。近所を散歩するだけよ。少し経っても帰らなかったら、迎えにきてね。」
やめろって。
僕は彩加を追う。なぜか足元がふらつくし視界もままならない。
ドアを開ける。足を踏み出す。
裸足で出てきたから足の裏にコンクリートのゴツゴツとした刺激が走る。
懐かしいなあ。ああ、少しずつ目が開いてきた。
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自衛隊より連絡。本日未明、外出禁止要請を無視し、警備区域内を歩く男一人を射殺した。
なお、男の部屋に白骨化した女性の遺体を確認。死後2年程度経過している模様。
女性の遺骨に新型ウイルス発症時における変色を確認。死因は新型ウイルス罹患によるものとする。
男はストレス過多による夢遊病を発症していた恐れあり。以上。当区域内の警備を続ける。