兄、エルドワを切りつけようとする
初代王の醸す雰囲気が、明らかに変わった。
その変化は、おそらくユウトにすら分かるほど明確だったと思う。
それに気付いたレオは反射的に右手を剣の柄に添えたが、しかしいつもなら同じように即座に臨戦態勢に入るはずのクリスとネイは、動かなかった。
カリスマが効いているせいで反応が遅れているのだろうか?
幾ばくかの嫌な予感を覚えつつ、レオが二人に声を掛けようとする。が、その刹那、エルドワのぶら下がっている左腕が、いきなり締め上げるように強く絞られたことに驚いた。
これは、行動の抑止ではなく攻撃だ。それに慌てて視線を向けると、エルドワが毛を逆立てて牙をむき、今にもレオの腕に噛み付こうとしているところだった。
「エルドワ……!」
利き腕ではないとはいえ、今片腕を損傷すればゲート脱出は酷く困難になる。レオは間髪入れずに剣を抜いた。
エルドワは姿こそ子供だが、純粋な腕力で言えばレオの力をもってしても振り払うことも引き剥がすことも困難。ならば殺さぬ程度に切りつけるしかないと即座に判断したのだ。
この子犬はカリスマを飛び越えて、明らかに操られている。確認していないが、おそらくクリスとネイも。
いつの間に、なんて考えている場合ではない。実際操られているのだから対処するしかない。邪魔をするのではなく、明らかに敵対行動を取っている。ならばいっそこいつらは今のうちに戦闘不能にしておくべきか、と物騒なことを考えて。
しかし次の瞬間には、振り上げようとした右手を再びユウトに抑えられて固まった。
「ユ、ユウト!?」
まさか取り戻したと思っていた弟も敵に翻ったのか。
ユウトには絶対手を上げることなどできない兄の血の気が引く。
しかしレオが何か反応をする前に、ユウトがエルドワを叱った。
「エルドワ、めっ!」
何とも可愛らしい叱責である。怖さなど微塵もない。
だがその途端に、エルドワの瞳にはたと正気が戻った。レオを締め付けていた腕から力が抜け、牙が収められる。この小さな干渉だけで、子犬は敵の支配下から外れたのだ。ただ怒られて、少ししょげたように耳が寝てしまっているが。
「ごめん、ユウト」
「うん」
まあ素直に謝ったエルドワの頭をユウトが撫でれば、もう元通り、この子犬は完全に弟の騎士だ。
そうだ、エルドワはカリスマなどよりずっと強い血の契約で、ユウトと繋がっているのだった。ユウトさえこちらにいれば、この子犬を味方に引き留めることができる。
それが分かっていたから、弟は兄がエルドワを無駄に傷つける前に止めたのだ。
あんな可愛い一喝で最強子犬を味方に取り戻すとは、さすが俺の弟。
レオは、ユウトが敵に回ったわけではなかったことに安堵し、その機転を内心で誇る。
だがすぐに、その弟にじとりと睨まれ咎められた。
「もう、レオ兄さん! エルドワを攻撃しようとしたでしょ! 仲間を傷つけるなんて絶対ダメだからね!」
「仕方がないだろう、あのままだと俺の腕がエルドワにやられてた」
「攻撃する以外にもやりようはあるでしょって……わあっ!?」
プンプンしているユウトは可愛いが、今それを堪能している暇はない。レオは弟を抱え上げて二歩ほど引いた。同時に左腕にぶら下がっていたエルドワを地面に下ろす。
ユウトのおかげで正気を取り戻した子犬は、すぐに臨戦態勢を取って鼻をひくひくさせた。
「……エルドワ、今どうなってる?」
「ここ、すごく気持ち悪い魔力と、瘴気が充満してる。ユウトに怒られるまでそれがとっても良い匂いだと思ってて、レオだけ不愉快な臭いだと感じてたんだけど」
「不愉快な臭い……だから排除しようとしたのか?」
「うん。すっごい臭かった」
「臭……」
不細工とか馬鹿とか言われるよりも凹む気がするのはなぜだろう。そんなテンションの下がったレオを気に掛ける様子もなく、エルドワは続けた。
「でも今は逆。あいつの方が気持ち悪い臭い。いろんなものが混ざり合ったみたいな感じ」
「混ざり合った……」
先ほどまでの初代王の自我は、明らかにひとつだった。それが混ざり合ったということは、彼は呪いの剣に込められた歴代王族の怨念に呑み込まれたということだろう。
この時点で、あの男のカリスマに確実な悪意が混じったことになる。ならばそのスキルの効き目は薄れるはずなのだが、漂う瘴気が中毒をもって拘束力を発揮しているのだ。
(しかし瘴気無効を付けているはずのクリスたちや、瘴気の影響を受けないエルドワまで一瞬で引っ張られるとは……)
一方でユウトだけ掛からなかったところを見ると、やはりカリスマによるトランス状態が人体に瘴気の干渉を許し、中毒を引き起こす要因なのだろう。
幸いエルドワは、カリスマの支配より上位に位置するユウトとの契約のおかげで、すぐに正気に戻れたけれど。
「……おい」
レオは警戒をしながら、こちらに背を向けたままのクリスとネイに声を掛けた。
現状から考えて、この二人はほぼ間違いなく敵に心を移している。しかし未だ微動だにしない上に敵意も殺意も見えなくて、逆に不気味だ。
どうしたものかとそのまま反応を伺っていると、不意に初代王がこちらに向かって手招きをした。
こちらといっても、もちろんクリスとネイに向かってだ。途端に二人が、ためらいなく敵である男に近付いていく。
だがその距離を詰めながらも、おもむろに武器に手を掛けたクリスとネイに、レオは驚いて目を瞬いた。
もしかして攻撃に行くつもりなのか? てっきり完全に敵に籠絡されていると思っていたのだけれど。
ならば自分も出るべきか。そう考えて身動いだところで、しかしレオはエルドワに止められた。
「レオ、今はクリスもネイも正気じゃない。近付いちゃだめ」
「……だが、あいつら武器を手にして……」
「二人にも変な臭い付いてる。臭い」
「あいつらも臭いのか……。まあこの世に良い匂いなのはユウトしかいないから仕方ないな」
「それはそう」
「ちょ、レオ兄さん僕の匂い嗅がないで!」
抱えているユウトの匂いを確かめていると、不意にクリスとネイが初代王の前で恭しく跪いた。これは、明らかに臣下の礼を取っている。しかも事もあろうに、二人は男に対して自身の武器を献上品のように差し出した。よりによって各自のメイン武器をだ。
いや、いやいや。正気であれば決してありえない。
レオは慌てて二人に向かって声を張り上げた。
「おい、おまえら! 何してるんだ! そいつは敵だぞ!」
「レオくん、黙っててくれるかな。この方は敵じゃないよ」
「そうですよレオさん。この方は我らの新たな主君です。俺たちはこうして誠意を見せているだけですよ」
そう言って振り返った二人の目は、完全に狂信者のそれだった。
……これは超心酔、洗脳状態、下手に突っつくとやばいやつだ。この状態の相手には、どれだけ説得しようが全くの無駄。魔法ではないから解呪も効かない。さて、どうするべきか。
隙だらけの今のうちに二人を蹴散らして敵を倒せればいいのだが、エルドワが前に行こうとするレオを止めているのだから、きっと突っ込んでいくとまずいことがあるのだろう。
ならばユウトに魔法を一発撃たせてみようか、などと考えていると、その弟がふと前を見てくりんと大きく目を瞠った。
「……あ、レオ兄さん」
「ん?」
「クリスさんの、あれ……」
言われて視線を向けたレオは、ユウトの言わんとしていることにすぐに気が付いた。
ネイが差し出していたのはミワが作った最強武器、ジャイアント・ドゥードゥルバグの大顎を使った短剣だが、クリスが差し出したのは憎悪の大斧だったのだ。
あれはクリスにしか持つことのできないユニーク武器。それを受け取れば、初代王はその重みでバランスを失い、前につんのめるはず。同時に二人の意識もあの男に集中するだろう。
だったらそのタイミングで、あの呪いの剣をぶんどれないだろうか。それだけなら、わざわざ近付かなくてもユウトの魔法のロープでいけるかもしれない。
そう、さっき初代王が言っていたように、敵の本体はあの呪いの剣なのだ。あれをさっさと奪って破壊してしまえば終わる。そうだ、そうしよう。
レオはまずネイの短剣を取り上げた男の様子を伺った。そして、その手がクリスの武器に伸びるのを確認し、こっそりとユウトに指示をだそうとして。
「……ほう。これはずいぶん良いものだな」
「ああ、さすがです! これをお使いになれるなんて!」
「は……?」
しかし次に目の前で起こったことに、レオは目を疑って動きを止めた。
なぜなら初代王が、クリスの憎悪の大斧をあっさりと手に取って持ち上げたからだ。世界で唯一、選ばれた者しか扱えないはずの、ユニーク武器。そのはずなのに。
「レオ、レオ」
そうして困惑するレオの服の裾を、エルドワが引いた。
「今のではっきりした。あいつのいろんなものが混ざった臭いの中に、クリスとネイの匂いもする」
「……何?」
「あいつの中に、クリスとネイがいる」




