弟、兄に威圧される
「……何だと?」
ユウトの言葉に、レオは今まで弟に聞かせたことのないような低い声が出た。途端にユウトだけでなく、エルドワもピッと緊張に身体を固める。まあ当然だろう。もちろん殺意など含むわけはないが、この一言にかなりの怒気が乗った自覚があった。
弟相手にこの声音で応対するのは初めてかもしれない。だがここは狼狽えるユウトの可愛さに流されてやるわけにはいかないと、レオは敢えて威圧的に腕を組んで、上から見下ろした。
そんな兄の様子に固まった弟が、冷や汗をかきながらこちらを見上げてくる。どうやら今まで向けられたことのないレオの感情に戸惑っているようだ。
もしかするとエルドワがそんなユウトを庇い立てするかと思ったが、この状況で口を出すのは悪手だと分かっているのだろう。レオがユウトに悪意を向けることなど絶対あり得ないと知っているからこそ、賢い子犬はただ緊張に耳と尻尾を逆立てて、こちらの様子を窺っていた。
「……お前は、俺の愛情を作り物だというのか」
「だ、だって……父さんに隷属して、その力ももらって、僕を護れって命じられてるんでしょ? レオ兄さんがそれに従うように、父さんが暗示か何かを掛けたかもしれないじゃない」
「……まさかユウトが俺のこの弟愛をその程度で疑うとは思わなかった」
「そっ、そういうわけじゃないけど……」
「そういうわけ以外に、どういうわけがあるというんだ? 今俺がこうしながらも『ビビってるユウトも可愛い』と思っていることも、お前に言わせれば魔王のせいだと考えているんだろう?」
「あっ、いつものレオだ」
この言葉に、何故か脇で聞いていたエルドワが安心したように緊張を解いた。おかしい、怒気を緩めた覚えはないのだが。
しかし真正面で未だにレオの威圧を受けているユウトはしっかり怖じ気づいたままだから、まあいいか。兄の愛情を疑うことがどれほど愚かなことか、この弟には骨身に沁みてもらわないといけない。これはレオのアイデンティティに係わる、極めて重大なことなのだから。
そもそもレオは、『ユウトを大事に思うように仕向けられた』ような事実などないと、断言できるだけの確信がある。それでも魔王絡みで弟を大事にする理由を強いてあげるのなら、生殺与奪の権利を握られていることくらいか。だがそこと感情は関係ない。
実際、もしもそういう暗示が掛けてあったなら、魔研でのレオとユウトの最初の出会いはもっとマシなものになっていたはずだ。
そう、その場でジアレイスをぶっ飛ばして、そのまま魔研から連れ出し、可愛がりつつ養っていたに違いない。あんな、自分のために死ねなどという馬鹿げた約束を取り付けることなど、絶対になかったはずなのだ。
魔研でのユウトの記憶を絶対に掘り起こしたくないレオはその事実を口にすることはできないが、代わりに別の方法で自分の心を証明してやろうかと口を開いた。
「何なら魔王を殺すか?」
「うえっ!?!? な、な、な、なんで!? 駄目だよ!」
「あいつを殺しても俺のユウト愛が変わらなければ、疑念は解けるだろう。お前の俺に対しての疑いを晴らすためなら、俺はそのくらい危ない橋を渡っても構わん」
「いやいやいや、駄目駄目! そんな橋勝手に渡らないで! そもそもレオ兄さん、父さんと隷属契約してるんでしょ!? それを反故になんてできないじゃん!」
「俺は別にあいつに行動を縛られてないし、やり方さえ分かれば殺すことは可能だ。もちろん主殺しは相応の代償を払うことになるだろうが、俺の命自体を握っているのはユウトなんだから死にはしないだろ」
「……へ?」
突然魔王を殺す発言をしたレオにずっとあわあわしていたユウトが、不意にぴたりと動きを止めた。
しばらくぽかんとしていたが、やがて不可解そうな面持ちで兄を見上げてくる。まあ、本人が寝ている間に魔王とレオの間で交わされた命の紐付けだ。知らなくて当然、そんな反応にもなるだろう。
「僕がレオ兄さんの命を握ってる……?」
「俺の魔力の無さは死人並みだからな。本当ならいつ死んでもおかしくないらしい。その生命活動のための最低限の魔力を、俺はユウトからもらっている」
「……何それ、僕知らないんだけど」
「そうだろうな。お前が寝てる間に魔王が勝手にやったことだし。まあおかげでユウトが死なない限り、基本的に俺も簡単に死なない身体になった」
「え、それって……逆に、もしも僕が死んだら……?」
「ユウトがいなければ、俺単体では生命維持するための魔力が枯渇してるからすぐに死ぬ」
正直これはありがたい話だ。ユウトが死んだあとの世界などレオは何の興味もないのだから。下手に自分だけ生き残ってしまったら、怒りと悲しみに狂って世界を破壊しかねない。
もちろん可愛い弟を死なせないことは大前提だが、生死まで共にあると確定していることは、この兄にとって何よりの福運なのだ。
そしてこれを公言することは、レオにとってはさらなるメリットがあった。
「僕が死ぬと、レオ兄さんも死ぬ……」
呆然と呟く弟の顔から血の気が引いている。良いことだ、そうやって噛みしめて欲しい。
自己犠牲のきらいのあるユウトは、仲間や世界を救うためならその命を差し出す危険性があった。他人のために、自分の命をとても軽んじるのだ。
だがそこに、弟が一番重きを置くであろう兄の命が乗ったらどうか。きっとユウトは何としても生き残ろうとしてくれるはず。
これなら今後ホーリィの魔法の存在を知ったところで、安易に使うことはあるまい。……昔のように、レオのために死のうとする心配もない。これ以上の抑止の言葉は必要ないだろう。
そうなれば、残る問題はこの一点だけだ。
レオは蒼白したままの弟に、再び低い声で語りかけた。
「話を戻そう、ユウト。魔王を殺して俺の心を証明してやろうか?」
本来の話題に引き戻すと、ユウトは大仰にびくりと肩を揺らした。
「そ、それは駄目、絶対! 僕の魔力をレオ兄さんに紐付けたのが父さんなら、外すのもすぐじゃない! レオ兄さんの方が戦う前に死んじゃうよ!」
「ああ、それもそうか」
どうせユウトが頷くわけがないと分かっていたから、あまり深く考えていなかった。そんなあっけらかんとした兄を前にユウトは脱力したようで、大きなため息を吐く。どこか呆れたような、しかし柔らかな吐息が、緊張した空気を押し流した。
「証明とかいらないから。疑ってごめん。レオ兄さんはやっぱり誰にも縛られてないレオ兄さんだよ」
「……お前、面倒臭くなって適当言ってないか?」
「ううん、本気でそう思ってる。隷属契約で主人に当たる父さんを殺すって言える時点で、父さんがレオ兄さんの意識を弄ってないのは分かるもの。……それ以外にも、僕が自分で色々鑑みた結果だよ」
色々、というのが何を指すのか分からないが、どうやら納得をしてくれたようだ。良かった。このまま怒っているテイで進むことになったら、疑念が晴れるまで安易にユウトを可愛がれない状態になるところだった。それはレオにとってかなりでかいダメージ。戦闘意欲すら半減するレベルだ。回避できて助かった。
もちろんそんな安堵などおくびにも出さずにただ怒気を引っ込めると、ようやく威圧感のなくなった兄に弟は気が抜けたようにふにゃりと笑った。
「まあ父さんの暗示なんてあろうとなかろうと、僕がレオ兄さんに心から良い弟だと思ってもらえるように、日々頑張ればいいだけの話だしね」
「くっ……! 何だこの健気可愛さは……俺の弟は天使か!? 知ってた!」
和解をしてしまえば躊躇うことはない。
その身体を腕の中に収めて、互いの体温を馴染ませれば全ては元通り。何も変わらぬ仲良し兄弟だ。全て世は事もなし。
だがその傍らで、いつもならいちゃつく二人を生温い目で見守っているエルドワが、珍しくそわそわと落ち着きのない様子を見せた。
ついさっきまで普段通りだったのに、一体どうしたのか。緊張を解いてからのこの数分間に、何があったのだろう。
尻尾も持ち上がり、耳もピンと立っている。
「エルドワ、どうした?」
不思議に思って訊ねると、エルドワはレオを見、それからユウトを見、再びレオを見た。
「……なんでもない。ちょっと、ユウトの匂いが変わった気がしただけ」
「ユウトの匂いが?」
「わわっ、レオ兄さん、嗅がないで!」
拒否られても構わずその匂いを嗅いだが、いつものユウトの甘い匂いだ。変化など分からない。まあ嗅覚に優れたエルドワに対抗しうるわけもないのだが。
「可愛くて良い匂いなことしか分からんな」
「レオ兄さんが嗅ぎ分けられたら逆に怖いよ!」
「レオ、気にしないで。エルドワの気のせいかもしれない」
「気のせい?」
エルドワが、そんな曖昧なことを言うなんて珍しい。わずかな魔力の流れさえ嗅ぎ分ける子犬が、ユウトに関することを気のせいで収めるなんてあり得るだろうか。
……もしや、何か言いづらいことでもあるのか?
そういえば、以前ガントに行ったユウトの魔力の匂いが変わったという時も、エルドワは何も言わず、明かしてくれたのは何も事情を知らないアシュレイだった。
あの時のような変化が、この短時間でまたユウトに起こったとでもいうのだろうか。その詳細が気になるが、こうして濁すということは、この子犬はレオにそれを明かす気はないということだ。
きっと訊いても無駄だろう。
……このゲートを攻略した後、またアシュレイに確認してみるか。
何に付け、ひとまずここでの憂いは取っ払ったのだ。
今は次の敵との戦闘に意識をむけるのが肝要。レオは気を取り直すと、出立までの間、ユウトと共に装備や道具の見直しをすることにした。




