兄、ライネルの殺意を感じる
そこでまた、ふっと視界が暗転した。時間が飛んだのだ。
もちろんすぐに同じベッドの上で景色が戻り、レオは経過した時間を確認するために暦を見る。
日付はさっきの二日後だった。つまり、ライネルの十三歳の誕生日で、立皇嗣の儀式が行われる日だ。
この手の儀式は早朝に始まり、ほぼ丸一日かけて執り行われる。どんなことをするのか、細かいことはレオには知る由もないが、何にせよさすがに今日のライネルがここに来る余裕はないだろう。
今しばらくはこのままだ。
そこまでで一旦思考を区切ったレオは、すぐに体勢を変えて重い身体を持ち上げた。当然、ベッド下にいるユウトの状態を見るためだ。
さっき、だいぶ様子の変わっていたあの卵。あれから二日、どんな変化があっただろうか。
少し急いた思いでベッドの下を覗き込む。
すると常に毛布ですっぽりと包んであったはずの卵が少しだけ姿を見せていて、そこに今までと違う様子を見たレオが目を瞬いた。
「……ヒビ?」
毛布がはだけて見えているところに、いくつか亀裂が入っている。一瞬ひやっとしたが、よく見ればそのヒビは内側から付けられたようだ。
それはつまり、中にいるユウトが付けたもの。
……もしかして、今にも生まれようとしているのだろうか。
この状態の卵に不用意に触るのはまずい。とりあえず邪魔になりそうな毛布を手を伸ばして払って、レオはベッドの上から次第に移りゆく変化を見守った。
「ユウト」
卵の中にいる弟に呼びかける。
すると、亀裂の隙間から「んむー」と返事ともむずかりとも言えるような可愛らしい声が漏れてきた。同時に殻のヒビが増える。これはやはり、ユウトが卵の中から出ようとしているようだ。
つい手助けしたい気分になるが、今のアレオンの身体では非力すぎて役に立たないだろう。それに変に殻を割って、弟を傷付けても困る。
仕方なく、ユウトが自ら殻を割り終えるのを待つ。
時折扉に目をやって誰もやってこないことを確認していたが、考えてみれば今日は立皇嗣の儀式当日。ライネルでなくともアレオンに構っている暇のある者などいないはずだと思い直し、レオはユウトを見守ることに集中した。
「ユウト、頑張れ」
「んんっ」
兄の応援に、卵の中で弟が息んでいるのが分かる。小さな手足が殻を破ってやろうと内側から押し当てられて見えるのが可愛らしい。うん、これはずっと見ていられる。
だがもちろん、その姿を目にし、抱き上げたい気持ちの方が強い。レオは少々焦れた思いでその時を待つ。
「うにゅ~!」
気張る声がいちいち気が抜けていて和んでしまう。
しかし渾身の力を込めたのだろう、やがてその亀裂が広範囲にわたると、何かの臨界点に達したように卵の上部が弾けた。その衝撃に、ユウトが卵の中で転がったのが見えた。
「ユ、ユウト! 大丈夫か!?」
上から卵の中を覗き込むと、ひっくり返ってきょとんとした弟と目が合った。その瞬間、思い出す。
いつだか大きな宝箱に転がり落ちた弟を助けようと上から見下ろした時、妙な既視感に見舞われたこと。あれは、この時の記憶だったのだ。
やはりレオは、当時もユウトの孵化を見届けていた。ではライネルとアレオンは、生まれたユウトをこの後どうしたのだろう? こんな、小さな子を。
ひどい胸騒ぎを覚えつつ、それでも転がったままの弟に手を伸ばす。すると指先を赤子の手でぎゅっと握られて、不安に駆られていたはずのレオがあまりの多幸感に一旦全ての心配事を放棄した。
「かっ……可愛い! くそっ、分かっていたがお前は小さくても大きくても何て可愛いんだ……! 凄まじい可愛いの破壊力(ただしユウトに限る)、末恐ろしい! 何だそのぷにぷにすべすべのほっぺは! 頬ずりせずにはいられんだろうが!」
そのパワーがアレオンの身体のどこに眠っていたのか分からないが、この上なく張りのある声で雄叫んだ兄は、弟をベッドの上まで抱き上げて毛布で包むと頬ずりをする。
いつものユウトの頬もすべすべだが、生まれたてのユウトはつきたてお餅のような柔らかさがたまらない。
それを堪能していると、毛布から手を覗かせた弟に鼻先をぺちぺちと叩かれた。
「レオにいたんっ」
「にいたん……!?」
当然だが中身は紛れもない十八歳のユウト。しかしまだ小さくて回らない舌では、うまく発音できないらしい。それがまた超絶に可愛らしいのだ。以前にいにと呼ばれたのもとても良かったが、にいたんもすごく良い。
「ユウト、もっと俺を呼んでくれ!」
「レオにいたん、レオにいたん! おもいだちた、ぼくおもいだちたよ!」
「……ん?」
ついその可愛らしさにデレデレしてしまっていたが、ユウトの言葉にふと我に返った。
思い出した、とは?
改めて先ほどの不安が去来して、レオは途端に表情を引き締める。そして小さなユウトと真正面から向き合った。
「何だ? 何を思い出した……?」
「えっとね、これからのこと」
「これからの……?」
レオがまだ思い出せていないことを、一足先に弟が思い出してしまった。その表情から、この先に待っているのがおおよそ良いことではないと分かる。
どこかそわそわと落ち着かないユウトは、一度扉の方を見てから言葉を続けた。
「あのね、ライネルにいたまが……」
「兄貴? 兄貴がどうした? ……もしかして立皇嗣の儀式で、何か起こるというのか?」
訊ねたレオに、子供がこくこくと頷く。
「もうすぐ、ライネルにいたまがここにくるの。レオにいたんをころちに」
「は? ……殺し?」
ユウトがそう言った時、今日は灯らないと思っていた扉のランプが黄色に灯った。……ライネルがこの迷宮に入ってきたのだ。
時間を見るともう夕刻、儀式が滞りなく終わっていれば、貴族を招いたお披露目の食事会が始まる頃。本来ならその主役のライネルが、ここに来るなどあり得ない。
何だ、どういうことだ?
さっきまで弟に未来を語っていたライネルが、突然考えを変えてアレオンを殺しに来るというのか?
にわかには信じがたいが、しかしこれがユウトの話となれば疑う余地はない。レオはこの弟を誰よりも信頼しているし、何よりこの子はすでにこの後の展開がどうなるか知っているのだ。
とはいえ、今ユウトからその展開を聞き出している悠長な時間はない。レオはすぐに頭を切り換えた。
「兄貴が俺を殺しに来る、か……。兄貴の足だとここに来るまで五分くらいしかないな。武器を持ってこられると厄介だが……まあいい。ユウト、お前は巻き込まれたら危ないから、ベッドの下に隠れていろ」
どうせここは過去の再現。この場面でレオとユウト、そしてライネルは死ぬことはないのだ。
そう考えたレオに、ユウトはふるふると首を振った。
「だめ、ぼくのことはこのままだっこちてて。あのときとおなじにちないと、たぶんレオにいたんもライネルにいたまも死んじゃう」
「……ここはゲートが見せているただの過去の世界だぞ? その結末が変わったくらいで、現実世界に影響などないだろう」
「げんじつせかいはかわらないけど、けつまつをまちがうと、ぼくたちがここからでられなくなるかもちれないの。ここにながれるまりょくが、むこうのめいきゅうとリンクちてるみたいで……」
この世界に流れる魔力が、現実世界の迷宮に漂う魔力とリンクしている? それはつまり。
「……もしかして、ここは過去の再現を見せるだけの世界じゃなくて、正しくクリアしないと現実に戻れずにゲームオーバーという、ゲートの仕掛けの一部ってことか?」
「ん、たぶんそう」
ユウトの話を聞いて、レオはどうせこの世界では何をしようが死ぬことはないと思っていた自分の甘さに眉間を押さえた。
考えてみれば、ゲートがご親切に過去を見せてくれるだけの世界を用意するわけがないのだ。おそらくここで正解を出さないとこの世界を永遠に抜け出すことはできず、多分だが他の仲間たちが現実世界の迷宮の奥に辿り着いても仕掛けが作動せず、何も起きないのだろう。
この世界は現実世界の迷宮を正しく稼働させるためのトリガーなのだ。
ならば、従うしかあるまい。すごく嫌だが。
「……兄貴が俺を殺しに来るのに、ユウトを抱っこしていて大丈夫なのか? お前が危ない目に遭うのが一番嫌なんだが」
「えっとね、ぼくががんばるからだいじょぶ!」
「いや、そうじゃなくてだな……」
大丈夫の意味が違う。ユウトのズレた返事にそう物申そうとして。
しかしレオは次の瞬間に黙り込んだ。
足音が聞こえるよりも先に、遠くから殺気を感じたのだ。強い殺意が、この部屋に向かってくる。
「兄貴……」
その気配はライネルのもので間違いない。
レオはユウトを抱きしめてその来訪を待つ。
やがて急ぐ足音がやって来て、アレオンの部屋の扉の前で止まった。




