兄、絶望する
「私よりも君たちの方がまずい! すぐにその場から離れて!」
落とし穴にはまったのでは、と危惧したレオの呼びかけに、クリスの慌てたような声が返ってきた。
どうやら無事なようだ、と思った途端、はたと感じた足下からの鋭い殺気に、ぞわと背筋が寒くなる。
この寒気を、レオは過去に一度感じたことがあった。あれはいつのことだったか、なぜか思い出せないけれど。
……とにかく知っている。この感覚を。
これは、『もはや為す術がない』と直感的に気付いた時の、純然たる絶望だ。
その瞬間に、四方八方からトレントの根の標的にされているのが分かった。通常のトレントの根は十一本しかないが、この亜種はそれより遙かに本数が多いようだ。おそらく数十本。それがレオたちを狙っている。指一本でも動かせば襲いかかる様相だ。
上を見れば同じように枝も凶器へと化していて、こちらを助けに来ようとしたのだろうキイとクウもツタに足を絡め取られ、同じようにその標的とされていた。
強力な羽ばたきやブレスを持ってしても、そのツタを引きちぎる事ができない。
これは満を持して仕掛けた落とし穴にレオたちがはまらなかったことで、トレントが次の一撃で仕留めようと渾身の力を向けてきているからに違いなかった。
何という殺意。もはや自力で回避できる隙がない。
迎え撃つにも場所が悪すぎる。足下は遮るものが何もなく、レオたちは沈下無効によってかろうじて宙に浮いている状態なのだ。足の下に何もないのだから、踏み切ることも踏ん張ることもできない薄氷の上にいるようなもの。こんなところで攻撃に対応できるわけがなかった。
……ただし、これが物理攻撃であるならば、ユウトが掛けてくれた初撃の物理攻撃無効が発動するはずだ。今までトレントが様子見で有効打を放ってこなかったおかげで、まだ温存できている。
それに期待をして、しかしそれでも未だ収まらぬぞわぞわとした寒気に、レオは眉を顰めた。
(一度大きな力を放出すれば、さすがにランクSSSの魔物と言えど次の発動に相当時間が掛かるはずだ。その間に攻略すればどうにかなる。……だが、この悪寒は何だ? トレントから尋常ならぬ殺気を向けられているせいか、それとも……)
為す術がなく死を待つのみという絶望は、レオには馴染みがない。
記憶のどこかにある一度きりの不確かなもの以外、感じたことがなかったからだ。
おかげで、絶望を抱えた上での主精霊の加護任せの待機が、正解なのかどうかも判断がつかなかった。
なおかつ、それをじっくりと精査するだけの時間もない。
一番動きの速いネイがしびれを切らして何かをしようと身じろいだ、その瞬間。それをさせじと周囲の地面が震撼し、凶器となった根と枝が激しくしなった。切っ先の全てがレオたちに向けられる。
来る。
緊張と共にそう思ったその途端、ちりっと魔力の爆ぜる感覚がして、レオは思わず目を瞠った。
これは、魔力の導火線に火が点けられた感覚だ。
事前に先を読み、あらかじめ大きな魔法を潜めておいて、小さな魔法でそれを起爆する大仕掛け。おおよそ知能の高い魔族しか使わない戦法を、この魔物が使用するとは。
つまりこの攻撃は、物理防御にのみ気を引かせておいて、その実は物理に魔法を重ねたW攻撃なのだ。
まともに食らえば当然ただでは済まない。
さっきトレントが魔法反射と物理反射を重ねられるのだと気付いた時点で、ここまで読んでおくべきだった。
やはりランクSSSの亜種は、レオたちの想像を超えた能力を持っていたのだ。
ここまで来ると、死への恐怖も通り越して、もはやレオは呆然と絶望していた。
引火した魔法が周囲で膨れあがり、鋭い切っ先も迫るけれど、今さらどう反応したところで意味もない。為す術が、ない。
「ユウト……」
ただ一人、どうにかあの子だけが生き残ってくれれば。
そう思ってその名を呟いた時だった。
「白き障壁!」
予想外にすぐ近くで、弟の声がして驚いた。
唐突に視界が大きく開け、一瞬混乱してしまう。
すぐ側にはクリスやネイ、エルドワやキイとクウもいて、やはり驚いた様子できょろきょろと周囲を窺っていた。
声がした方を見れば、レオたちを護るようにユウトが魔法障壁を張っている。
その向こうではエリアを覆うほどの爆炎、爆雷が吹き荒び、ザクザクと獲物のいなくなった場所を突き刺す音がしていて、レオたちはようやく自分たちがあの場所から助け出されたのだと思い至った。
そう、『招集』が掛けられたのだ。
ネイが緊張に固まっていた身体の力を抜き、天を仰ぐ。
「……うわあ、助かった~……。あいつポーチからアイテム取り出す隙も与えてくれないから、万事休すかと思ったわ~」
「私も、かなり敵を甘く見てたなあ。あのトレント亜種、こちらが思っているよりかなり知能が高いみたいだ」
「これ、ユウトくんが『招集』掛けてくれたんだよね? 俺たちじゃ魔石を取り出す暇なかったから本当に助かったよ~」
「ガウ」
エルドワが甘えるようにすり寄ると、気付いたユウトが魔法障壁を維持したまま振り向いて、その頭を撫で微笑んだ。
「皆さん無事で良かったです。フィールド内に魔力の揺らぎを感じたので、危なかったら使おうと思って魔石握りしめてました。レオ兄さんも使いどころでは躊躇うなって言ってましたし。ね、レオ兄さん。……レオ兄さん?」
弟にきょとりと見上げられた兄は、未だ一言も発せぬまま、直立で呆然としていた。
さっき振り切った感情が、なかなか戻ってこなかったのだ。
しかし様子のおかしいレオの顔を心配そうに覗き込んできたユウトに、ようやく感情が動いた。
「ユウト!」
「ひゃあ」
突然がばりと弟を腕の中に抱き込む。そのままぎゅうぎゅうと抱きしめれば、何かを感じ取ったのか、兄の背中に腕を回して応えてくれた。それだけで、緩やかにいつもの自分が戻ってくることに安堵する。
「……助かった。ありがとうユウト」
「僕だけ戦闘に参加してなかったから、それほど感謝されることでもないけど」
「いや。お前がきちんと状況を見て判断してくれなければ、俺たちは死んでいた。……お前は無力な俺を救ってくれたんだ。また……」
「うん?」
レオの言葉に、ユウトが不思議そうに顔を上げた。そして言葉を発したレオも同時に目を丸くする。
自分の口からするりと出てきた『また』という科白に、レオ自身も心当たりがなかったからだ。
(……なぜ俺は『また』と言った?)
しかしその理由が分からないからと言って、今の言を撤回する気にはならなかった。見上げてくるユウトもどういうことかと問いかけることはせず、レオの心を探るようにただこちらを見つめている。
もちろん、厳密に言えばこの存在自体がいつだってレオを救っているのだが、そういう話ではない。
(俺は、どこか過去の記憶の中で、ユウトに絶望から救われたことがある……?)
ふと涌き上がった推論に、心は違和感を覚えなかった。この感覚を、自分は信じていいのだろうか。確かめてみたいけれど、これを記憶を失っている弟に訊ねるのはおかしな話だ。
探るのなら、自分自身の記憶の底。
レオはユウトの温もりを確かめるように、再び強くその身体を抱き込みながら目を閉じた。
五年前、ユウトがホーリィを唱えた時の恐怖や、戦闘中幾度となく直面した死の気配とは違う、純粋で孤独な絶望の記憶。
たぐる記憶の糸は、慎重に辿ってもすぐに途切れてしまう。
……ユウト、お前は一体いつから、俺のどこに繋がっているのだ。




